第二章 壊れた精霊⑧
粗末な小屋の扉を開けると、食物のにおいがした。
明かり取りの窓から枝葉ごしの日光が入り、舞い立つほこりをきらめかせている。中央に小さなテーブルがあって、ほんの一口ばかり欠けたパンと林檎、手付かずのチーズが置いてあった。
「やあ、ランドゥ。パテは食べたんだな」
グレンは静かな口調で、隅にうずくまる黒い塊に向かって言った。
「紹介する。きのう言ったミシェルだよ。……レナルドの娘だ」
「レナルド」に反応して、黒い塊がぴくりと動いた。黒い塊はよく見ると、ぼうぼうに伸びた黒髪と、ぼろぼろに裂けた黒いマントだった。
ミシェルが痛ましい思いで見ていると、黒髪がうごめいて肌が見えた。顔をあげたようだ。伸びた髪越しに片目が見える。
「はじめまして、ランドゥ。あなたのことは父がよく話してくれたわ」
ミシェルもグレンに倣って、おだやかに話しかける。
「父もあなたに、わたしのことを話したかしら?」
ランドゥはなにも言わなかった。光のない黒い右目の動きだけが、生きている証だった。
「いつも侯爵様が食事を持ってきてくれるの?」
きのうの夕方、グレンがバスケットを持って奥庭へ入ったのをミシェルは思い出した。精霊はなにも食べずとも消滅しないが、肉体を健常に保つためには食物が要る。すこしでも食べる気があるということは、ランドゥはまだ肉体に執着があるのだ。つまりそれは、人間と関わることを捨ててはいないことを意味する。
「ミシェル、ここでは『侯爵様』ではなく、『グレン』と呼んでくれてもいいではないか。ランドゥしか聞いていないのだし」
「癖になってしまうから、だめです」
「癖にしてしまえばいいではないか! ランドゥ、レナルドの娘は結構な強情っ張りだぞ。こんな可憐な容姿をしていながら」
「か、可憐って……」
男性に褒められ慣れていないミシェルは、かあっと赤くなった。
「ランドゥ、君からもなんとか言ってくれないか? ミシェルはさっさとグレンのところへ嫁入りすればいいのだと」
「なぜすぐそのお話になるんです!?」
「君を嫁にしたいからだ」
「なぜ?」
「心配だから」
「わたしならだいじょうぶです!」
「さっき転びそうになったではないか。ブランコからも落ちたし」
「ブランコなんて十何年も前のことじゃないですか。しかもあれは、侯爵様がいらしたからで……」
「グレンだ。やはり私のせいで落ちたことをうらんでいるのか?」
「いくら痕になったからって、そこまで執念深くありません!」
「痕になったー!? なんだと? たしか髪の生え際だったな!」
「ちょ、前髪をめくらないでください!」
「ああああ傷跡が!」
「たいしたことないです。言わなければわからないくらいでしょ」
「ああああ私のせいでミシェルが疵物に!」
「変な言い方しないでください!」
「もう結婚しかない!」
「なくないです!」
くくくく、と、低い声がした。
ミシェルとグレンが驚いて黙る。声はたしかに、黒い塊から発せられていた。
(もしかして、笑ってる……?)
ミシェルはグレンと顔を見合わせた。
グレンは明らかに狼狽していた。
「ラララランドゥ……。あの、その、ほかに食べたいものはないか? パテが好きなのか?」
鳥ハム……と、かすかに聞こえた。
「鳥ハム、鳥ハムか! わかった、料理長にすぐ作らせる。待っていろよ!」
グレンはミシェルの手を引っ張って、凄い勢いで小屋から出ると、そのまま駆け足でもと来た道を戻った。ぬかるみの前で、やっと我に返ったように速度を落とす。
「なんなんですか、急に……」
ミシェルは息が切れてしまった。
ふうっと息をついたところで、突然グレンに抱きしめられた。
「……!」




