不思議 #1
「やっと気が付いた。大丈夫? ナッチ」
半べそをかいて、私の目を覗き込む由美の顔が見える。
「あれっ? 私、どうして…」
体を動かそうとして、自分が横になっていることに気がついた。
起き上がろうとすると、頭がクラクラする。
「駄目! まだ起きちゃ。もう少し横になってて」
と由美に諭された。
由美が私の手を握る。由美の手の温もりと湿り気が伝わってくる。
「どっか、痛いとこある。痺れてる所とかない?」
由美に言われ、自分の体を探ってみる。特に異状は感じられない。
「大丈夫みたい」
「良かった。もう少し、こうしてるね」
「ごめん。由美。ってか、ありがとう」
「いいんだよ」
思い出した。オバケ病院の中を探検していて、気を失ったんだっけ、二階の鏡の
前で…。
ん。確か…、由美は二階に上がるのが怖くて一階に居たはずじゃ?
「由美。怖いんじゃない?」
「怖いよ…。でも、ナッチが大事だから」
由美…。
さっき、由美のことを頼りない護衛隊長だとか思っていた。
そのことを心の底から後悔する。由美ほど私を想ってくれてる子は他にいない。
「由美。ごめん…。ほんと」
「…大丈夫。平気だよ…」
私は、それに答える代わりに、由美の手を強く握り返した。
○
五分ほど横になっていたら、立てるようになった。
私と由美は逃げる様にしてオバケ病院の外に出た。
「ナッチ。埃まみれになっちゃたね」
「私は平気。でも、由美も汚れちゃったね。ごめん」
「いいのよ。洗えば良いんだから」
ほんと、由美が居てくれて良かった。私一人だったら、どうなってたか。
由美は大人しく見えて芯の強い子だと思ってたけど、間違いではなかった。
「ナッチ。結局、ナッチが見た何かって、わかったの?」
ううん。と弱々しく首を振る。
「そうか。残念だったね」
本当に心残りだ。私は確かに何者かに呼ばれていたのに…。
結局、私がオバケ病院で逢えたのは、鏡の中にいる怯えた顔の自分だけだった。
病院敷地に入ったのと逆で、工事用フェンスの隙間を抜けて道路に戻る。誰かに
見咎められた様子はない。少し安心。
「ナッチ。大丈夫? 家まで送ろうか?」
ありがたい申し出だけど、これ以上由美に迷惑かけるのは心苦しい。
そのことを正直に由美に伝えたら、名残り惜しそうに何度も私を振り返りながら
由美は自宅への帰路についた。
ほんと、ありがとう。由美。大好きだよ。
○
そこから五分も歩けば家につく。その頃には、すっかり元気を取り戻して、昏倒
していたことが嘘のようだ。だけど、失神が嘘でない証拠にはスカートからシャツ
まで全身埃まみれになっている。病院の建物を出たとき、埃は粗方叩いてはおいた
のだけれど…。
「ただいまー」と遠慮がちな声色でドアを開ける。
「おかえりなさい」とお母さんの声。
次の言葉を発するのがためらわれたが、黙って家に上がるわけにもいかない。
「お母さん。ごめん、洗濯カゴ持ってきてくれない」
えー。どうしたの。と、お母さんが台所の方からやってきて、私の姿を見るなり
息を飲んだ。
「な、何。いったい何があったの?」
「転んだ」
「なんでまた」
「クラッとなって、気が付いたら転んでた」
と失神した事実だけを伝えた。オバケ病院探検の件は、伏せておこうと思う。
「失神したの? 大丈夫?」
「多分そう。でも、今は大丈夫」
「痺れるてるとか、頭痛いとか、吐き気とかは?」
「今は平気。倒れた後、少し横になってたから…」
「まぁ」
「由美が傍に居てくれた…」
「そう。よかったわね。で、一体何があったの?」
「その前に、屋上でバスケやってた…」
「じゃぁ、熱射病かしら?」
「そうかも…」
「…。えーと、そうだ、洗濯カゴだったわよね…」
お母さん、慌てて洗濯籠を取ってくる。
「とにかく汚れ物脱いで、お風呂入って、そしたら暫く横になってなさい」
ほんと、心配かける娘で御免なさい。
汚れたブラウスとスカートを洗濯カゴに入れ、下着姿で急いでお風呂場に…。
と、脱衣所の引き戸を開けたところで、足が止まった。
脱衣所には洗面台と洗濯機が同居している。洗面台には当然ながら、鏡がついて
いるのだが、鏡に自分の姿を映すことに抵抗を感じる。
先ほどオバケ鏡(オバケ病院にある鏡だから、オバケ鏡と呼ぶことにする)の前
で魂を吸い取られるような感覚と共に失神した。だから、今は鏡に映りたくない。
とはいえ、鏡の前を通るのだから映らない訳にはいかない。仕方がないので、鏡
に背中を向けて洗面台の前をやり過ごした。
バスルームに入ると、また鏡。普段は気にもしていなかったけど、家の中って鏡
だらけだ。幸いな事に、我が家のバスルームは、座ったときの目の高さに鏡が設置
されている。だから、シャワーを浴びる分には体が映るだけ。
けれど、体が映るのさえ遠慮したい気分。
水がお湯になるまで、シャワーを流し続ける。バスルームが湯気で満たされる。
鏡に映る私の体も、湯気越にぼんやり見える。
そこで漸く、私は安心してシャワーを浴びる気持ちになった。