07
「よく晴れました、ね……」
【ニルチェニア探偵事務所】。その事務所を自宅としても兼用している探偵、ニルチェニアは窓にかかる遮光カーテンを開けて、窓から刺さる眩しさに目を細める。ううん、と背伸びをした。
普通の人にはなんてことない日差しだが、色素が生まれつき薄い彼女には、ただの日差しでも少々眩しい。
常人と同じ程度の色素さえあれば青く染まるはずだった瞳は、色素の薄さを反映してか、青に赤を透かしたような――菫色に染め抜かれている。
もっとも、その目が青く染まるはずだったなんて、今となっては誰一人知ることはない。少なくとも、彼女は知らない。
寝間着にしていた白いロングのワンピースを脱いで、白いブラウスに菫色のハイウェストのロングスカートを身にまとう。リボンを胸のあたりで結んで、長くのびた白い髪に櫛を通した。
先日、食事どころで軽薄な軍人と話をし、それからしばらく彼女の頭を漂う事柄が一つ。
“なぜ今更【ジェラルド・ウォルター】は軍人にその身を嗅ぎ回られているのか”。
ニルチェニアがかつて“ニルチェニアになるために”行った下準備の行程で、自分の養父である“ユーレ・ノーネイム”が“ジェラルド・ウォルター”であったことを知った。自分の養父が暗殺者だったことを知っても、ニルチェニアは特に驚かなかった。
この世に数多ある人間の中で、まっとうに、健全に、まったくの一般人として穏やかに暮らしている者がいるのなら――その逆の者がいても不思議じゃないと思っていたからだ。
寧ろ驚いたのはそんな荒んだ生活をしていたらしい養父が、今はまっとうに生きている、というこの現状だ。
調査の段階で接することを避けられなかったレグルス・イリチオーネによれば、“ジェラルド”はある意味では人を殺すのが趣味というような側面もあったようだし――そんな彼を近くで支え続けた“リラ”という存在ですら、不可抗力で人を手にかけているという話もあったから、今“まっとうに”彼が生きているのは――ある種の奇跡なのではないかとニルチェニアは思う。
レグルスは幼かったあの日のニルチェニアに――まだ、ニルチェニアではなかった頃のニルチェニアに――“ありがとうな”と口にした。お前がいたからあいつは今も生きているんだ、と。その時の優しい目は、レグルスがマフィアのボスであることが嘘のようだったのをよく覚えている。
その日から、レグルスとニルチェニアの薄暗い協力関係は続いていて――だからこそ、危ない仕事に頭を突っ込んでもなあなあに片が付くのだ。ニルチェニアだってヘマはしないが、蛇の道は蛇だろう。“専門分野”は“専門家”に任せればいい。
何はともあれ、と彼女は髪型を整えて寝室から出ていく。
階段を下り、リビングへと続く廊下を歩き――。
リビングで、別居しているはずの養父にかち合った。
本来なら彼女の養父のユーレは、図書館司書を勤めているのだから、この時間は図書館にいるはずだ。
そもそも、ニルチェニアは彼の家を出て一人暮らしを初めていたので──彼はここにはいないはずだ。週末でもない限り。
カレンダーを確認する。週の半ばだ。
──おかしい。
「……おはようございます、ユーレさん。お仕事は」
「今日は休みだ。おそようさん、ニルチェ」
「まだ七時ですよ」
「俺より遅きゃ“おそようさん”だ」
「……起きるのが早いんじゃないでしょう、ユーレさん」
寝ていないだけだわ、とニルチェニアは目を細めた。ユーレが座っているソファの前に置かれたテーブルには、すっかり冷えた珈琲が入ったマグカップが一つ。濃い緑色のそれは、彼女の養父用のマグカップだ。
熱心に、何かの書籍を読みふけるユーレは、あの性格には意外なほど活字中毒者であり、ニルチェニアは本を読みふけるが余りに、一晩寝ずに起きていた養父を何度も見ている。
養父の本好きがこうじてか、ニルチェニア自身も本は好きだが、ユーレ程ではない。ニルチェニアと話す間も一度として顔を上げないユーレは、時折、ニルチェニアも驚くほど無表情になった。
──何の本を読んでいるのかしら。
そっと近づいて、テーブルに積み重ねられた本のタイトルに目をやる。
【フロリア紳士目録】
【ジュエラの歴史】
そして、ユーレの手の中にある【ジュエラの華やかなる──】
「こら、邪魔すんな」
体を屈めて、ユーレの手のひらに隠された本のタイトルを見ようとしていたニルチェニアの頭を、ユーレはぺしりと叩いた。それから、ようやっと顔を上げて娘に一言。
「ピザが食べたい」
作ってくれ、とごねるような養父に、また朝から面倒なことを……と、娘はこめかみをひくりとひきつらせた。
そもそも、ピザなんて重い食べ物は朝から食べるべきじゃない。胃もたれしますよ、とたしなめてもユーレは頑として譲らなかった。
「嫌ですよ」
「じゃあ今からピザ買ってきてくれ、ニルチェ」
昨日の昼から何も食べてねェんだ。
にこりと笑った養父にため息をついて、「わかりました」と娘は頷く。ピザを作るには材料が足りていないし、おとなしくピザを買ってくるのが一番楽だろう。
身支度を整え、朝食をとり、冷え切った珈琲の代わりに、入れ直した温かい珈琲を養父のマグカップに注いだ。
しばらくして、ニルチェニアは事務所兼自宅のドアノブに手をかける。悪いな、とかけられた声に、じゃあ頼まないでくださいよと憎まれ口を返した。
「あ、そうだ。……ニルチェ」
「何でしょう?」
「すげえ仮定の話な。お前、今の生活を取るか、元いた家族の元に戻るかってきかれたらどうする?」
「それをきいてどうするんです?」
「別にどうも。今読んでた本がそっち系のドロドロだったからな。俺の最愛の“お姫様”はどう答えるのかって思っただけだ」
ふざけた口調の養父に、探偵はもう一つため息をつく。
「仮定の元になり立つ仮初めの言葉に、貴方は用があるのですか」
「ああ。だから聞いてる」
「──答えになるかどうかは分かりませんが……私にとって、一番大切なのは今の生活ですよ」
馬鹿なことをきかないで、とユーレの顔を見ぬまま、ニルチェニアは家を出ていく。からん、とドアベルが鳴った。
「……ま、なんつーか、非常に良い娘を持ったってことで──」
残された養父は恥ずかしそうにぽりぽりと頬をかいた。
淡泊そうな娘だが、たまにこうした面を見せるから照れくさい。
ユーレにニルチェニアに見せなかった本のタイトル。
──【ジュエラの華やかなる一族──メイラー家】。
世の中には知らない方がいいことなんて、腐るほどある。
優秀な頭脳を持った娘を持つと苦労するぜ、などと苦笑して、ユーレは不意に目を細めた。
これは、知られてはいけないことなのだ。