09
阿呆らしいと鼻で笑いたくなった。
「──菫色、か」
頭に渦巻く記憶を、一つ一つさらっていく。何一つとして忘れなかった記憶。“娘”の記憶。
真夜中、朧気な月の光を受けて道の真ん中に突っ立っていた幼い少女。
拾い帰って魚のパイを与えれば、こんなものはいらないとばかりに無言で突き返されたのを覚えている。憎たらしい奴だなとは思った。
娘の声を初めて聞いたのはいつだったか。
拾ってから半年だっただろうか。
失語症なのかと疑うばかりに話さなかった少女は、ある日を境によく話すようになった。
紫の瞳に、銀に似た髪。かつて愛した女の面影を感じて拾った娘。
──“あなたはわたしを求めたの、貴方にとって私は何なの”
初めて聞いたその声よりも、口に出された言葉に戸惑った。
幼い子供が口にするような言葉ではなかったから。
紫の、菫によく似た色の瞳が、男の翡翠色の眼を捉えて離さなかった。真っ直ぐと見上げる幼子の瞳に驚いた自分の顔が映っていたのを男は覚えている。
あのときはその言葉の真意などには気付かなかった。
「“あなたはわたしを求めたの”、か」
今なら何となくわかる。
“イルツェニカ”だったころの娘は、求められなどしなかった。血のつながりを否定するかのように捨てられて、男に拾われたのだから。
拾われた少女は何を考えたのだろうか。
その存在を求められなかった少女はいったい何を考えていたのだろう?
──“あなたはわたしを求めたの、貴方にとって私は何なの”
──“俺の娘だよ”
──“そう”
珍しく泥遊びに夢中になり、土だらけの娘の髪を洗っていたときの会話だ。
その時に腰にある、魚の鱗のような痣にも気がついた。
その日に娘は高熱を出して寝込んだ。あのときはひやひやしたものだった。いつ思い出しても、懐かしい。
名前は、と彼がその後に聞けば、娘はわからない、とはっきりと口にした。今までは夢現といった様子で彼を見上げるばかりだったのだが。
――わからないから、つけて。
そういわれて彼は迷うことなく、彼女によく似た色を持った女性の名を付けた。
「あー……何だってこんな、胸糞悪い──」
自宅のソファ、だらしなく横になりながらユーレは天井に向かってため息をつく。
ルティカルが言い掛けた言葉が気になって、メイラー家のことが気になって、調べた結果は散々だ。成果はあったが、内容はさんざんだった。
わざわざジュエラへと赴き、それとなく周りに聞き込みをしてみれば出て来るのは憶測にも似た噂話。けれど、火のないところに煙は立たぬ。憶測の根底にも理由はある。
金持ち特有のネットワークを辿り、十年ほど前に噂となったらしい“とある軍人貴族の娘の話”を掘り起こせば、大体のことは把握できた。
メイラー家はひた隠しにしていたようだが、貴族ともなれば沢山の使用人を召し抱えるものだ。ルティカルの屋敷にいた使用人は多くなかったが、それでもゼロじゃない。
そのひとりひとりの口に戸を立てることなど出来はしない。たまたま見つけることのできた元・使用人に些少の金を掴ませれば、ユーレの聞きたいことはほとんどすべて聞き出せた。
メイラー家には確かに娘がいたこと。
娘はメイラー家に“いないもの”として扱われていたこと。
娘の父親が亡くなったことをきっかけに、娘は捨てられたこと。
捨てられて以後、娘の兄も娘の母親も、娘の存在など無かったかのように、今まで通りに毎日を過ごしていたこと。
──家の者は誰一人として、娘の行方など気にしなかったと。
無邪気で菫の花が好きな娘だったという。
幼いながらに聡明で、兄をよく慕い、兄の後ろをついて回る小さな娘だった、と使用人だった老いた女は語った。
必死に妹を捜す兄を見て、心が揺らがなかったわけではない。
血の繋がらない、汚れたものに身を染めた自分の娘として生きていくより、歴とした身分を持った、軍人貴族の一員として生きた方が彼女のためになるだろうと思ったこともある。
きっと、そちらの方がニルチェニアにとっても幸せだろうと。些細な自分の感情程度で彼女の幸せを踏みにじることが、父親ではないと。
けれど、メイラー家について調べれば調べるほど、“父親として”メイラー家に娘を渡す気にはならなくなった。
──あの家は、あの娘を求めてはいない。
兄が何と言おうと、どう動こうと、“メイラー家”はニルチェニアを受け入れはしないだろう。
たった一つの馬鹿らしい理由で。
「何なんだよ、もう──訳分かんねェ」
ふ、とため息をつき、瞼を閉じる。
自分は家を捨てた。
彼女は家に捨てられた。
ぐるぐるとまわりはじめる記憶と記録。
このまま寝てしまおうかと体から力を抜けば、トントンと控えめな音が玄関から聞こえる。なんだってんだと勢いをつけてソファから立ち上がり、玄関の扉を開ければそこには、一人の娘が立っていた。
「──ニルチェニア」
「今晩は、お父さん?」
からかうような響きを持って、ほんの少し微笑んだ娘は、会いに来ました、とだけ口にした。
「何で。事務所は」
「だらしない“お父さん”のことだもの。仕事が忙しいからって身の回りのことに無頓着になっているだろうと思って」
「ははは……」
あながち間違ってもいない。
干されたまま畳まれもしないシャツ、使われたままの食器、使われていないフライパンに、転がる酒瓶。
独身男性の悲劇的な現実がそこにあった。
「またピザばっかり……健康的な食事を、って言ってるじゃないですか」
デリバリーピザの箱が積み重ねられた一角を睨みつけ、娘は呆れたように口にする。
「ん? ニルチェ、お前いつから俺の主治医になったんだ?」
探偵は廃業かとからかえば、溜息だけが返ってくる。
心配してくればこれだもの、と言いながらも、ニルチェニアは髪を結い上げ、袖をまくり、使われたままの食器と格闘しはじめた。
「悪いな」
「別に。気持ち悪いから謝らないで下さい」
投げかけられた言葉の割に口調は優しい。
食器をこする度に揺れる銀の髪を見つめながら、やはりメイラー家に返すべきではないのだと思う。
それが、娘の悲願である“自らの来歴を紐解く”ことの妨害になったとしても。
「お父さん」
「どうした? なんかお前に“お父さん”なんて言われるとむず痒いな……」
「……少し真面目な話ですから」
「……何だ?」
気付かれたのかと思う。ほんの少し凍った心臓は、どくどくとうるさく鳴り響く。
獲物の頭を撃ち抜くときだって、こんなに鼓動を早くしたことはなかったのに。
「あの、あの、ね」
「何だよ。怒らねェから言ってみな」
――早く言えよ。内容次第では穏便には済まないかもしれねェけど。
「――貴方の調査を頼まれました。……ミズチ・アルテナという人なのだけど……ご存じ?」
「いや。知らないな……アルテナ家か」
アルテナ家。希代の錬金術師を過去に輩出したという家だ。が、ユーレにはあまり関係のない話で。
不安そうな娘に「どうしたんだよ」と聞けば、「その人、軍人なの」と小さく声が返ってくる。
「軍人……? そりゃ、何でまた」
「わからないです……でも、危ないことに首を突っ込んだりはしていないのですよね、今は」
「当たり前だろ、可愛い娘持っておいていかがわしい商売なんか出来るかっての――安心しろ、ニルチェニア。お前は俺がずっと、俺が死ぬまで護ってやるから」
約束だ、と抱きしめてやれば、腕の中の娘はこくりと頷き返してくる。この温かさを、訳の分からぬ兄などに渡したくはなかった。
「よかった、貴方にきちんと言えて」
「何だよ、いきなり」
「だって、ユーレさんはわたしのお父さんだもの。──ちゃんと伝えておきたかったの。大事なことだから」
家族だもの、隠しごとはしたくなかったから。
その言葉が、ユーレの胸にじくじくとした痛みを残す。
表情にでないようにとつとめながら、ユーレはいつもの父親としての笑みを引き出した。娘を安心させるために作るその表情は、もう十数年とつきあってきた顔だ。ふとしたときに鏡やガラスに映るその顔は、ユーレ自身から見ても信じられないほど優しげなのに。生きていて良かったと、心から言える顔なのに。
──言えなくて、ごめん。
そんな優しい父親の顔をして、ユーレは大事な娘に嘘をつくほか無かった。
「ま、お前がどこに行こうと何をしようと、どこぞに嫁に行こうと──俺の家族ってのは変えられないからな」
「ふふ。全くね。ユーレさんがわたしを捨てたりしない限りは家族だわ」
「馬鹿だなー、こんなに良くできた娘を捨てるかってんだよ」
「どうかしら? 素敵な女性ができたらわからないでしょ?」
くすくすと笑う娘に、「お前より素敵な女ができても、娘には変わりないさ」と彼はおどけて返した。
──血が繋がっていなくとも。
「俺みたいな男の面倒を甲斐甲斐しく見てくれた奴なんてお前しかいないぜ、ニルチェニア?」
「それじゃあ娘じゃなくて母親ね?」
「娘も母親も家族には違いねェだろ?」
「わたしより年上の息子なんてぞっとするわ」
ふふふ、と微笑みながら娘は久しぶりにあった父親に、近況を話す。
そのひとつひとつに愛おしさを感じながら、父親は相槌を打った。
夜空の天頂、大きな満月が上る頃。
父娘の密やかな話し声が、小さくも温かい家の中にこだました。