前編
私は、家に帰って鍵をかけると、必ず最初に風呂を沸かす。
そして、地下室に行くのだ。
「ただいま、コッペリア」
部屋に入ると、私はそう声をかける。
コッペリアは今日も動かない。声も出さない。人形なので当然である。
「すまない、遅くなって。すぐに綺麗にしてあげるよ」
この地下室は、いつも結露でジメジメしている。カビ臭さもあり、あまり長く居たくない環境である。
この環境では、コッペリアが早く傷んでしまうかもしれないと不安になる。しかし、彼女をこの部屋の外に出しておくわけにもいかない。
私は、水漏れに備えて置いている洗面器を見る。濁った水が入っていたので、それを捨てて綺麗に洗う。それが終わってから、コッペリアと入浴するのが習慣である。
飾りを全て外し、彼女の衣装を脱がす時、私はとてつもない背徳感に襲われる。
コッペリアは等身大の人形である。体つきは成人女性のものだ。そんな物の服を脱がすなど、人に見せられる光景ではない。
私は、裸にしたコッペリアの体を浴室で丹念に洗い、一緒に湯船に浸かる。
冷えていたコッペリアの体が温まり、肌触りが良くなる。この時間が、私にとっては一日で一番幸せな時かもしれない。
私とコッペリアの出会いは一年ほど前だった。
一部の金持ちしか知らない、極秘の「ある用途」の人形の販売会でのことである。
明らかに堅気の人間ではない連中が売人だったが、商品は素晴らしい品揃えだった。その中でも、私は彼女のことが一目で気に入り、即金で買った。
彼女は元々別の名前で呼ばれていたが、私は自分でコッペリアと名付けた。昔の物語で、ある男が好きになってしまった人形の名前である。
私が彼女に名前を与えて愛撫すると、私を担当した売人は怪訝な顔をしていた。自分であのような商売をしているのに、人形を愛する者の感情が分からないというのは困ったことだ。
コッペリアは、劣情を掻き立てるような格好で売られていたが、その業者は人形に着せる衣装の注文も受け付けていた。一般人が発注すると不審に思われるようなデザインの物でも、コスプレ衣装などと偽って作らせるらしい。
私は、コッペリアに着せる衣装を、ウエディングドレスのようなデザインにした。露出の多い下品な衣装は、私の趣味には合わなかった。
それに、コッペリアの脇腹のあたりには目立つ傷があるのだ。修理は不可能らしく、値段もその分は割り引かれていたので不満は無いのだが、わざわざその傷が見えるような衣装を着せるのは人形に失礼というものだろう。
衣装はとりあえず5着ほど作らせたが、その後20着ほど追加発注した。地下室の環境が悪すぎて、衣装がすぐに汚れてしまうためである。
風呂から出ると、私はコッペリアに新しい衣装を着せて夕食にする。この歳にしておままごとである。
二人分の食事を用意し、彼女を向かいの椅子に座らせる。食べるのは、当然私一人である。一人分が大した量ではないので、食べきることが可能な量だ。
食器を片付け、コッペリアに飾りを付け直し、部屋を後にする。
私はコッペリアと一緒に寝たことはない。それはコッペリアの本来の用途だが、私はそういうことをするために彼女を購入したわけではない。
これは、私なりのこだわりである。
常識的な人間が私のことを知ったら、何と言うであろうか?
変態扱いされることは間違いないし、頭がおかしいと思われることも想像に難くない。
しかし、本当に頭がおかしい人間には、自分がおかしいという自覚は無いはずである。
私には、自分の頭がおかしいという自覚がある。
私はもう40過ぎだ。この歳の男が、人間の女性を愛さずに、人形を愛でることがそもそも普通ではない。高級なアンティークドールや、芸術作品ならばまだ理解されるだろう。しかし、私が愛するコッペリアは、卑猥な目的のために作られた物である。
ベンチャー企業の社長である私がこんな趣味を持っていることなど、他人に知られてはならない。マスコミには面白おかしく取り上げられ、インターネットは炎上し、世間からは白い目で見られるだろう。最悪の場合、私の会社が倒産するかもしれない。よって、私はコッペリアを地下室に隠しているのである。
私は独身で、一人暮らしであるが、誰かが突然訪ねて来るかもしれないし、家に泥棒が入るかもしれない。そんな時に、コッペリアを見られては困るのだ。
地下室の異常について建設会社に文句を言わないのも、コッペリアの存在を知られないためである。
あの地下室には、どこからか地下水が流れ込んでいるようである。あの部屋には頻繁に水漏れがある。とんでもない不備だと思うのだが、我が家には既にコッペリアがいる。もはや、修理業者を招き入れるわけにもいかない。
どこかにコッペリアを隠しても、何かの拍子に見つかってしまう恐れがある。あの子を買うよりも早く、あの部屋の異常に気付いていれば、と思うと残念でならない。
朝起きると、最初にシャワーを浴びるのが習慣だった。
しかし、それでは地下室で汚れる恐れがある。そのため、シャワーは朝食の後で、ということになった。
朝食は地下室で、コッペリアと一緒にとる。やはり二人分用意し、一人で食べることになる。
その際には、彼女を動かす時に邪魔になる飾りを外す必要がある。
これはそれなりの手間で、誰かに知られたら、馬鹿なことをしていると呆れられるだろう。だが、彼女と一緒におままごとをするのが、本当に楽しいのだから仕方がない。
コッペリアの造形は芸術的だが、最も優れているのは瞳だと言っていいだろう。少し潤んでいるような、澄んだ青い瞳である。
コッペリアは、外国の女優を元にデザインされたという。金色のサラサラの髪も、白い肌も、非常に私の好みに合っている。
彼女の美しさの前では、彼女が人形だということなど些細なことだ。世間には決して理解されないだろうが、私は心の底からそう思うのである。
部屋を出る時、コッペリアが「行かないで……」と言っているような錯覚に襲われることがある。私の名残惜しさが原因だと頭では分かっているのだが、罪悪感が生じる瞬間である。
いっそのこと、仕事をやめてこの地下室に引き籠り、彼女とずっと一緒にいたいと考えることもある。
しかし、そういう訳にもいかない事情があるのだ。何より、私にとって仕事は生き甲斐である。
それに、コッペリアは永遠に存在するわけではない。おそらく、私が死ぬよりずっと早く朽ちてしまうだろう。人形としては、劣化が早いことを承知して買ったのである。
コッペリアは特殊な製法で作られている。そのため、非常に精巧に作れるらしいのだが、劣化が通常に比べて早いそうだ。
あの業者は、人形の修理は請け負っていない。そして、コッペリアは決してほかの業者に修理に出してはいけない決まりである。
彼女を作った特殊な技術の流出を防ぎ、企業秘密を守るためらしい。
コッペリアが朽ちてしまったら、新しい人形を格安で売ってもらえる約束である。しかし、コッペリア以上の人形が見つかるとは、私には思えない。
私はコッペリアの頭を撫でた。コッペリアが「嬉しい」と言ったような気がした。当然ながら錯覚であり、コッペリアは何も喋らない。しかし、それでいいのである。