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豪華な調度品、並んだ年代物のワインボトル。
贅を凝らした部屋の中で、レグルス・イリチオーネはのんびりと読書を楽しんでいた。
マフィアのボスと言えば大体多忙だが――レグルスは違う。悠々自適にのんびりと自分のしたいことだけをしながら生きている。何かに追われて過ごすのは性に合わない。美女に後を追われるのはなれているけれど――それでも、“追われる”のはあまり好きじゃない。それにも例外はあったが、それはさておき。
ゆっくりとワインでも飲みながら自分だけの時間を過ごせるときは、何物にも代え難い。レグルスはそう信じて疑っていない。
「――さて……」
ばたりと少々乱暴に本を閉じる。口元がつり上がった。
この国は暇つぶしに事欠かないな、と。レグルス・イリチオーネは瞼を閉ざし、安楽椅子に深く腰掛ける。イイ気分だった。なんならこのまま鼻歌でも歌ってしまおうかと思うくらい――愉快な気分だ。
読んでいたのは歴史書だが、わりとファンタジーに片足を突っ込んだようなものだった。だからこそ、飽きずに読めたのかもしれない。レグルスは今の今まで読書を楽しんでいたが、本来は本を読むことはあまりしない。本を読むよりは他人の表情を読む方が面白いと思っていたし――結末の決まった物語を読むのは、どうも性に合わないのだ。何度も何度も繰り返し読んだ本といえば――料理本くらいだ、間違いなく。
本の中でも歴史書は「現在につながる過去」であり、それは“結末の決まった物語”とは少し違うだろうとレグルスは思っている。過去、現在、未来は“一続き”で存在している物だし、未来とは不確定要素を多分に含んだ“結末のない物語”だ。
歴史書に刻まれる歴史はある程度の脚色を多かれ少なかれ加えられているけれど、物語としてはそれもまた――一つの形だろう。
むしろ、そんな物語の一続きの中に己がいると考えれば世界はぐっと面白くなるのではないだろうか。
個人の人生とは、その“個人”が主役でおくる物語だ。だからレグルスは未だに生きているし、生きようと思える。
ただ――その“物語”は自分が主役ではないと男はよく知っていた。
主役は紫の瞳の娘だ。だからこそ、自分は彼女に出会ったのだと確信している。自分は主役ではないが、その物語においては必要な存在になるであろうことを男は――レグルス・イリチオーネはよく知っていた。
個人の物語がまた別の個人の物語と絡み合って――そうして語られていくのが歴史であるのなら、自分の物語と絡み合ってしまった別の人間の物語も、面白おかしくしてやろう――と男は思っている。人の迷惑などは考えたこともない。自分が楽しければそれで良いし、自分の行動が後々の世に歴史として残るなら――。
それはとても愉快なことだ。
「紫の瞳――死の瞳……か」
歴史書に綴られていたのは、レグルスがこの世に存在し始めた頃の“物語”。
美しい紫色の瞳を持った娘が、数多の死を招いた話だ。
愉快な悲劇だとレグルスは笑った。
なぜなら、あの娘に見入られた者たちは全て、物語の終焉からは逃れることはできず――彼女が終演を告げるまで、彼女の手のひらで踊ることしか許されなかったのだから。
***
「死の目?」
何ですかそれ、とリピチアは胡散臭そうな顔を隠さない。名称からしてオカルトの空気がぷんぷんとしていたし、リピチアはオカルトは嫌いだ。――非科学的だから。
「ああ。死の目、だ」
「いやあの……はあ?」
クソ真面目な顔をしてリピチアに「死の目の事を知らないか」と、聞いてきたのは、リピチアの上司に当たる青年の、ルティカル・メイラー中佐だ。わざわざリピチアの研究室に出向いてきた辺りに必死さを感じ取ったリピチアは、問われた内容に拍子抜けした。
神経質そうな顔はどこかの彫刻のように美しく整っていて、眉間にしわさえ寄せなければなかなかの美青年だ――。といっても、ルティカルはもうそろそろ三十路に差し掛かる二十八という年齢だ。故に、青年というのが適当なのかどうか微妙ではある。
「君なら詳しいかと思ったんだが、違うのか」
おや、とでも言いたげな顔でルティカルは目を少し見開く。
普段からわりと険しい顔つきでいるくせに、こんな風にたまにきょとんとするところに惹かれる女性は多いと小耳に挟んだことはあったが――リピチアからすればそれはちょっと……と思わなくもない。
たまにしか見せないきょとんとするところを見たいが為に、世の女性たちは彼の眉間に寄る皺を四六時中見つめると言いたいのだろうか。それでは見返りがあんまりにも少ないんじゃないか。リピチアも女ではあるが、この見目麗しい上司に恋心を抱いたことはない。ぞんざいな口をきいても気にしないところは好ましく思っているし、人として好きだと思うこともあるが――如何せん、実直すぎて付き合いづらい。水が綺麗すぎては魚は住めないし、清廉潔白を突き詰めたような人間は、リピチアの手に余る。
「いえ、違うも何も――あんなのただの伝承とか嘘っぱちとか、後世に伝えるために脚色されまくった事実じゃないですか。やめてくださいよ、馬鹿らしい」
リピチアは一応この国の軍に所属している軍人だ。階級は確か少尉だったはずだが、自分でもあまりよく覚えていない。リピチアにとって必要なのは階級ではなく、そこに付随してくる“特権”だ。それなりの階級を持っていれば、この国では設備の整った研究室が借りられるのだ、無償で。――もちろん、そこには借りたなりの“成果”を出さねばならないという暗黙の了解はあるものの、莫大な資金をつぎ込まなくては得られないような研究施設が、自分の好きなように使えるというのは大きい。
リピチア・ウォルター少尉は、研究施設を使うために軍人となった――そういっても過言ではない。研究施設を借りられるようになるのは少尉からだし、研究施設を借りられれば後はどうでも良かったから、特に昇級しようと努力したこともなかったし、国に忠誠だのを誓ったこともなかった。軍人として最低限の働きをしてきただけだ。衛生兵として怪我をした軍人の治療を行ったり、医学や生物学に詳しいからとやたらその知識を他の兵にも教授しなくてはならなかったりもしたが、基本的にリピチアは学者であり研究者であり現実主義者だ。
そんなわけだから、実直すぎる――というか、大体のことには疑いをあまり持たずに納得してしまう上司は時に歯がゆくもあった。夢のような話や子供騙しの話としか言いようがないことを、すんなりと疑わずに信じてしまう彼には「現実を見て下さい」と言いたくなる。
これでよく中佐という立場にいられるよなあと思うが、ルティカルが実直すぎるのはいわばプライベートだけなので――今のところは業務にも問題はない。
リピチアの目が確かならば、ルティカル・メイラー中佐は軍人としてはそこそこに頭も切れる。むしろ、軍人としてしか使えないようなところがある。
軍人を多く輩出してきたメイラー家という血筋に生まれたルティカルは、世間からたまにズレていることもあったし、一方で戦場では誰よりも頼りになる存在だった。彼の銀の髪が馬の尾のようにたなびきながら戦場を駆けるとき、自軍の士気は格段にあがる。彼が出た戦場では被害は最小限に抑えられることも多々あったし、なにより早急に決着が付く。
ある意味では、ルティカル・メイラーは“現実離れ”した、英雄譚の中で生きているような人間だった。少なくとも、リピチアはそう思っていた。リアリストであるリピチアの上司が現実には中々いないような人間だというのは、ある種の皮肉だったのかもしれない。
リピチアの上司は有能なようでそうでもないというか、放り込む環境によっては神を殺すほどの力を持っていたし、場合によっては蟻にすら殺されそうだった。
そんな風に不安定なのがルティカル・メイラーであり、リピチアの上司だ。つまりルティカル・メイラーとは、超特化型なのだ。彼の得意分野は自らの体を張って戦うことだったし、苦手分野は人を騙したり、あるいは狡賢い方向に頭を使うことだった。
だから、その謹厳実直で品行方正、ついでに頑固なルティカルを支える“腹心の”部下としてリピチアが選ばれたといってもいい。リピチアは自分の体を張って戦うことはそこまで得意でもないけれど、有り体に言って狡賢い方向に頭を使うのは大得意だ。リピチアの他にもルティカルの腹心の部下はいるけれど、その部下だって狡猾としか言いようがない。狡猾な部下二人によって支えられている品行方正な上司、というのはなかなかに笑えるが、リピチアはあまり気にしていなかった。
「生物学的にはあり得ないですよ、紫色の目を持ってたから死を招いたとか何とか――って。この世に何人紫色の目の人がいると思ってるんですか?」
詳しい数はリピチアも調べたことはないが、紫色の瞳を持った人間が死を招くとするなら――この世はとうに終わっているだろう。
「む……確かにそうだな」
「大体、それって古くさい歴史書の話でしょう。確かに事実も含まれてますけど、伝承とごっちゃになったような話ですから、話は半分程度に信じておくべきですねー」
ルティカルがリピチアに話した内容は、リピチアもよく知っている――というか、この国に産まれた者なら大体は知っているはずの内容だ。