08
ルティカル・メイラーがその少女の存在を思い出したのは、そう昔のことじゃない。
きっかけは、母の死だった。
三月ほど前だろうか?
床に伏せっていた母が、その人生を終えた。
ルティカルからみても早い死だったと思う。自分が成人する前になくなった夫を、心から愛していた母。彼女は、ルティカルが家督を継ぐに問題なくなった頃に――まるでその“母親”という役目を終えたかのようにこの世から去っていった。
悲しいと言うよりは寂しかった。
もう、たった1人の肉親だったのだ。父も母もいない邸は、ひどくがらんとしていて空虚だった。
――ルティカル・メイラーが住んでいるメイラー家の本邸は、その大きさに反して使用人は少ない。質実剛健を家訓にあげていたルティカルの父、ランテリウスは必要以上の贅沢を嫌った。自分で出来ることは自分でやりたいと。掃除や家事も気分転換にはもってこいだ――と笑っていたのを覚えている。きらびやかな物が嫌いな性分だったから、それが生活にまで及んだだけのことだ。貴族としての顔が潰れない程度の華やかな生活はしていたけれど、ルティカルもそれに不満はなかった。
ただ、ずっと――三人で暮らすには広い邸だと思ってはいた。せめてもう1人住んでいてもおかしくないような、そんな家だった。
母の遺品を整理しようと、ルティカルが母の部屋の掃除を始めた日、ルティカルは一つ不思議な物を見つけてしまった。
何の気なしに母の机から掃除を始め、テーブルランプについた埃を払おうとひっくり返したときに――ランプシェードの陰に指輪が隠されているのを。
銀色の地金に紫色の石が入った指輪は、みるからに女物だったが、とても小さく、ルティカルには見覚えのない、“見覚えのある”指輪だった。
見覚えがないという点では――母がこの指輪をしているところを見たことがない点だ。第一、とても小さな指輪なのだ。赤ん坊くらいしかつけられないベビーリングだということくらいは、宝飾品には詳しくないルティカルにもすぐに想像がつく。
ただ、この家にはベビーリングを与えられるような小さな子供はいなかった、とルティカルは頭を悩ませた。
見覚えがある、という点では――ルティカルが幼いときに与えられたベビーリングが、これとそっくりなデザインなのだ。ルティカルの場合は紫色の石の代わりに青い石がはめ込んであったし、ベビーリングという小さな指輪だというのに、内側には小さく名前が彫ってあった。この指輪も、内側に何かが彫ってあるのが見て取れる。
名前だろうか。
そう思って指輪をじっくりと眺め、目を凝らす。そうしていれば――。それは、やはり。
「イル……イルツェ、ニカ……?」
イルツェニカ。
耳にしたことも、口にしたこともあるようで――無いような。朧気な懐かしさに、しばし時を忘れた。紫色の石には見覚えがあるような気もしてくる。聞いたこともないちいさな少女の笑い声が、耳を打った気がした。
――これは。
背筋がぞっとして、ルティカルは長らく足を踏み入れることの無かった部屋――自分が幼い頃使っていた、“子供部屋”に誘われるようにふらふらと足を向ける。何故そんな場所に向かっているのかはわからなかった。まるで、自分が操り人形になったかのように――舞台に導かれるように。
一歩一歩と歩みを進め、子供部屋の扉を開けて。
震える手で、“自分のものだった”子供用の机に手を伸ばした。
丁寧に作られた机の引き出しは、引っかかることもなく、塗られたニスと同じように、なめらかに引き出されていく。引き出しの中に詰まっていたのは、古びたスケッチブックとクレヨン。
それから、古いけれど綺麗な色鉛筆。
色鉛筆には見覚えがあった。幼い頃に買って貰ったが、何だかもったいなくて使えなかったものだ。だが、クレヨンには見覚えがない。
スケッチブックを開けてみる。使い込まれていると言わんばかりの見た目だが、中身は黄ばんだ紙しか挟まっていないし、何の絵も残されてはいない。ページを破り取ったようなあとがそこかしこに残されていて、それが奇妙にルティカルの脳を揺さぶった。
クレヨンの箱を手にとって、開けてみる。青と紫のクレヨンだけ短くなっていた。短くなった二つを摘もうとしても、手が震えてしまってうまく摘めない。
そのうち、箱の方まで手のひらから落としてしまい――拾い集めようとしゃがみ込んだとき、引き出さないと見えないような場所、引き出しの裏側に青と紫の線が踊っているのに気がついた。
今度こそ、背筋が凍った。
震えた手のひらのまま、引き出しを引き抜いた。力が抜けた腕では机の引き出しすら抱えられず、そのまま絨毯の上に落としてしまう。ごとん、と転がった引き出しの裏を見て、ルティカルは瞠目した。
子供らしい、下手な字だ。青と紫で描かれた文字は所々が掠れてしまっていたけれど。
――“むかえにきてね、おにいさま”。
残されていた文字のその意味だけは、かすれることも霞むこともなく。むしろ、よりいっそうの切実さと狂おしさを以て――ルティカルの胸を締め付けた。
自分は、この文字を書き記した少女のことを愛していた。そのときのルティカルは、信じて疑わなかった。ルティカルの脳裏には白い髪にスミレ色の瞳の少女が、あどけない笑みを浮かべている。確か、その少女はしょっちゅうルティカルのうしろにくっついていたはずで――。
手にしていた見覚えのないベビーリングに、涙が落ちた。
***
あの日以来――あの“ルティカル・メイラー”が探偵事務所を訪れて以来、ユーレは頭を悩ませることが多くなった。
それと同時に、娘の住んでいる探偵事務所に寄りつくことも少なくなった。それはひとえに、自分のしていることが彼女に知られ――結果としてニルチェニアの生活をぶち壊すようなことをしたくなかったからだ。
ニルチェニアが家族の元に帰りたくなるかどうかはわからない。が、ユーレはニルチェニアをあの兄の元に帰そうとは思えなかった。だって、もう自分の娘だから。
いつどこで、自分のしていることがニルチェニアに知られるかはわからない。自分の行動の何がヒントになるのかわからないなら、自分を娘の前に晒さなければいい。
聞き分けのない子供でもないから、図書館での仕事が忙しくなったと告げれば、「まともに働いているようで何よりです」と微笑みつきで返された。
我が娘ながら憎たらしいと思わなくもなかったが、普段の生活を振り返れば、そう言われるのも無理はない。ははは、と乾いた笑みを漏らして、ユーレは探偵事務所から遠ざかっていた。
ルティカルとはあれ以降、何度か話をしている。「メイラー家の坊ちゃんだとばれると厄介だから」などと、もっともらしい嘘とともに、ルティカルと依頼の話をするときは、いつもいつもニルチェニアの探偵事務所とは遠い場所にある喫茶店で話すことにしていた。
「で、要望通りに何人か見てきたが」
「──どれも違う。私の妹ではないな」
入手した四人の娘の写真をルティカルに提示しても、ルティカルは首を横に振るだけだった。当たり前だ、わざわざ違う娘を四人も選んできたのだから。
白髪、というのは銀髪でも誤魔化せるとして、紫色の瞳を持った娘となると見つけてくるのも一苦労だ。
「あのなあ、白髪に紫色の瞳の娘だろ? そうそういないぞ」
「……知っている」
「そもそも何で妹はいなくなったんだ? いつの話だ、いなくなったのは。まさかどっかの男と駆け落ちか?」
さも何も知らぬような態度をとれば、ルティカルは深くため息をついて「他言無用にしてくれないか」と重々しく告げる。
それに了承を返せば、ルティカルはその銀の髪を揺らして、ぽつぽつと語りはじめた。
妹がいたのは、十年以上前のこと。
どうやら、妹は捨てられたらしいこと。
自分がそれに気づいたのは、恥ずかしながらここ三ヶ月以内であること。
「ほー、そりゃまた滅茶苦茶だな」
「非道い兄だと自分でも思う。──正直な話、妹のことで覚えているのは四つ程度しかないんだ」
「白髪、紫色の瞳、あと二つは?」
「確証はないんだが──魚嫌いで、腰のあたりに魚の鱗のような痣があった」
「……」
おかしな話だろう、と自嘲気味に銀髪の青年は笑った。
娘の腰のあたり、確かに魚の鱗が三枚重なったような痣があったことを、ユーレは思い出している。
「断片的でしかないんだ、私の記憶は。──幼い頃に私の後ろをついてきていた少女がいた気がする、そう思い出したのが始まりだ」
「始まり?」
「ああ。思い出したら芋づる式に記憶は広がった。魚のムニエルに手をつけなかった少女、その子が幼かったときにたまたま眼にした特徴的な痣。眼の色と髪の色は脳裏に焼き付いているし、彼女の名前も思い出せる。好きな花は菫だった。──けれど、顔だけは靄がかかったみたいで思い出せないんだ」
「……荒唐無稽な話、って気はするけどな。妄想じゃねェのかと言いたいところだが」
「……妄想ではない。彼女がいた証拠はあるんだ」
「証拠、ね」
挑戦的に笑ったユーレに、青年は懐から何かを取り出してその手にのせる。
銀色の指輪だ。紫色の石が、煌めいている。その小ささからいって、ベビーリングだろう。
「妹の眼の色はその石の色そのものだ」
──知ってるよ。俺は毎日見てたから。
「指輪の内側に彫られているのが妹の名だ」
ユーレは指輪の内側を視線でなぞる。小さな小さな文字だったけれど、不思議と目に付いたのは何故なのか。
「──イルツェニカ?」
「ああ。イルツェニカ・メイラー」
妹の名だ、と長身の青年は言った。
何となくだが、貴方の娘の名に似ているだろう。どこか、寂しげに微笑んだ青年に、そうだな、とユーレも寂しそうなふりをした。
彼の中では、ユーレの娘は故人だ。そうでなくてはならない。
「ジュエラから遠い、というのもあったのだがな──正直なところ、名前で決めたんだ。妹の名に似ていたから、何か縁があるのかと」
「顔に似合わずロマンチストか。軍人の割には腑抜けてるんじゃないか」
「そうかもしれないな」
皮肉げな微笑み。自虐的なそれ。紫色の石がついたそれをまた懐に戻し、ルティカルは頼んだ珈琲を一口すする。
こんなこと言いたくはないが、とユーレは話を切りだした。
「生きている、という保証は」
「──認めたくはないが、」
「ない、のか」
「ああ。何度も考えた。もう十年以上前のことだからな。それに、」
「それに?」
「いや。忘れてくれ」
忌々しげに顔を歪め、ルティカルは首を振る。
ふーん、と気のない返事をしてから、ユーレも一口珈琲を啜った。
「言いたくなかったら答えねェで構わないけどよ」
──言わなかったら自分で調べるまでだからな。
「何で妹さんは捨てられたんだ? 坊ちゃん」
その質問に青年はひどく疲れた顔をして、顔を手で覆う。忌々しい、と低く呟いてから拳を作り、力一杯握り締めた。
ろくでもない因習だと青年はいう。
「髪と眼の色だ。貴方が御存知かは知らないが、メイラー家には一つの特徴がある」
「銀髪碧眼、ってか」
「ああ。メイラー家は“銀髪に青い瞳を持たなくてはならない”。それは、他の家から嫁ぐ娘も同じ。メイラー家となるには、“メイラー”と名乗るには、銀の髪に青の瞳を持つのが条件。ずっと昔からの、下らない決まりだ」
「そこを運悪く妹さんは紫色の瞳を持ったわけか」
「あの子は確か、常人と比べて色素が薄い。人と同じだけの色素を持っていたなら、あの瞳も青に染まっていたはずだ」
染まっていたなら。
そう呟く青年に、そうだな、とユーレは言葉を返した。
そんな娘はいない。
銀色の髪の、青い眼の娘なんて、この青年の妹なんて。
そんな娘は、いない。
いるのは自分の娘だけだ。
白髪に紫色の瞳の、ニルチェニアだけだ。