発端 #5
病院の表玄関は厳重に封印が施されていた。そこから見える建屋の中は真っ暗で
なんとも不気味。
建物の周りを一周してみる。玄関と反対側の角に通用口が見つかった。
試しにドアノブを回してみると、抵抗なく廻る。鍵は何故か開いていた。
「ここから入れるね」
「誰か居たらどうするの」
私の護衛隊長を任じていた由美だが、ここに来て腰が引けている。
「そんときは、これをぶつけて逃げる」
通学用バックを肩から下ろし、胸の前に盾のように構えて見せる。
「じゃぁ、行く」
ゴクリと固い唾を飲み込み、いざ突入。
「待って…、置いてかないで…」
と私のシャツの袖にしがみ付きながら、頼りない護衛隊長の由美が続く。
病院特有のアルコールの匂いは、既に揮発している。代わりに埃の臭い。電燈が
ついていないので、日中なのにかなり暗い。
通用口からは真っ直ぐな廊下がある。廊下の左右には、診察室、レントゲン室、
処置室などと書かれた部屋がならんでいる。廊下の先には受付と待合室。廊下から
見て、左手が正面玄関、突き当たりはエレベータ。エレベータの向かって右に階段
がある。
エレベータは当然ながら動いていない。私が階段の手すりに手をかけると、
「まだ、行くのぉ。もう、帰ろうよ」
と由美。護衛隊長としては甚だ情けない。
でも、私は二階に上がらなくちゃいけない。だって、私が感じたモノは二階辺り
から発せられていたんだもの。
「私、上に行くね。由美はここで待ってて」
「えー。一人じゃ嫌だ」
「じゃ、一緒に二階に行く?」
由美は、階段の上の暗闇を見やり、すごい勢いでイヤイヤをする。
「じゃ、行くね」
私は由美を置いて、階段を上り始める。ほんと、ごめんね。由美。
二階に上がると、そこはかなり薄暗い空間。ここも待合室のようなのだが、一階
のものとは様子が違う。一階の待合室は、ベンチ型の椅子が、全て受付に向かって
配置されていて、いかにも病院の待合室のようだ。一方、二階のこの場所は、小机
を囲むように、肘掛け椅子が二個三個と配置されている。
そうか、わかった。ここは、入院しているお母さん、あるいは生まれた赤ちゃん
が家族や親類と対面するための談話室なのだ。
よく見れば、南側は全面ガラス張りだ。多分、この産院が運営されていた頃は、
温かい光の差し込むこの部屋で、幸せな対面劇が行われていたんだろう。
しかし、今は破損を防ぐためなのか、ガラス窓は無粋なベニヤ板で全て目隠しが
施されている。
二階は暗がりなので、私は明かり代わりにスマホを取り出す。
談話室からエレベーターの反対方向に廊下が伸びる。廊下の左側には、授乳室、
ナースステーション、新生児室と続く。廊下の右側には個室が並ぶ。更に廊下の奥
には分娩室があるようだ。
廊下を歩きながら、頭の中に高校とオバケ病院の位置関係を思い描いてみる。
あれ、待って。この廊下の方向は、私たちの高校とは逆方向じゃなかったっけ?
ということは…。
私は、おもむろに向きを変える。
キャッ! 何かいる。私の目に、空中に浮かぶ青白い顔が飛び込んできた。
ギュッと体が硬くなる。盾代わりにしていたバッグを、強く抱きしめる。
んんんん。
あれっ…。なーんだ。鏡に映った私だった。
二階に上がった時は暗がりで分からなかったけど、エレベーターの脇に壁掛けの
姿見がある。そこに、スマホのライトで照らされた青い顔の私が映っている。
おっかなびっくりと、鏡のまえまで近寄ってみる。鏡の中には、しかめっ面の私
が立っている。
鏡って普段の生活では身の回りにありふれていて気にもならないけど、こうして
暗がりの中で独りっきりで見ると不気味なものだ。
鏡には映った人の魂が宿る。なんて話を年寄から聞いたような気がする。それが
本当かどうか分からないけれど、こうして、誰も居ない空間で鏡の中の自分と対面
していると、半分に割れたもう一人の自分に、魂を引き寄せられているような錯覚
に陥る。
その錯覚のせいなのだろうか、姿見の掛けられた壁の方から、重力を受けている
ように感じる。重力に引かれ、私の足が勝手に前に出る。
あれ…何だか、意識がぼやけてきたような…。
体から力が抜ける。抱えていたスクールバッグが床に落ちる。また、足が前に。
あっ、ダメ。そっちは…。
頭の中の考える力が、かき消えていく。
下り坂を歩くように、自然に体が前に進む…
いつのまにか、私は鏡のすぐ前に立っている。鏡の中には生気を失った無表情の
私がいる。
ボーっと頭が熱を帯びる。もう何事も考えることができない。目の前に居るのが
自分なのか、鏡に映った姿なのか区別できない。
鏡の中の自分に導かれるように、手が前にでる。
指先が…鏡に…触れる。
その瞬間、私は鏡の中に落っこちた。
スルリッ。
何かとすれ違った。
その感覚を残し、私はそこで気を失った。




