第四章 我が愛しの精霊使い⑧
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「信じられない……。一体どういうことよお」
レンジーナは四つん這いになって庭の芝生を這っていた。
先刻、部屋で新しく注文するドレスのイメージ画を描いていたら、ドォンという衝撃音が聞こえた。続いて屋敷に大砲でも打ちこまれたかと思うような揺れが起こり、ガラス窓が全て割れたのだ。
やわらかなサテンの部屋履きを足にひっかけていただけだったレンジーナは、床に散らばったガラスを踏んで足の裏を切ってしまった。
レンジーナは自分の足を守らない役立たずな部屋ばきを呪った。
血を流す足裏が痛くて靴もはけず、歩くこともできない。
「誰か! ちょっとはやく誰か来なさいよ! もたもたしないでよ! 大声出させないでちょうだい!」
ぎゃんぎゃん叫んでも、廊下をバタバタと行き交う音がするだけで、誰も部屋に来ない。
「怪我したのよ! いるんなら返事しなさいよ!」
返事はなかった。
その代わり、廊下から「魔物が……!」「魔物だ!」と言い交わす声がする。
この非常時にわがままお嬢様に捕まったら命に関わると、使用人たちは全員わかっていたのだ。自分が逃げるために魔物の餌食になれとでも言い出しそうな令嬢だ。彼女を助けたいと思う召使いはいなかった。
召使いたちの声は、レンジーナの部屋から遠ざかっていくばかりだ。
召使いたちに見捨てられたレンジーナは、「魔物ですって? 誰か来なさいよおお……」と情けない声で訴え続けた。
歩けないレンジーナは四つん這いになって、ずるずると床を這った。
なんという屈辱だろう。
自分は侯爵令嬢なのだ。歩けなくなった自分を誰かが抱えて逃げなくてはいけないのに、この屋敷の者たちはどうかしているのではないか。
「おまえたち、お父様が帰ってきたら全員クビよ!」
ああそうだ、お父様がいる。
口を開けば田舎の公爵に嫁げと命令してくる父親は大嫌いだったが、父親は自分を愛しているはずだ。色香が衰える歳になっても男漁りの止まらない妻よりも、自分のことを愛しているはずだ。
だから、助けに来ないはずがない。
きっと男前の戦士精霊を引きつれて、公務もなにもかも投げ出して助けに来る。
(そうだわ、精霊庁にはグレン様もいたはず)
「グレン様がいいわ。うん、きっと来るでしょう」
父親ではなくグレンが助けに来ると決めつけて、ミシェルは姿見に這い寄り、乱れた髪を整えた。
ふと、姿見に映る窓を見る。
窓全面を埋めるように、ぬるりとした質感の巨大な黒い顔が部屋を覗いていた。
真っ赤な口からじゅるりじゅるりと、舌がはみ出たり戻ったりしている。巨大なオオサンショウウオのような化け物だった。
「ひぎっ……! まっ、まもっ、まものっ!」
レンジーナはあわあわと四つん這いで部屋を出て、階段に出た。四つん這いのままでは転がり落ちてしまうと思い、後ろ向きになる。後ろ向きの四つん這いで階段を這い降りていると、蜘蛛かなにかになった気分だった。
「誰か来なさいよお……。足が痛いのよう……」
うらみがましい顔を階段の上に向ける。
誰か来た。ふたりいた。
ベッド上の戯れの最中に逃げ出して来たに違いない、あられもないネグリジェ姿の中年女が。紳士としてあるまじき、ズボンなしの下穿き姿の若い男が。若い男は、先日レンジーナに趣味の悪い真珠のブローチを渡してきたパーム子爵だ。
母と息子ほども年の離れた、装いの乱れた男女。
「レッ、レンジーナ!」
中年女は蒼白になって娘の名を呼ぶと、くるりと背を向けて走り去ってしまった。
「あっ、デスカリド夫人!」
子爵も彼女に続いて走り去り、レンジーナの視界から消える。
レンジーナはふたたび、這いつくばった姿勢のまま、たったひとり取り残された。
(なによ、なによ、なんなのよ……!)
「ばーかばーか! ばかばかばかばか! おまえらなんか魔物に喰われて死んじゃえ!」
自分を見捨てて逃げたふたりに心の底から怒りが湧いてくる。湧いてくるのは怒りなのに、レンジーナはなぜか泣いていた。
ぼろぼろと涙がこぼれる。
しばらく涙が流れるにまかせていたが、レンジーナは我に返ったように、きっ!と顔を上げた。
「みんな大嫌いよ。全員死ねばいいのよ。あたくし以外!」
自分だけはなにがなんでも助かってやる。
レンジーナは猛スピードで階段を這い降りると、魔物がいた窓辺とは逆の玄関から庭へ出た。
召使いたちはもう屋敷から逃げてしまったのか、誰にも遭遇しない。
「信じられない……。一体どういうことよお」
四つん這いでゆく庭の芝生から、青臭いにおいが漂ってくる。
ズゥンと足音がして、屋敷の向こう側から魔物の黒い足が覗いた。魔物もこちらに回ろうとしているらしい。
普通のかよわい令嬢だったら、ここで死を覚悟したかもしれない。
しかし、レンジーナはぶれなかった。
欲しいものがあったら、どんな手段を使ってでも手に入れてきたレンジーナだ。自分には、勝利と幸福を得る権利があると思っていた。
「このあたくしが魔物に潰されるなんて、そんなことありえないのよ!」
レンジーナは全力で芝生を這い、魔物から離れようとした。傍から見たらゴキブリのごときみっともなさだったが、そんなことは気にしなかった。
「誰か、あたくしを助けなさいよ! 持ってる宝石半分あげるわよ!」
全部とは言わないところも彼女らしかった。
しかし、そんな彼女の大判振る舞いに反応する使用人はいない。皆、もう屋敷を捨てて逃げてしまったのだ。
魔物の足音がまたひとつ、ズゥンと響く。
今、屋敷を壊されたら、レンジーナは瓦礫に埋まってしまう。
「誰でもいいから助けなさい! あたくしはここで死ぬわけにはいかないのよー!」
レンジーナの叫び声に反応するように、魔物が屋敷の陰からまぬけな顔をにゅっと出した。
「おまえはお呼びじゃないわよー!」
レンジーナは四つん這い走行でカサカサと逃げた。ざっくりと切った足の裏だけではなく、こすれた膝からも血が出てじんじん痛む。
さっきの涙はすっかり乾いていた。
レンジーナはとにかく必死だった。
ここを乗り切らなければ、新しいドレスの注文もできない。今度作らせる予定のドレスはレンジーナみずからイメージ画を描いた品で、それは夢のように甘く可憐で美しく、それを着て舞踏会で褒められる前に死ぬなんて、ありえないったらありえない。
サンショウウオのようなぬるっとした魔物が、丸い頭部で屋敷をぐいぐいと押しはじめた。魔物は体積が大きいものを壊したがる性質があるそうだ。魔物にとって大きな屋敷が立ち並ぶ王都は、さぞ壊しがいがある場所だろう。
「やーっ! 助けて死にたくない!」
四階建てのデスカリド家の屋敷が、魔物に押されてぐらぐらと揺れる。
レンジーナが「止まれー!」と魔物に向かって叫んだそのときだった。
屋敷の屋上から、ひょろりとした黒い人影が魔物の頭に向かって飛び降りた。助けだ!とレンジーナは直感したものの、あんな丸くてぬるついた魔物の頭に着地なんてできないでしょ馬鹿じゃないの?とも思った。
しかし、黒い影は考えなしだったわけではなさそうだ。
魔物の目と目の間に剣を突き刺し、それを支えにバランスをとっている。
(いや、でも、その剣を抜いたら落ちちゃうでしょ? 攻撃できなくない?)
あらたな疑念が湧くも、それも想定済みだったらしい。
地上に、黒い人影の仲間らしき人物がいた。すらりとした騎士風の男性だ。若くはないようだが、衰えをかんじない凛とした横顔は、経験を重ねたデキる男というかんじで悪くなかった。
――嫌いなタイプではない。少なくとも、母と自分を同時に落とそうとした子爵のボンボンよりは、ずっといい。
「ランドゥ!」
騎士風の男性は魔物の頭にいる人影に呼びかけ、彼に向けて手にした長剣を放った。ランドゥと呼ばれたざんばら髪の黒い人影が、あぶなげなく剣を受け取る。息がぴったりだ。
黒い人影が、刺した剣を支えに、受け取った剣で魔物の頭部をざくざくと刺す。
刺された魔物が苦しんであばれる。
「ああんばかばか! あばれさせたら屋敷が壊れる――!」
レンジーナの口から出た文句に、騎士風の男性が彼女の存在に気付いた。
「危ない! 離れてください!」
深みのある魅惑的な声だった。レンジーナはほとんど無意識に、四つん這いを崩してしなを作るように芝生へ座りこんだ。
「足を怪我してしまって、歩けないの……」
弱々しい声を出し、駆け寄る男性をうるんだ瞳で見つめる。
「足の裏を深く切っていますね。膝も擦り傷だらけだ――。失礼します」
男性はレンジーナをひょいっと横抱きに抱えあげた。お姫様抱っこだ。
レンジーナを抱きかかえる腕は骨太でたくましく、胸板は厚く、目を上げて顔を見れば顔立ちは繊細で、深い知性を感じさせる品の良さがあった。
(グレン様よりいいかも……)
キラキラ感のあるグレンより、ちょっと渋みのあるこの男性のほうが、自分と対になったときしっくり来るのではないか。ほら、あたくしがキラキラしているから、キラキラどうしだと個性がぶつかるでしょ……。
自分を抱えて歩いてもよろけもしない彼に、レンジーナはいまだかつてないときめきを感じた。
この素敵な人は一体、何者なのだろう?
「あの、お名前を教えてください……」
「名前はありません」
「意地悪をおっしゃらないで」
「死人ですから」
男性はふっと微笑んでそう言った。
どこか陰のある謎めいた微笑に、乙女のハートがきゅんとなる。今まで身分や役職を自慢してくる男性にはたくさん会ったけれど、名乗らない男性などいなかった。
死人だなんて。
なんてミステリアスなの!
いつまでも彼に抱かれていたかったのに、安全な場所まで来ると彼はあっさりレンジーナを降ろしてしまった。
先に逃げていたらしい母親が「レンジーナ! 無事だったのね!」としらじらしく駆け寄ってきたが、レンジーナは魔物のほうへ駆け戻っていく彼の背中を見つめるのに忙しくて、母になど気が回らなかった。
騎士風の男性は、黒いざんばら髪の男と連携をとりつつ、見惚れるようなしなやかな剣捌きで、着々と魔物にダメージを与えていった。
レンジーナは魂を抜かれたような顔をして、夢中で彼の姿を目で追った。
そしてふと、爽やかな空気の流れのようなものを感じ取った。この空気は一体なんだろう? 『精霊石』の力と似ている気がするけれど、『精霊石』のようにべとつく嫌なかんじがしない。上質な絹地のようにさらさらしている。
(あっ。もしかしてこれって、『精霊気』?)
レンジーナは高位の精霊使いであるデスカリド侯爵の娘だ。生まれつき、精霊に対する感度は高い。しかし『精霊石』の感触が気持ち悪くて『精霊術』の訓練をはやくに投げ出してしまったから、その力はあまり使い物になっていない。
(あの方は精霊使いなんだわ……)
そして、黒いざんばら髪の男は戦士精霊なのだろう。
(なんて綺麗な剣捌きなの……)
ふたりの剣筋はまったくおなじで、息もぴったりだった。
魔物に対して、人間や戦士精霊の体はちいさい。でも、ちいささより機敏さが際立って、圧倒的に優位に見える。レンジーナはどきどきしてきた。
美しいと思った。
精霊使いと精霊が一緒に戦うさまは、なんと美しいのだろう……!
(ああ……。このままずうっと見ていたいわ……。素敵……)
「レンジーナ、レンジーナ」
母親がしつこく声をかけてくる。
「うるさいわね! 話しかけないでちょうだい」
「お父様がいらしたわ。助けに来てくださったのよ」
「あっそう」
「それで、ね、レンジーナ……。パーム子爵と一緒にいたこと、お父様には黙っててくれないかしら? あなたが欲しがっていたピンクサファイヤをあげるから」
レンジーナは横目でちらりと母親を見た。どこで服を手に入れたのか、ネグリジェ姿から日常着のドレス姿に変わっている。
娘を助けるより自分の保身が先だったということだ。
(あたくしが言わなくても、あなたの悪癖をお父様はとっくにご存じですわよ?)
レンジーナは心の中でそう言って、母親にはうなずきだけを返した。
ピンクサファイヤをもらったら、さっさと売り飛ばしてしまおう。きっと高く売れるだろう。母が身に付けた宝石など、持っていたくない。
汚いものを忘れるために、美しい精霊使いと戦士精霊に気持ちを戻す。
『精霊気』が巡るあちらの世界は美しい。
それに比べて、この家はどうだ。
「あたくし、ここを出ていくわ」
「田舎の公爵様に嫁ぐ気になったの?」
「……死人と結婚するの」
「は?」
レンジーナはもう、母になにも語らなかった。




