第百十七話 憤怒の闇
「リリィ、落ち着いて!!」
ルルーシュの静止を振り切り、莫大な魔力を纏った少女は疾駆する。
限界を超えた出力に耐え兼ねた体が悲鳴を上げ、皮膚の一部が裂けて血を流しながら、力の限り手にした木剣を振りかぶる。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!」
戦術も何もない、真正面からの突撃はあっさりと回避され、何の成果も得られないまま空を裂く。
大振りの一撃が床を叩き、そのまま爆砕する様を目の当たりにしたライボルトは、小さく呻いた。
「っ、なんという魔力だ……!」
ただ魔力をばら撒くだけの、魔法とも呼べない魔法以下の何か。
そんな代物が、まともに受ければどんな大魔導士だろうと一撃で打ち倒される力を秘めているという事実。
話には聞いていたが、実際に目の当たりにしても尚信じがたい気持ちでいっぱいだった。
「だが、そんな雑な動きではな……!」
続けて襲い掛かる第二撃を、軽く身を捻ることで回避したライボルトは、抜剣と同時に刀身へと魔力を込めることで威力を引き上げ、流れるような所作でリリィの胴を薙ぎ払う。
確実に入ったと確信した一撃は、しかし硬質な障壁に阻まれるようにして防がれ、致命打には至らなかった。
それでも、障壁越しに伝わる衝撃で大きく吹き飛び、無様に転がっていく少女を見据え、ライボルトは小さく息を吐く。
「防護魔法……この俺の一撃を防ぐとは、強度だけは大したものだ。だが、構成自体は未熟なようだな、まるで素人だ」
「ぐっ、くぅ……!!」
容赦ない指摘に悔しさを滲ませ、歯を食いしばるリリィ。
よろよろと起き上がりながら顔を上げた彼女の目からは滂沱の涙がとめどなく溢れ、怒りと悲しみを宿した真紅の虹彩が爛々と輝いていた。
「どうして、ですか……」
「ん?」
「どうして、こんなことを……!! シルヴィアさんも、ティアラちゃんも、あなたの娘、家族でしょう!? なのに、どうして!?」
横たわる二人の体を庇うような位置取りで、リリィは咆える。
ここで何があったのか、リリィには全く分からない。
状況からして、目の前に立つ男が元凶であることは疑いようもないのだが、それでもどこか、そうであってほしくないという思いから、内なる衝動を必死に堪え問いかける。
しかし、それに対する返答は、どこまでも残酷な現実だった。
「超級魔法を実現させるためだ。そのために必要なこの“高貴なる血水晶”を作成する儀式に、王家の血を受け継ぐ人間の生贄が必要だった。本来は、そこに転がる出来損ないの娘一人で事足りるはずだったが……ふん、その程度の犠牲も許容できないようではな、シルヴィも存外甘い。やはり、当主には向いていなかったのだろうさ」
「超級、魔法……? そんなもののために、家族を……?」
「そんなもの、だと? この力さえあれば、王国と帝国の長きに渡る闘争に終止符を打てる。帝国を滅ぼし、王国に永久の繁栄をもたらすことが出来るだろう。俺がランドール家の当主となり、頭の固い王家に代わってそれを為す。この国の未来を切り開くのはシルヴィではない、この俺だ」
彼の瞳に宿るは、嘲笑か、憐憫か。
その手に握った真紅の結晶体を見つめる姿からは、この事態を手放しで喜んでいるようには見えないが……それでも、リリィの理性を吹き飛ばすには十分過ぎる言葉だった。
「ふ、ざ、ける、なぁぁぁぁぁぁ!!」
更に膨れ上がる魔力が、漆黒の稲妻となって地下室を満たし、常夜の世界へと塗り潰す。
大した実力者ではないと、頭ではそう分かっているライボルトだったが、空間を軋ませるほどの圧力を前に本能的な恐怖を覚え、冷や汗が伝うのを止められなかった。
「帝国を滅ぼす? 永久の繁栄? そんなふざけた理想のために、家族を犠牲にしたっていうんですか、あなたは!?」
「ふざけた、だと? 帝国との戦いで、どれだけの王国兵が犠牲になったと思っている。奴らを滅ぼさない限り、王国に未来などない」
「何の罪もないシルヴィアさんとティアラちゃんの未来を奪ったあなたに、未来を語る資格なんてありません!! もし本当に、二人が死ななきゃ平和にならないと言うのなら、そんな平和……!!」
ぎしり、と、リリィが手にした木剣が軋む。
幼い少女が抱く、生まれて初めての感情。怒りとも悲しみとも違うドロドロとしたそれに応えるように、木剣に宿る魔力がより攻撃的なシルエットを形作る。
見るも悍ましい、巨大な漆黒の大剣へと。
「私が、ぶち壊してやります!!」
そう叫び、振り下ろされるは破滅の刃。
触れた瞬間、人間ですら爆散しそうなほど濃密な魔力が込められたその一撃は、並の騎士や魔導士なら、目にした時点で心を折り、その場に膝を突くほどの威容を誇る。
ライボルトもまた堪らず回避を選択し、爆音と共に吹き飛ぶ床面を目の当たりにしたことで、思わず息を呑んだ。
「そうですよ、私が間違っていました」
そんな圧倒的な破壊を撒き散らした少女はと言えば、堪え切れない自責の念を表情に浮かべ、まるで幽鬼のような足取りでライボルトの元へ歩み寄る。
「お兄様やルル君の言った通りです……あれこれ考えて遠慮するなんて、私らしくなかったです」
今回、リリィはシルヴィアやティアラの事情を聞いて、仲良くなって負担を和らげようとはしていたが……その問題そのものには首を突っ込もうとしなかった。
家の事情は千差万別、深く首を突っ込むのは失礼だと、一線を引いて付き合っていた。
そんな過去の自分を思い、リリィは更に怒りを募らせる。
「もっと……もっと最初から、二人の事情を知ろうとしていれば……! 遠慮なんてせず、二人とちゃんと向き合っていれば……! こんなことには、ならなかったかもしれないのに……!!」
たらればの話など、したところでどうにもならない。二人は既に血溜まりに沈み、あの笑顔を見ることなどもうないのだろう。
それでも、考えてしまう。ああしていれば、こうしていればと、無制限に沸き上がる後悔の念が、リリィの心を蝕んでいく。
「う……あぁぁぁぁぁぁぁ!!」
悲嘆の咆哮を上げ、刃を振り回す。
感情のまま、ただその鬱憤を晴らさんとするかのように繰り返される猛攻は、まるで獣のようで――
ライボルトからすれば、まるで相手にならなかった。
「……曲がりなりにも王国貴族に列せられる人間が、自らの手で平和を壊すなどと発言するなど……」
その鋭い双眸に怒りを添え、剣を構える。
周囲を満たす魔力の妨害などものともせず、自身の内なる魔力によって身体能力を引き上げていく。
「恥を知れ、アースランドの娘!!」
「ぐっ、はっ……!?」
ライボルトの体が掻き消え、ほぼ同時に襲い掛かる衝撃。
何が起きたか分からないまま、再びリリィの体は弾き飛ばされ、壁面へと叩き付けられた。
「うぅ……! 何、が……?」
「遅い」
「っ!?」
それでは終わらず、体が地面に落ちるよりも前に、横殴りの衝撃が襲う。
吹き飛ばされ、叩き付けられ、意識がそれを認識した頃には、またも吹き飛ばされる。
目まぐるしく回転する視界の中、リリィは全身を襲う痛みに耐えるばかりになっていた。
「ふん、俺のことを何も知らずに挑みかかって来たのか? 随分と舐められたものだな……!!」
声が聞こえるも、そちらを見ても姿は見えず。ただ四方八方から衝撃だけが襲い来る。
滅多やたらに黒魔の大剣を振り回すも、周囲の壁や地面を砕くばかりで掠りすらしなかった。
「リリィ!! ライボルト・ウィル・ランドールの異名は“神速騎士”!! 目にも止まらない高速移動の魔法を得意とする、スピードタイプの騎士だ! カロッゾさんにも匹敵するって言われてる実力者相手に、そんな適当な攻撃じゃ通じない! まずは守りを固めて……!」
「……んな、こと……」
「え……?」
「こんな人が、お父様に匹敵する!? そんなことあるわけありません!! 神速騎士だかなんだか知りませんが、お父様の、“黄金騎士”の名に懸けて、私がこの人をぶっ倒します!!」
嬲られるばかりのリリィに、ルルーシュが必死に声をかけるも、その声は彼女に届かない。
友人二人の無残な姿を目の当たりにして、完全に頭に血が上っている。元より勝ち目の薄い戦いではあるが、あれでは一矢報いることも出来ないだろう。
ああなった彼女を、一度冷静にさせるには――
「ああくそ、まさかこんなところで使うことになるなんて思わなかったよ!!」
ルルーシュは、すぐさま懐から魔動器――隠匿剣を取り出し、起動。暴れ回るリリィ目掛け投擲する。
訓練用に刃が潰された状態で生成されたその剣に、更に打突の際の衝撃を緩和する魔法を重ね掛けしながら飛翔するそれは、狙い違わずリリィの側頭部に命中した。
「落ち着け、バカリリィ!!」
「っ、ルル君……」
「いいか、シルヴィア様もティアラも、まだ生きてる!! 助けたかったら冷静になれ!!」
「えっ……!?」
血溜まりに沈む二人を見て、既に死んだものと思い込んでいたリリィの目が、驚愕に見開かれる。
確かに、二人の状態は最悪に近い。ライボルトの言う儀式のためか、感じ取れる魔力が極端に小さく、衰弱が激しい。特にシルヴィアなど、既に呼吸も止まってしまっていた。
しかしルルーシュの見立てでは、まだ蘇生可能な範囲内だ。幸い、この地下室という密閉空間にはリリィが感情のままばら撒いた膨大な魔力が満ち満ちているので、ルルーシュの制御能力ならほぼ無尽蔵に魔法が使える状態だ。救命措置をするならば、理想に近い環境である。
「二人は必ず僕が助ける。だからリリィ、意地でも耐えろ!! 勝たなくていい、時間を稼いで、僕が手を貸すまで生き延びろ!!」
「っ……はい!!」
ルルーシュが自身と二人の姉妹の周囲に結界魔法を張り巡らせたのを見て、リリィの瞳に正気の光が舞い戻る。
悍ましい退廃的な雰囲気を醸し出していた漆黒の大剣が、リリィの心を反映するかのように落ち着きを取り戻し、鋭く、強固な夜空のように澄んだ黒曜石の太刀へと姿を変えていく。
「どちらにせよ、この場を見られた以上、お前達を含めて生かして帰すつもりはない。多少冷静になったくらいで、俺の速度について来れると思うなよ……!!」
再び襲い来る、神速の斬撃。
リリィの人並外れた魔力が発生させた防護魔法のお陰で命を繋いでいるが、リリィ以外であれば既に何度命を落としているかも分からない、必殺の一撃だ。
それを、リリィは真っ直ぐに待ち構え……そっと、斬線の行きつく先へ黒太刀を添える。
これまで、適当に繰り出すばかりだった攻撃一辺倒の少女が見せた受けの姿勢に、ライボルトは僅かに反応が遅れ――
パキィィィン!!
その刃が振れた途端、剣が粉々に打ち砕かれた。
「ちっ……!」
だが、そこは曲がりなりにも、カロッゾと並び称される歴戦の騎士。剣を失った程度では動じず、その高速で以て一度距離を取ったかと思えば、即座に反転。標的を変え、ルルーシュへと襲い掛かる。
(この娘の性格ならば、仲間を攻撃されれば動揺するはず、その隙に……!?)
そんな思惑のライボルトだったが、不意に背中をぞくりとした悪寒が駆け抜け、すぐさま飛び退く。
直後、彼の向かおうとしていたその先に、リリィの持つ漆黒の刃が伸縮し、襲い掛かって来たのだ。
(バカな、冷静になった程度で見切れるほど、俺の速度は甘くは……まさか、読心か先読みの類の魔法を習得しているのか? この歳で?)
表面上は冷静なまま、リリィに対する警戒心を一段階引き上げるライボルト。
そんな彼に対し、リリィは燃え滾る決意をその瞳に宿し、宣言した。
「これ以上、あなたの好きにはさせません。どれだけ実力差があろうと……たとえこの体が砕け散っても!! 私の友達だけは、絶対に守り抜いてみせます!!」




