ナッパ #1
「芽菜ッチからも、言ってやってよ。シゲル君、またサボるつもりだよ」
あれ? えーと、何だっけ。
「ねえ。芽菜ッチったらぁ」
あーちゃんだ? それも小学生のときの。
いったい、ここどこ。
小さな椅子と机。黒板に書かれた日直の名前。壁に貼られた時間割。後ろの壁に
掲げられた習字や水彩画。
みんな見覚えがある。
ここは五年一組の教室?
「あっ、シゲル君。来た」
坊主頭のシゲルが教室に駆け込んできた。
「あれっ。お前らまだ居たの」とシゲルが露骨に嫌な顔をする。
「シゲル君。また、サボるつもりでしょ」とあーちゃん。
「うるせえな。ヤギの餌やりなんて、やってられっかよ」
あー。わかった、わかった、状況が。
シゲルのやつ、また生きもの係をサボる気でいるんだ。
あーちゃん。だめだよ、シゲルにはもっとガーンと言ってやんないと。
「シゲル!」っといきなり呼び捨てにする私。
シゲルが私の顔を見て、なんだお前も居るのかといった体でしかめっ面をする。
「自分から生きもの係やる、って言ったんだからね。やることやってよ!」
「そんなの俺が居なくても、お前らだけでやれるだろうが」
「あんた、サボってばかりで分からないでしょうけど、今日はヤギ小屋の掃除の日
なの! 今までサボってた分、うんと働いてもらうから」
むむむ、とシゲルが眉間に皺を寄せる。
「普段、調子の良い事ばっかり言ってて、自分で約束したこと守らないなんて最低
よ。うそつき」
シゲルの皺が深くなる。
「どうしたの。何も言い返せないの。当然よね。全部うそつきのあんたが悪いんだ
もん!」
シゲルの顔が真っ赤になる。握りしめた両の拳が震えている。
あーちゃんが寄ってきて、私の袖口を引っ張りながら
「もう、やめようよ」
と声を出さずに口を動かす。
「いいの! シゲルにはこのくらい言わなくちゃ分から…」
「うるせー!」
逆ギレしたシゲルの大声が、私の言葉をかき消した。
「そんなにヤギの世話がしたけりゃ、お前一人でやれ。ナッパ」
シゲルの発した『ナッパ』の一言に私は息を呑む。
体が氷のように硬直して動けなくなる。
いつもなら、二倍三倍と言い返すのに。この言葉で撃たれると私は何も出来なく
なる。
「どうした。ナッパ。さっきの威勢はどこいった。そんなに、ナッパって言われる
のが嫌か。ほれ、ナッパ、ナッパ、青ナッパ」
言葉の石礫に穿たれ、私の元気がしぼんでいく。胸のあたりが冷たくなり、胃が
痛くなってくる。
こわばっている私を見て力を得たのか、シゲルが私の目の前までやってくる。
「なんだ。ナッパ。さっきは偉そうにしてたのに、泣きそうじゃねえか。泣けよ。
ナッパ。泣いて見せろよ。ナッパ」
あーちゃんが、私とシゲルの顔を交互に見比べながら、怯えたように後ずさって
いく。
『ナッパ』この嫌な渾名をつけたのは剛ちゃんだ。
幼馴染の剛ちゃん。小さい頃からいつも一緒に遊んでた、周りの大人たちからは
兄妹の様に仲良しだと言われていた。
剛ちゃんは一番たよりになる男の子だった。
幼稚園のとき、私にまとわりついた野良犬をたった一人で追っ払ってくれた。
小学校3年のときには、クラスの虐めっ子たちから私を庇ってくれたりもした。
私にとって誰よりも近しい存在の剛ちゃん。
でも、一週間前。一学期が終わると、アメリカに引っ越して行くと告げられた。
剛ちゃんと一緒なのが当たり前だった。いつも隣にいるのが普通だった。
その剛ちゃんが居なくなってしまう。もう、一生会えないかもしれない。
そう思うと、自分の半分が無くなってしまう様な悲しさで胸が一杯になった。
その悲しさを溢れさせて、思いっきり泣きたかった。
だけど…。
本当に悲しい時は、涙も出ないんだということを、生まれて初めて知った。
そんな時だ。剛ちゃんが私を『ナッパ』と呼ぶようになったのは。
それまでは、芽菜ちゃんとか芽菜とか呼んでいたのに…。
理由はよくは分からない。私たちだけの間で通じる、特別な呼び方が欲しかった
のかも知れない。
けれど…。それまで心の通った”幼馴染”だったのに、突然”物”扱いにされた
ようで、私はその綽名がどうしても好きになれなかった。
お前は菜っ葉だ、ただの菜っ葉に過ぎないんだ。そんな風に言われているように
感じた。古くて傷んだ野菜が打ち捨てられて忘れ去られるように、剛ちゃんが私と
の思い出を要らないものとして消し去ってしまうのではないか。そんな風に思え、
その渾名で呼ばれる度に心が痛んだ。体が竦んで動けなくなった。
剛ちゃんはクラスの中で目立つ方なので、この渾名は瞬く間にクラス全員に知れ
渡った。しかも、私がこの渾名を聞くと竦み上がることを知って、いつも私にやり
込められていた一部の男子が、ここぞとばかりに囃し立てた。
その名で呼ばれることがとても苦しくて…、辛くて…、悲しくて…。
もう、その名で呼ばないで欲しいと剛ちゃんにお願いした。
その時、いろんな思いが頭の中でゴッチャになって、私は剛ちゃんの前で初めて
泣いた。
剛ちゃんも、私の涙がショックだったようで
「俺がなんとかする」
と応えてくれた。それが、昨日。
ガラガラッ。教室の引き戸が開き、剛ちゃんが入ってくる。
「なんだ、シゲル。戻ってたのか? 今日はヤギ小屋の…」
私とシゲルの只ならぬ様子をみて、剛ちゃんの言葉の語尾が消えていく。
あーちゃんが、恐る恐る状況を説明する。
「シゲルくんがサボって帰ろうとしたの、それを芽菜ッチが止めようとしたら…」
あぁ、そういうこと。と全部を理解したような顔で剛ちゃんが頷いてみせる。
「サボりじゃねえよ。俺だって普通に言われりゃ掃除くらい。それをナッパが…」
「シゲル」
出鱈目でその場を誤魔化そうとしたシゲルの言葉を剛ちゃんが遮る。
「芽菜のこと、そう呼ぶの止めてくれないか。今から、芽菜は…ナッチだ」
「はぁ!?」
「女子は芽菜のこと芽菜ッチ、芽菜ッチって呼んでるだろ。だから、ナッチ」
「何だそれ? 第一、もともと剛が言い出したんだろ。ナッパって…」
「シゲル。いま、その呼び方は止めろって言ったよな、俺」
剛ちゃんが今まで聞いたことの無い低い声で凄んでみせる。
「わ、わかったよ」
剛ちゃんに睨まれて、シゲルの声が小さくなる。
「そうか。それと、優しく言ってやるから、ヤギ小屋の掃除に行こうぜ。サボる気
は無いんだろ?」
剛ちゃん、口元は笑っているけど、目はシゲルを睨むつけたままだ。
「い、言われなくても行くよ」
シゲルがすごすごと教室を出て行く。あーちゃんが、剛ちゃんの顔を恐ろしい物
でも見るように注視しながら、シゲルの後に続く。
剛ちゃんが、普段の優しい顔に戻って私の傍にやってくる。
私は剛ちゃんに気づかれないように涙を拭く。
剛ちゃんなら、気づいたとしても、その事をからかったりしないだろうけど。
「ごめんな。本当はナッチって言い方が気に入るかどうか、確かめてからにしよう
と思ったんだけど…。ナッチって言い方、嫌じゃないか?」
剛ちゃんが自信なさげに私に尋ねる。
ううん。と私は小さく首を横にふる。
正直、今聞いたばかりで、『ナッチ』を気に入るかどうかなんて分からない。
だけど、剛ちゃんが私の願いを聞き届けて考えてくれたんだ。そう思うと、嬉し
かった。『ナッチ』なら、好きになれるかもしれない。そう思った。
「そうか。良かった」剛ちゃんも安心したようだ。
「ナッチ。あのさぁ。俺、いままでナッチに言えなかったことがある」
剛ちゃんが急に真面目な表情になった。
「なに」と私。
剛ちゃんは、それまで私を見つめていた視線をあらぬ方に向け、左手で項の辺り
を掻きながら、ボソリとつぶやく。
「俺…、ずっとナッチのこと…」
と、そのとき。校庭側の窓の方からシゲルの声。
「おーい。お前ら、早く来いよ。お前らこそ、サボりじゃねえよな?」
ちぇっ、と剛ちゃんが舌打ちし、「今行く」と大声で返す。
それから私の方を向き直り、
「ナッチ。また、後でな」
と言って、教室から出て行こうとした。
私が動かないでいるのを見ると、剛ちゃんは戻ってきて私の手を握り、
「ナッチ。行こうぜ」と促した。
私は、その場を離れたくなかった。
剛ちゃんと私だけで、ずっとこの教室に残っていたかった。
剛ちゃんと私だけの時間が、ずっとこのまま続いて欲しいと思った。
剛ちゃんが引っ越していく日なんて、永遠に来なければいい。そう願った。
「ナッチ」
剛ちゃんの顔が、私の瞳の中で大写しになっていく。
「ナッチ…」
世界の全部が輝いて見える。
私は…。
私は…
「……。……、…ッチ。ナッチ、起きて」
剛ちゃんの声が、女の子の声に聞こえる。
「ナッチ、起きてってば」
聞き覚えのある声だ。
名前を呼ぶ声とともに体を揺り動かされる。
「ナッチ!!」
頬をペシペシと叩かれて目が醒めた。
ぼんやりした視界のピントがゆっくりと合わさっていく。
気がつくと、私の目の前にいたのは、由美だった。




