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――“貴方の青い目をちょうだい”。
父の声より、母の声より、兄の声より先に彼女が耳にしたのは――聞いたこともない、けれどどこか懐かしい女の声だった。女の声は彼女の産声にかき消され、そうして生きるために女は死に、死ぬために女は生きていく。
無償の愛はいずれ無性の哀となり、深く暗い海の底へと数多の者を誘うだろう。
視界を埋め尽くす雪、沈んでいく城の前で――死の瞳を持った女は涙を流し、生の瞳を持った女は――微笑を浮かべ。
“穏やかな孤独に抱かれた少女は、いずれ貴方たちを終焉の海へと導くことでしょう。終演は近く、誰一人舞台から降りることは赦されず――踊り続けるしかないのです、彼女の手のひらの上で”
***
ガタガタと机を揺らしながら、ようやっと少女は机の引き出しを引き抜いた。引き抜いた拍子に後ろに倒れ込んでしまって、引き出しの中のものを床にばらまいてしまったけれど――後で引き出しに詰め直せばいい。それに、もうこの部屋を使うこともなくなってしまうかもしれないから……。
何色が良いかな、と思いながら、青いクレヨンと紫色のクレヨンを手に取った。引き出しをひっくり返して、細やかな木目のそれにクレヨンを滑らせる。丁寧に作られた引き出しの木肌には、クレヨンは引っかかることもなかった。
「――ありがとう、ございました」
小さな声で呟いて、少女は引き出しを元通り、机へとはめこんだ。これで良い。これでよかったんだ。
母親の部屋、自分の部屋。子供ながらに細工できるのは精々これくらいが限度だと、幼いながらに聡い少女は知っている。それと同時に、“あいつら”が自分のことを子供だと見くびっていることも。
こうしておけば、いつか、きっと誰かが気づいてくれるはずだ。気づいてくれるのがあの優しい兄だったらいい。兄が迎えに来てくれるなら、きっとまた、幸せな日を送れるだろう。きっとまた、イルツェニカ、と自分の名を呼んでくれるだろう。
スミレ色の瞳を持った少女は薄く微笑んだ。微笑んだひょうしに細めた瞳から、ころりと涙が転がり落ちる。
壮絶に美しい微笑み。それは。
――それは、十にもみたぬ子供が浮かべるようなものではない。いつか来るべき日を希い、未来を望む復讐者の微笑みだった。
薄暗い部屋の中、天井からつり下げられたオイルランプ。
仄かな光は少女の紫色の瞳を深く、絶望的なまでに美しく煌めかせている。
――そうして少女は朝日が昇ったその日の内に、自らの親族の手によって、捨てられた。
***
「あー、くっそ……」
何なんだよこいつ! と頭をかきむしりながら、ユーレ・ノーネイムは小さな少女の前で悪態を付いた。
目の前にいる少女は幼くて、とにかく無愛想だ。子供ならもう少し愛想が良くても罰は当たらないというか、もっと可愛らしくあるべきだと思う。
何しろこの少女ときたら、ユーレが何かを語りかけても視線をよこすだけで声を返さない。失語症なのかとも思ったけれど、時折くしゃみをしたりする時に声がでているのを聞いているから――話せないんじゃなくて話さないだけなんだと確信した。
ガキってめんどくせえ、と吐き捨てたユーレの耳に、くすくすと艶やかな男の笑い声が忍び込む。
「拾ってきたは良いが、といったところか?」
「何だよレグルス、文句あんのか」
「いいや? 友人の危機を目の前に、ただ無力に嘆いているだけさ。――いやあ、なんて俺は無力なんだろう!」
「アホ。……仕事を一度したきりの知り合いを友人というのは、お前くらいのモンだろうよ」
「つれないな、ジェラルド。子供にまで馬鹿にされてすねているのか?」
「やめろ」
にやりとしなからやってきたのは、ユーレの仕事仲間のレグルスだ。日に当たると銀色に煌めく黒髪に、青い瞳の美丈夫。それだけなら良かったというのに、彼は――レグルスはなかなかどうしてイかれている。どこがイかれているのかと問われれば枚挙に暇はないが、代表的なものと言えば、まだ若いというのにどこぞの“マフィアのボスを務めている”ところだろうか。そんな人間なのだから、ユーレから見ても一般的に見てもイかれている。
――しかし、ユーレとて人のことをああだこうだと言えたもんじゃない。
「暗殺者から足を洗ったばかりの男に、小さな少女なんて育てられるものかと思ってな。有り体に言って茶化しに来たんだよ。そらから、頼まれていた家の権利書を渡しにな」
「うるせェ。誰が何拾おうがお前に関係ねェだろうが。頼まれものに関しては礼を言っておくけどな」
「それは“どういたしまして”、だ。……しかしまあ、あの女によく似ているじゃないか。だから拾ったんだろう」
ユーレは先日暗殺家業から足を洗い、暗殺者として最後の仕事を終え、死に場所を求めてさまよっていたところでこの可愛くもない子供を拾うに至った。何故拾ったのかと言えば――惚れ込んだ女に似ていたから、だ。目の色と髪の色がそっくりだったから。それ以外に拾った理由は何もない。
にていたからだ――なんて、陳腐で下らない理由だとユーレ自身も思うけれど、捨てられていた少女を拾ってしまったのはユーレ自身だ。拾ってしまった以上、そのまま死のうとも思えなくなって、今まで“仕事”で貯めた金で港町にある家を買い、その拾った子供と滅茶苦茶な生活を始めた。
――そうだ。滅茶苦茶だ。我ながら計画性がまるで無い。綿密な計画の元に行動を起こすのが自分の性格だったのに。
「だったら何だって言うんだよ」
「特に別に言うこともないさ。お前が死のうとしないんなら、それは俺にとって好都合。そこのガキには感謝しようと思うくらいでな」
白髪に紫の瞳。見目こそ人形のように整っていて可愛らしいけれど、三日間ほど暮らして出てきた感想は“かわいくない”の一言に限る。これで微笑みでもすれば愛着もわこうかというところだが、肝心の少女は本物の人形のように無表情だ。いっそ、人形のほうが愛想がよいかもしれない。張り付けられたような笑みでも、まだそっちのほうがかわいげがある。
「捨てられていたという話しか聞いていないが――親に目星は?」
「ない。このがきんちょもなァんにも言わねェ。名前も名乗らねェの。この歳なら普通名前くらいは言えるだろ、名前があればの話だけどよ。――ほいほい俺に拾われて、それからこっちにきてもこのザマだよ。人形かっての」
「ま、その辺で野垂れ死ぬよりはこのガキにとっても良かっただろうさ――なかなか綺麗な顔つきだし、将来有望だぞ」
「お前幼女趣味だったのかよ……」
ますます変人だな、と嫌そうな顔をしたユーレに「見知らぬ娘を拾ってきて育てている男の方が、よほど幼女趣味に見えるが」とレグルスは無表情で返す。確かにと同意してしまってから、ユーレは落ち込んだ。そんなつもりは――別に年端もいかない小さな少女にそんな疚しい気持ちなど抱いてはいない。一般的に見たら確かにそうなるのかと改めて気づいて、どうしたものかと頭を悩ませた。
突発的な衝動に駆られて拾ってきた自分が悪いのは分かり切っている、が。
「お前の歳なら娘がいてもおかしくないだろ。若いときの火遊びのツケを払ったとでも何とでも言っておけば詮索もされにくいだろうし。戸籍は?」
「どっちもまだだ。……それから、ジェラルドって呼ぶのはやめろ」
「ほう?」
ユーレ――ジェラルドはレグルスの顔を見ることもなく、「ユーレ」とだけ伝える。
「ユーレ・ノーネイム。前に伝えただろ。俺は今度からそう名乗って生きていくよ。暗殺者のジェラルド・ウォルターはもうお終いだ」
「そうか。それは寂しくなるな。もうお前は一般人として生きていく、と?」
「ああ。そこのがきんちょと普通に一般的な暮らしをしていこうかと思ってるよ。多分お前と会うのもこれきりだろ、レグルス」
「ベビーシッターになら立候補してやろうと思っていたんだが、そうか。お別れか」
「ばっかやろ、どこの世界にマフィアのドンにガキの面倒見させる奴がいるんだよ」
情操教育によろしくないどころの話じゃねェだろう、と顔をしかめたユーレに、ごもっともだとレグルスが笑った。
「それなら、これは俺からの餞別と言うことで」
「――悪いな」
「気にするな。どうせまた会うこともあるさ。お前の意志に関わらずな」
どことなく不穏なことを呟いて、レグルスは紙を三枚入れた封筒をユーレへと手渡す。ユーレが中身を確認すれば、そこには家の権利書と捏造された戸籍が記された書類が二枚。
「言われたとおりに“手続き”したから、まあ問題はない――ユーレ・ノーネイムにその娘のリラ。二人ともそういう内容で登録されている。これからは一般人として慎ましく生活してくれ」
「ありがとな」
「普段やってることに比べたらこんなものは朝飯前さ」
マフィアのボスがやるにしては下っ端向けの仕事だがな、とレグルスは珍しく上機嫌に笑うと、「またどこかで会おう」と上機嫌なまま、家を出ていった。
出来ることならもう会いたくはないが、とユーレは思う。ただの友人としてならかまわないが、仕事上のおつきあいなんてごめんだ。もう一般人になると決めたのだし。
ともかくはこれでまともな生活が出来そうだと、捏造された戸籍が印字されている書類に目を通す。無愛想で無口な娘はリラという名前になっていたし、その下には“ユーレ・ノーネイムの養子”と記載されていた。
「俺、お前の父だってさ。父親だぜ、父親。笑っちまうよなァ」
その言葉に反応したのか、少女はユーレをちらりとみると、ふふ、と本当に小さく笑い声を漏らした。声を漏らしただけで顔は笑っていない――不気味でもあったが、感情に乏しい少女らしくもあった。
もっとも、それがどんな意味なのかはユーレにはわからなかったけれど、少女が家族になることを拒んではいない、ということだけなら理解できた。
「俺、頑張るからさ……頑張るから、チャンスをくれよ、“リラ”……」
まっとうな人の道になんて戻れる気はしていない。それでも、その真似事くらいなら許されるんじゃないか――。暗殺者としての自分を殺し、ユーレ・ノーネイムは新しい、“一般人”としての道を歩もうとしはじめた。
傍らには何を考えているのかわからない、紫色の瞳の娘をおいて。