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「あの子の瞳が紫であったと分かった途端に、メイラー家のほとんどがこう言いましたよ。“そんな娘は殺してしまえ”とね」
「そんな」
「あり得ないと君に否定できますか、ルティカル。君は……メイラー家の現当主である君にこんなことを言うのは憚られますが、叔父の言葉として受け取って下さい。……白玉卿としての僕ではなく、君の叔父としての僕の言葉です」
「……ええ」
「君は、メイラー家のすべてを肯定できないでしょう。わかっているはずです、メイラー家の腐敗が進んでいることを」
ルティカルは否定できなかった。清廉潔白すぎる叔父の言葉だからこそ、否定のしようもなかった。家柄にあぐらをかき、私腹を肥やす親戚が少なくないことをルティカルは知っている。軍に高官として所属しても、その身に与えられた職務を全うせず、権力のみを誇示する者が多いことにも、気づき始めていた。
「僕は……【公爵家を裁く】システリア家としては、この事態は看過できないと思っています。同時に、【何にも縛られない】ソルセリル・システリア個人としては、不正を働くメイラー家の面々を根絶やしにしたいとも思っていますよ」
「叔父上……」
「ただ、君の叔父としては……“子供を護ってくれ”と君の母に頼まれた【ただの】ソルセリルとしては、何か打開策を探らねば、と思います。滅ぼすだけなら誰にでも出来ますから。君への課題は親類縁者の体質の是正だと思いますし、それをサポートするのが叔父としての僕の役目だと感じています」
だからこそ、と真珠色の瞳の医師は冷徹に告げる。
「君に話したくないのですよ。君は冷静ではいられないでしょう。君に流れるメイラー家の血が、冷静であることを許すはずがないのです。古来より龍は、己の懐にいれたものを侮辱されるのを嫌った。高潔で誇り高く、それゆえに孤独な生き物でした。それは、君たちの遥か昔の……メイラー家の先祖である【ヒト】と交わっても変わりようのない性質です。龍の血を引く君が、妹を捨てた人間を、あるいは身内を……感情のままに切り捨てるのが――僕には恐ろしい。それは、姉のサーリャが望まなかったことですから」
僕は今でも考えるときがありますと、聡明なはずの銀髪の青年は呟く。
「あのとき、彼女の瞳が紫であると告げさえしなければ、こんなことにはならなかったのかもしれないと」
過去を変えることは誰にもできません、とソルセリルは続ける。だからこそ、振り返ってしまうのだと。
「君の妹を殺すなどという話を、君の両親は認めなどしませんでした。当たり前の話です。授かった命に何の罪もありませんし、カビの生えたおとぎ話にびくついて罪を犯すのはあまりにも愚かしいでしょう。今は、おとぎ話の時代ではない」
「けれど、イルツェニカは……」
「ええ。家から追い出されました。君の父親が死んだあと、すぐにね。……確か、あの子が九つ目の夏を迎えた時でした」
君の父親は本当に強い人でしたよ、とソルセリルは語る。
ルティカルの妹が殺されもせず、ある程度の年齢まで育つことができたのは、ひとえにルティカルの父親であるランテリウスがなりふり構わず娘を守ったからだ。
当時のメイラー家当主であったということも少なからず影響しただろうが、メイラー家の外でも権力を持っていたランテリウスは、親類の言葉を権力で黙らせることにしたのだ。
ただし、娘を自分の屋敷から出そうとはしなかった。日の光に弱いという体質、それから親類に害されたりしないようにと、丁重に、過保護に育てていた。
「彼は徹底していました。君は忘れているでしょうが……君たちの屋敷にいたのは、本当に信頼のおける使用人が五人と、君たち親子の四人……たったの九人だったのですよ。貴族の暮らしにはあまりにも少ない人数です。その他の誰も、あの屋敷には踏み込ませませんでした。無論、この僕も」
「そう、だったんですか……」
「【裁く家のシステリアに、偏りがあってはならない】。天秤は水平にあるべきだ、と……。ランテリウスはそう笑っていましたが……そうですね、あのときのことを考えると、それが一番良かったでしょう。僕と君たち親子が親しくすれば、それは他のメイラー家への脅しと取られかねませんし……それが元で反発感情を煽るのも良くない。彼に必要なのは“最低限の脅し”であり、過度なものは要らなかったのですよ」
成長していく姪の姿を見てみたいとは思いましたがね、とソルセリルはいつもの淡々とした口調で続ける。本当にそう思っているのかどうか、何時間か前のルティカルだったらわからなかっただろうが――。今ならわかる。この冷徹な叔父が、本当に姪の身を案じていたことも、今でも案じていることを。
「ですが、ランテリウスは死にました。サーリャ一人では……いくら破天荒なあの姉でも、メイラー家の面々を押さえつけるのはまず無理でした。それは何となく、君もわかるかと思います」
「……はい」
ルティカルの母であるサーリャは、古くからこの国に住み着いていた騎馬民族の出だ。これは貴族にとついだ娘としては異例であるし、ランテリウスが家柄ではなく人柄で伴侶を決めたという証拠に他ならない。破天荒で大胆な母を父が愛していたことをルティカルはよく知っているし、父より母の方が弓の使い方も、馬の扱い方も勝っていたのを覚えている。
ルティカルに乗馬を教えたのは母のサーリャだ。風と一体化したように軽やかに馬を走らせていく母の背中を、たなびく銀髪を、ルティカルは忘れたことがない。その姿を、優しい眼差しで見つめていた父の顔も。
それほど勇ましい母ではあったが――メイラー家の大半と渡り合うとなれば、多勢に無勢。もとより、外の【部族】から嫁入りした娘だと、蔑ろに扱われることも少なくなかった。
「……僕が最後に見た【イルツェニカ】は、君の母と君の父によく似ていました。利発そうな目付きは君の父から、優しげな雰囲気の顔立ちは……姉のものでしたね。まあ、あのサーリャは顔立ちだけなら優しげでしたから、やはり親子なのでしょう」
言外に「顔立ち以外は優しくない」とソルセリルは告げて、「僕は約束を護りきれませんでした」と大きく息をつく。
「一度。君の妹が産まれて一度だけ、ランテリウスと話したことがあるのですよ。医学的に干渉し、あの子の瞳の色を変えられたりはしないか……そのような内容の話です」
「そんなことができるんですか」
「理論的には。……【肌の色を濃くする要素】が多ければ、君の妹の瞳は青く染まったはずなのです。つまり、足りなかった分だけその【要素】を彼女に補填できたなら、すべては丸く収まったのですよ。ですが」
「それは無理だった……のですね」
ええ、とルティカルの叔父は深く頷く。今までで一番疲れた顔だった。自分自身を責めるように指を組んで、まるでいない神に祈るようなポーズだった。
「『五年待ってくれ』。僕はそう言いました。五年のうちには、理論を確立させ、【要素】の補填技術を身に付けられると思っていたのです。ですが、【要素】について調べれば調べるほど……理論の裏付けを行えば行うほど、それが不可能に近いことと分かりました。いわば、【神の域】の話だったのです。人には成し得ないこと。人が踏み込むべきでない領域。それなのに、僕はよく知りもせずに君の両親に淡い期待を抱かせてしまった。これは、僕の罪です」
「それは貴方の罪などでは……! 叔父上は妹を救おうとして下さったのでしょう……!?」
「それは情緒面での話です、ルティカル。現実的には僕は誰も救えなかった。無知は罪なのですよ」
結局、とソルセリルは整った顔に色濃い後悔を乗せて、ルティカルの深い青色の瞳を見つめる。
「君の妹を、イルツェニカを、僕は護れませんでした。……ルティカル、どうして君に【イルツェニカ】の記憶がないのか、……思い出していますか?」
「……いえ」
「記憶を消したのは、メイラー家の人間でした。ですが、記憶を消すべきだと判断したのは……システリアの人間です」
何故、と言葉なく問うルティカルに、「誰もが恐れていました」とソルセリルは苦い顔で告げる。
紫色の瞳の娘。その子が元となり、かつての悲劇を呼び起こすとしたら?
メイラー家の次期当主と【メイラー家】が争う結末を誰もが疑わなかった。不穏因子があるのなら、それは排除すべきだと。それが国を支える【公爵家】のつとめだ、と。
「この国の【公爵家】は……ただの貴族ではありません。わかりますね、ルティカル」
「知っています」
「だから、尚更なのです。君の家は龍を、僕の家はヴァルキリーを先祖に持つ。君の部下にもいたでしょう。メドゥーサの家系の人間が」
「ミズチ……ミズチ・アルテナのことですね」
ええ、とヴァルキリーを祖先に持つ男は頷く。紅茶のカップを引き寄せて、ソルセリルは唇を紅茶で湿らせた。
「この国の【公爵家】で、純粋なヒトはウォルター家のみ。他は狼男、夢魔、それから吸血鬼と……ヒトならざるものの集まりです。ゆえに恐ろしい。本気で争った際、誰にもその結末が読めないのですから」
「だから……あなた方は……システリア家は、妹を捨てることを支持したのですか」
「そうですね。システリアもヴォルテールも、ヤトも……反対する家はなかったと言っていいです。君の妹が生まれる数十年前も、公爵家の者たちは一人の少女に同じことをしましたから。今さら、因習を変えることも……出来なかったのです。君の妹の未来を変える術があるとするなら、それはやっぱり、僕が……」
「【要素】を……」
ソルセリルは無言で頷いた。いつまでも若々しいはずの叔父の姿が、急に老け込んだような――そんな印象をルティカルは受ける。
ソルセリルが何を背負ってきたのかは、ルティカルにはわからない。けれど、普段隠している表情のすぐ下に、人としての苦悩も隠していたのだろう。
「忘れさせることが正しいとは、僕には思えませんでした。【間違ったこと】を“なかったこと”にするわけですから。……けれど、僕の周りのシステリア家の者がいうことも……他の公爵家の者がいうことも、わからないわけじゃなかった」
「叔父上……」
「イルツェニカのことを覚えていれば、間違いなく君もサーリャも黙ってはいない。僕からすれば、それが一番怖かった。……君もサーリャもいなくなってしまうのが、怖く思えました。それが何故かは、解りかねますがね。……僕は結局、君たちの記憶を消すことに頷いてしまいました。本当に、愚かで非合理的な行動だと思います」
ふ、と遠い目をして、ソルセリルはうわ言のように呟く。
「愚かだと解っていても、苔むしたおとぎ話にすがるのが、人としてのあり方なのでしょうか……」
それは、と言いかけてルティカルは口をつぐんだ。
ルティカルの叔父は強堅な精神の持ち主だ。下道な医師だと言われようと、非道だと謗られようと、そ知らぬ顔をしていられるほどには強固な精神を持っていた。ソルセリルにはソルセリルの行動理念があり、行動規範があり、進むべき道も達成するべき目標も見えている。
だから叔父上には解らないのだ、とルティカルは思う。
ソルセリルが【おとぎ話】を【おとぎ話】として切り捨てられるのは、確固たる信念を持っているからだ。だから、ソルセリルは恐れることなく【死の娘】を鼻で笑うことができる。
ソルセリルにとってそれは【愚か】なものだからだ。けれど、他の人間は違う。すべて信じているとは限らなくても、小指の先程しか信じていなくても、恐れる気持ちがあるということは。
彼らにとって、【おとぎ話】は【おとぎ話】ではなかったのだ。
夢物語に語られる話ではなくて。
(起こりうる悪夢だったのだろうか)
不思議と怒りはなかった。ただ、やるせない気持ちだけがつのっていく。確固たる信念を持っていても、ルティカルはソルセリルにはなれない。だから、怖がる他の家の者の気持ちがわかってしまった。
(妹なのに、家族なのに、俺の――)
出来ることなら、とルティカルは思う。
一人にしてしまった時間のぶんだけ、彼女を抱き締めたかった。周りが君を怖がろうとも、君が怖がることはない、と。