第二章 壊れた精霊④
翌朝は、前日の雨が嘘のようにからりと晴れ渡っていた。
ミシェルは屋根裏部屋の窓を大きく開けて、いつも村でそうしていたように、体いっぱい『精霊気』を取り込もうとした。
しかし、こんなに気持ちよく晴れた朝だというのに、王都の『精霊気』の気配は薄曇りの日の日光のごとしだった。家事精霊たちが働く分に不足はないが、さみしいことこの上ない。
ミシェルは目立つことは避けたかった。客人の多い本館の仕事はやらなくていいよう、アンディが手配してくれた。ミシェルの仕事は、この別棟の清掃だ。使用人が数多く暮らすこの別棟を清潔に保つのが、ミシェルと精霊たち三人の新しいつとめ。
「うん。がんばりましょう、みんな」
ミシェルがペリとエデとモモに向き直ったそのとき、コンコンとドアがノックされた。
「メイド頭さんかしら……。仕事の指示があるってアンディさんが言っていたから」
はい!と元気に返事をして、ミシェルは屋根裏部屋のドアを開けた。
(……ちょっと)
ミシェルはその場で頭を抱えたくなった。
ドアの向こうにいたのは、上等のシャツとベストをぱりっと着こなした、この屋敷の主人だったからだ。侯爵ともあろうお方が、召使いの住処にひとりで来るとは……。
一体どうしたらいいのか。
「入れてくれないか」
呆然と立ちすくむミシェルに、グレンは言った。
「なりません。お立場をお考えください」
「立場を考えるのは君だ。アンディから聞いて仰天したぞ。本館で私の私室担当になるならともかく、なぜ君が別棟で仕事しなければならないんだ!」
「しーっ! 大きな声を出さないでください」
「なら中へ入れてくれ」
「なにをおっしゃるんですか。おかしな噂が立ちますよ!」
「立て立て立ちまくれ。そうすれば君は身分を明かして、本館へ来るしかなくなるだろう? 私が君をどれだけ心配しているか分かっているのか? デスカリド侯爵の刺客をかわすためにも、君は私のそばにいるべきだ」
「もう! 静かにしてくださいってば」
ほかの使用人に聞かれたらめんどうなことになるので、ミシェルはあわててグレンを部屋に引き入れ、ドアを閉めた。
「なぜ君が強情を張って、本館へ来ないのかわからない」
グレンは部屋に入るなり額に手を当て、ちょっとおおげさなんじゃないかと思うくらい大きくため息をついた。
「いきなり結婚しようとか言い出すから引いてるんだよ。いいかげん気付いたら?」
ミシェルの代わりにペリが答える。
「手順をまちがえたことに関してはあやまる」
「手順以外にもいろいろ間違えてるけどね。あんた、女の子と親しくおつきあいした経験ないの? 結構な美男子のくせに」
「おつきあい? 社交なら、普通に行う」
「そういうんじゃなくて。……色街とか、行かないの?」
「ちょっとペリ、やめなさい」
ミシェルがあわててたしなめる。
「舞踏会で知りあったお嬢さんや奥さんから、お誘いを受けたりしないの?」
「茶会や晩餐の誘いのことか?」
「そうそう。で、お茶会や晩餐のあとに、素敵なイイコトあったりしないの?」
「ペリーっ!」
下町暮らしが長かったペリは、下世話な話になると絶好調だ。
「素敵なイイコト? 茶会や晩餐のあとはだいたい、屋敷の主人と政治や行政の話をするが……。まあ、有意義ではあるかな」
グレンはきょとんとした顔で言った。
ペリが爆笑する。
「ねえねえねえ、ホントにあたしが言ってることの意味わかってないの?」
「失敬な。私は有意義な社交生活を送っている!」
「女性とも?」
「ダンスは踊れる!」
「お話は?」
「……文化の話くらい、多少はできる。か、絵画とか音楽とか」
グレンはしどろもどろになった。
「絵画とか音楽とか! 絵画とか音楽とか! わーいわかった。ミシェル、こいつ堅物だ!」
「堅物でなにが悪い!」
「わーい女に不器用な堅物だ!」
「静かにしなさーいっっ!」
しん……と、部屋に突然の沈黙が立ちこめる。
ミシェルの声が一番大きいと、その場にいる誰もが思った。
侯爵と精霊三人に注目され、バツが悪くなったミシェルは、こほんと咳払いした。
「まあ、せっかく侯爵様にお越しいただいたんですから……」
「グレンだ」
「侯爵様がわたしの力になにを期待していらっしゃるのか、そろそろお話していただきたいと思うのです」
「グレンだと言うに。まあ、私も半分はその話をしに来たようなものだ。――ミシェル、私と一緒に奥庭へ来てもらいたい」
「……奥庭?」
やはり、柵で囲った奥庭には、なにかがあるのだ。
「精霊たちはここで待たせたほうがいい。――刺激が強いだろうから」
「精霊には刺激が強いって……。奥庭に一体なにが?」
「戦士精霊がひとりいる。四年前の、王都魔物発生――その際に、大きな功績を上げた戦士精霊が……」
「いやあああああ!」
グレンが言い終わらないうちに、モモが悲鳴を上げた。
「モモ!」
ミシェルはすぐに左肩のモモを抱きとり、腕の中へ抱いた。
「モモ、モモ、だいじょうぶ、だいじょうぶよ……」
「モモ、こわくない、こわくないよ」
「お掃除しましょう、モモ。今日の仕事は清掃です。モモ、今日のことだけを考えましょう」
ミシェルとペリとエデが、震えるモモを囲んで必死になだめる。
モモの髪をなでながら、ミシェルが顔を上げると、グレンは疑問と驚きでいっぱいの顔で、なにか言いたげにミシェルを見ていた。
無理もないと、ミシェルは思った。
ペリもエデも心に傷を負った精霊だとは言え、モモのように過敏な反応はしない。しかし、モモにはモモの事情があるのだ。それを侯爵に説明していいかどうか、ミシェルにはまだ判断がつかなかった。
「外でお話をうかがいます、侯爵様。少々お待ちを」
ミシェルはモモを落ちつかせるため、ベッドへ連れて行こうとした。
侯爵はそんなミシェルに両の手のひらを向け、そっと止めた。
「三十分後でいい。奥庭の木戸の前へ来てほしい。それまで……その精霊についててやれ」
侯爵はそう言い残すと、入ってきたときの勢いを忘れたかのように、そっとドアを閉め、屋根裏部屋から出て行った。
(あっ……もしかして、モモを気づかって?)
強引なのか、思いやりがあるのか、よくわからない人物だとミシェルは思った。
悪いひとではない――。そんな思いが、一段と強くなっていた。




