第二章 壊れた精霊⑫
レンジーナは風に揺れる花のように、ふわりと長椅子から立ち上がった。ゆるやかに巻いた髪、桃色の頬紅と口紅、動くたびに漂う香水の甘い香り。ドレスは薄絹を重ねた軽やかなつくりでかわいらしいが、胸元だけは広く開いて色気も忘れない。
(完全に勝負に出てきましたね)
エランジュが完璧な未亡人ぶりなら、レンジーナは完璧な令嬢ぶりだ。画家でも呼んで肖像画を描かせたら、高く売れそうだとアンディは思った。
「グレン様、突然お邪魔して申し訳ありません。でも、あたくし、その――グレン様が心配で心配で」
「心配とは?」
グレンが唇を笑顔の形に固定させたまま、たずねる。
「だって、あんな危険物をお引き取りになるなんて……。ランドゥという戦士精霊は、精霊使いの言うことをまるで聞かないのでしょう? だから処分されるはずだったのでしょう? グレン様があの精霊をあわれにお思いになるお気持ちも、あたくしわかりましてよ。でも……」
レンジーナは金粉をまぶした長い睫毛をふるわせ、顔をうつむけた。
芝居じみた間が、場を支配する。
「なんでしょう?」
「あのう……。グレン様とおふたりでお話するわけにはまいりませんでしょうか?」
レンジーナは不愉快そうにアンディを見た。
露骨な邪魔者扱いだが、アンディは場を去るわけにはいかなかった。
「レンジーナ様とふたりきりなど、デスカリド侯爵がお許しになりませんでしょう」
グレンはさらに笑顔を深くする。貴族らしい拒絶の笑顔である。こういう上っ面の笑顔なら、常に高い完成度を誇るグレンである。
「そんなことでしかられるのは、すこしもおそろしくありませんわ。むしろお父様のお怒りが、そこへそれてくれたらうれしいくらい……。だって、お父様は、処分するはずの戦士精霊がここにいることにそれはもうお怒りで……」
「存じております」
「このままではデスカリド家とフォシェリオン家の諍いになってしまいます。社交界もその話でもちきりですのよ……。グレン様、どうか危険な戦士精霊を手放してください。それが両家のためですわ」
「レンジーナ様のお心を苦しめてしまい、私も大変申し訳なく思います」
「戦士精霊を手放してくださいますのね?」
「ランドゥを引き取ったのは覚悟の上なのですよ、レンジーナ様」
「手放してくださいませんの?」
「はい」
「あたくしが、こんなにお願いしても?」
「はい」
「お父様とグレン様が仲違いするところなど、あたくし見たくありませんわ」
アンディはグレンと令嬢の話を黙って聞きながら、仲違いなら水面下でずっとしていたじゃないかと思った。まさか、このお嬢様はなにも知らないのだろうか。
「デスカリド侯爵と私は、精霊に対する考えが根本から違うのですよ。何度か話し合う場を持ちましたが、歩み寄りは時間がかかると判断しました。ランドゥは処分が迫っているとのことで、強引な手段に出ざるを得ませんでした」
「戦わない戦士精霊など、必要ないではないですか。精霊庁のみなさんは、みんなそうおっしゃるでしょう? 処分したって別に……」
「レンジーナ様は、怪我を負って戦えない軍人は殺してもいいとお思いですか?」
「あたくしは精霊の話をしておりますの!」
「私も精霊の話をしています」
「精霊と軍人は違います!」
「そうですね、違います。しかし、デスカリド侯爵と私とでは、精霊と人間の違いの解釈が異なるのです」
「お、お父様は精霊庁の長ですわっ」
「――ですからなにか?」
グレンはレンジーナをじっと見つめ、薄氷のような微笑を浮かべた。
アンディはぞっとした。グレンの、地の底から響くような低い声音がおそろしい。
「お父様は、精霊のことを一番わかっている役職で……」
「精霊のことを一番『わかっていなければいけない役職』ですね」
グレンがひやっとするような嫌味を放ったが、レンジーナには届かなかった。
「そうですわ。ですから、どうか……。お父様の話をお聞きになってください。今ならまだ間に合うと思いますの。精霊庁のみなさんのお怒りも、解けると思いますの」
レンジーナはときおり顔をあげてグレンに目をやるほかは、ほとんどグレンの顔を見なかった。
対してグレンは、最初から遠慮なくレンジーナを凝視している。
(ガン見するほうが心理的立場は上って言いますよね……)
レンジーナはグレンに執着しているが、グレンはレンジーナに欠片も興味がない。手に取るようにふたりの力関係が見えて、アンディは令嬢にすこし同情した。
それにしても、相手に情がないときのグレンは圧倒的だ。
――圧倒的に、色気がある。
この人は相手に冷たくしていたほうがモテるのではないだろうか。ミシェルもこのグレンを見たらなびくだろうかと、アンディは考えた。
でもあの子はたぶん、冷たい色気に参るタイプではない。第一、あんなにデレデレになっておいて、グレンは今さらミシェルの前で氷の微笑に戻れないだろう。
「話し合いにはいつでも応じますと、お父様にお伝えください」
「話し合ってくださいますのね? 戦士精霊を王宮に戻しさえすれば、すべて丸く収まると思いますの。ですから、どうか、どうか、両家のためにもお考え直しになってくださいませね。あたくしからのお願いですことよ」
「……それはそうと、レンジーナ様」
「はいっ?」
会話のトーンを変えたグレンに、レンジーナがうわずった返事をする。
「王都の『精霊気』が年々希薄になっていることをご存じですか?」
「もちろん、話に聞いておりますが……?」
なぜそんなことをたずねるのだろうという表情で、レンジーナは言った。
「王都の精霊使いにとっては、由々しき事態ですね。家事精霊使いは仕事がしづらい。戦士精霊使いは魔物の危機に備えなくてはならない――『精霊気』が希薄になると魔物が湧きやすいですから」
「『精霊気』の不足分は、『精霊石』が補うから大丈夫なのでしょう?」
「レンジーナ様も精霊石をお使いですか?」
「はい。――あっ、すこし、ほんのすこしですわ! 精霊の使役と調教は召使いがやりますから、あたくしはほんのすこししか」
グレンが『精霊石』の使用に反対していることを思い出したのか、あわててレンジーナは弁解した。本人が使おうが召使いが使おうが同じなのだが、そこまでは頭が回らないらしい。
『精霊気』の変化に気付かないということは、レンジーナは一人前の精霊使いとは言えない。
――このお嬢様は、精霊のことを学ぶ気などまるでない。
そう思ったアンディだったが、もちろん表情には出さない。グレンも同じで、レンジーナに意見する様子もなく、静かに微笑んでいる。
レンジーナはそんなグレンを上目づかいに見て、次にアンディに視線を向け、「あの、やはりふたりで話をしたいのですが……」と言い出した。二の腕で胸をぎゅっと挟むように縮こまっているせいで、ドレスの胸元からたわわな胸がこぼれ落ちそうだ。
こういうところだけは計算ずくかもしれないとアンディは警戒するも、若侯爵は客人の胸元になど一切目を向けない。
さすがである。
「申し訳ありません。王城へ出向かなければならず、今日は時間があまりとれないのです」
グレンはまたしてもきっぱりと拒絶した。
「そう……ですか。あの、あたくし、またお訪ねしてもよろしくて?」
「是非おいでください」
「本当ですか!?」
「母もレンジーナ様のご訪問を心待ちにしております。母の発案で刺繍や室内楽の集いなども計画しておりますから、是非」
エランジュのサロンならいいが自分のところへは来るなと遠まわしに言って、話はお終いという合図に、グレンはすっと席を立った。
「あっはい……」
名残惜しそうにレンジーナも席を立つ。
物欲しげにぐずぐずしているレンジーナを先導するように、グレンは令嬢のために自ら応接間のドアを開けた。顔だけはにこやかだが、全身で帰れ帰れと言っている。
「馬車までお送りします」
「あの、実は、あたくしからもグレン様にひとつお訊きしたいことが……」
「どのようなことでしょう?」
「えっと、その、近々このお屋敷に……女性の方がお住まいになるご予定ですか?」
「決まった予定はありません。残念ながら」
「ほんとうに?」
食い下がるレンジーナに、グレンは笑顔を返すのみだ。
「あの、グレン様、あたくし……。あとでお手紙書きますわね」
「ありがとうございます」
返事を書くとも言わない。
そしてその後、馬車まで一切口を開かない。さすがのレンジーナもあまりの手応えのなさに意気消沈したのか、肩を落としてしょぼんとしている。
(ミシェル嬢が相手のときと、えらい違いですねぇ……)
いっそ清々しいような態度の差だが、ときおりグレンをふりかえるレンジーナのうらめしそうな顔を見たアンディは、彼女がこのまま引き下がるとは思えなかった。
――ひと波乱あるかもしれない。
見送るレンジーナの馬車が見えなくなると、グレンはやれやれとばかりに大きく伸びをした。
「お疲れ様でした、侯爵様。なんとか穏便に撃退できましたね」
「言いたくて仕方のないこともあったが、黙っておいたしな」
「ほほう、どんなことです?」
「睫毛にゴミがついていると……」
「ゴミ? ……侯爵様、あれは金粉です。宮廷の若いご婦人に流行りの化粧法ですよ」
「そうなのか? 黙っておいてよかった……」
「……」
氷の微笑の裏側で「睫毛にゴミが……」とずっと考えていたのかと思うと、アンディはグレンに警戒すらされないレンジーナ嬢がいよいよあわれに思えた。




