06
「ここは……」
「【ニルチェニア探偵事務所】、だ。文字くらい読めんだろ? オニーサン?」
ふ、と、酒精の香る息を吹きかけて、挑戦的に笑んだ男。無礼なその行いに、青年はあからさまに嫌そうな顔をした。そこはもう少し表情を隠した方が世は渡りやすいぞ──などと思いながら、男は扉を大きくあけて、部屋に入るようにと促す。にやにやと笑いながら顎で室内を指した男に、青年はまたも嫌そうな顔を隠さなかった。
これでいい。
男はそうひっそりと嗤う。
もし、もし男が考えていること、推測したことが事実であるのならば。
──こいつは二度と、この事務所の敷居をまたぐべきじゃない。
事務所に青年を通した後、青年はその荒れた室内──主に酒瓶が転がっている──を見渡し、「本当に探偵事務所なのか」と注意深く訊いた。正しい判断だな――と、ユーレはそれに愉快そうに笑って、「その通りだ」と返す。訝しげに、青年の眉間に深い皺が刻み込まれた。
「ンな怖ェ面してんじゃねェよ。色男が台無しだぜ?」
「……この事務所に、依頼はくるのか」
「OK,軍人のオニーサン、周りを見渡して貰おうか。酒瓶だらけだろ? つまりはそういうことだ──昼間っから飲んでる余裕があるくらいには繁盛してるぜ」
「……何故、軍人と」
「こんな怖い顔の一般人がいてたまるかって話だよ」
にやりと笑ったユーレに、洞察力はあるんだな、と青年が無表情で返す。ユーレは軽薄にほほえんで、「まあな」と酒瓶を傾けた。
ユーレの口の中を転がる葡萄酒は、どこか埃臭い。全くついてねェな、と思うと同時に、これで良かったのだとも思う。
──あいつが、“ニルチェニア”がいないときでよかった。
「で、用件は何だ? ペット探し? 浮気調査? それとも──人探し?」
人探し、と口に出せば、青年の目が見開かれる。こりゃ確定だ、と顔には出さずにユーレは少しの緊張を持つ。
そんなユーレを知ってか知らずか、軍人の青年は厳しい目をユーレに向けた。
ユーレより背の高い石膏像のような青年は、何度か口を開け閉めしてから、「その“人探し”だ」と意を決したように口にする。真っ直ぐに、真摯すぎて痛いほどの視線を浴びながら、ユーレはぼんやりと思う。
──こいつ、俺の嫌いなタイプだ。
昔から実直だとか、真面目だとか、そう言う人間は苦手だった。
どぶ臭い裏の世界で生きてから、“嫌い”になった。自分にはとうてい持ち得ない物だったし、何より眩しすぎる。
「ふーん。依頼主、か。じゃあ話でも聞くか。……適当に座ってくれ」
自らは事務所にたった一つの“所長席”、つまりは普段“娘”が座っている安楽椅子に腰掛けて、ユーレは適当な場所に腰を落ち着けた青年をみる。
先ほどまでユーレがごろごろと寝転がっていたソファに、青年は座っていた。
そのソファにも酒瓶が転がっていたりしたのだが──青年はそれをうまくどけたらしい。
「名乗るのが遅れたな。ルティカル・メイラーだ」
「へェ……“メイラー”、ってのは“あの”メイラーでいいのか?」
「……ああ」
「ジュエラからこんな港町までよくもまあ。暇人──なわけもねェな。余程切羽詰まってんのか」
「……」
にやにやと笑ったユーレは何も返さずに、ルティカルは膝においた拳を握りしめた。
それが肯定の意味を示すことくらい、ユーレにはお見通しなのだが、彼はあえて知らないふりをする。
無知を装うことが時には役立つのだと──彼はこの場にいない“娘”から何年か前に教わっていた。無知だと、純粋であると思いこんでいた娘が、実は彼の人生で最大の厄介者だったなどと、口が裂けてもユーレにはいえない。年端も行かない少女なのだと甘く見た結果、彼女はうまくユーレを手玉にとって探偵をしている。
「俺はユーレ・ノーネイムだ」
「ユーレ・ノーネイム? ニルチェニアではないのか?」
「ニルチェニアは俺の娘の名前さ──もっとも、もう旅立っちまったが」
「そうか……すまない、変なことを訊いてしまった」
「いや、気にすんな」
旅立ちはしたが、依頼で外に行っただけであり、“逝った”わけではない。
勝手に勘違いしてくれるのはありがたい、と心中でほくそ笑みながら、ユーレは話を続ける。
勿論、勘違いしてくれるのを狙って、ややこしい言い回しをしているだけだ。
さらにいうなら、ユーレはまだ一度も“ここの事務所の探偵です”とも言っていない。
それらしく振る舞っているだけだ。それが一番効果的なのを知った上で。
「で、ジュエラで有名な軍人貴族様が、こんな田舎の探偵事務所に何の依頼で?」
ジュエラ。宝石の街。
主に富裕な者しか住んでいないというその街で、一際目立って裕福なのが“メイラー家”だった。由緒ある貴族である一方、優秀な軍人を数多く輩出し、国内の政治にも関わることが多いという。――というのは表向きの言葉で、実際は醜く肥えた狸のような、絵に描いたように腐敗し、堕落した貴族なのが“メイラー家”だ。メイラー家の中でもまともな者がいることにはいるが、貴族社会で生きたこともあるユーレからすれば――そんなのは本当にごく一部の者だけだ。確か、ランテリウスとかいうメイラー家の当主だけはまともだった。その当主も今は死に、若い息子が跡を継いでいるという話だ。分家やら血筋が多すぎて、まとめ切れていないという話を耳にすることもあったが。
ともあれ、外面だけでも高貴な身分の青年が、どうしてこうも寂れた港町の探偵事務所なんかに用があるのか。ユーレはその答えを大体把握してはいたが、確かめてみないことには話も進まない。
青年は、たった一言、「妹を捜している」とだけ伝えた。
ああやはり、とユーレは思う。
心のどこかが冷えていくのを感じたし、同時に目の前にいる石膏像のような青年を撃ち抜きたいとも思った。綺麗なその顔に鉛弾をぶち込めたらどれだけすっきりするだろうか――と考える。
一目見てからそんな気はしていた。
青年の青い目を“彼女”は持たないけれど、青年のような銀色の髪を“彼女”は持たないけれど──同じ血を引く者であるからか、青年は“彼女”によく似ている。
長い睫、ほんの少しつり目がちな瞳。すっと通った鼻筋。
“彼女”の方が格段に肌が白いが、それは目の前の青年が軍人であること、“彼女”は全体的に色素が薄く生まれついたことに起因しているのだろう。
“彼女”の親代わりの司書は確信する。けれど、やはり顔には出さなかった。
──こいつ、ニルチェニアの兄だ。
記憶を失ったまま、ユーレに拾われたニルチェニア。
その“ニルチェニア”の兄が、ユーレの目の前にいた。
「妹さん、ね。……こいつはただの興味本位だが、なんでこの事務所に? ジュエラにも探偵くらいいるだろ?」
「ああ。……だが、」
目立ちすぎる、と青年、ルティカルは語った。
なるほどとユーレは理解するふりをする。
街で有名な軍人貴族の青年が、“妹”を探しているとなれば騒ぎにもなるだろう。だからこそ、わざわざこんなところまできたのだ。
そんなことくらいはある程度は予測済みだ。
ユーレにとって大事なこと、それは“妹がいると知ってここにきたのではないか”ということ。
ただしそれは今の問答で確実に否定されたし、いると知っていたなら、ニルチェニアがここにいる時を狙ってくればいい。
ユーレしかいない時間に来てしまったのが、青年にとっての不幸だろう。ユーレにとっては幸運以外の何物でもなかったけれど。
「紫色」
「あ?」
「紫色の瞳に、銀の──いや、白い髪の。白い髪の、娘なんだ……私の、たった一人の妹だ……」
どうかみつけてくれないか。
懇願する瞳に、ユーレはうっすらと微笑む。
背筋がぞわりとするのがわかった。
「──ああ、任せとけ」
自信たっぷりの微笑みは、妹を迎えにきた兄にどう映ったのだろう。
頼もしく見えたのだろうか。それとも、胡散臭く見えたのだろうか。
ユーレはこの時、自然に、優しく微笑めるように細心の注意を払った。そうでなかったら――きっと、残酷で底意地の悪い笑みを見せてしまっていただろう。
ユーレは青年に微笑みながらも、心の中にどす黒い炎が燃えるのをしっかりと感じ取っていた。
妹を迎えにきた兄が何だ?
数年放っておいて今更?
――絶対に会わせてなんてやらねェ。