だからボクは丸くなる
ボクは彼女が大好きだ。多分、彼女も同じだと思う。頬を寄せて甘えても優しく受け入れてくれるし、彼女の柔らかい膝の上はボクの特等席だし。
それなのに彼女は、ボクの目を見つめながら他の男の話ばかりする。ハセガワクンってヤツ。同じクラスで、今度の席替えで彼女はヤツの後ろになったらしい。ある日、学校から帰ってくるなり彼女が、少し興奮しながらそう教えてくれた。西日に顔を染められながら、込み上げてくる笑みを噛み締めるように、「どうしよう」と呟いた。
いつから彼女がその名前を呼ぶようになっていたかは憶えていない。だけど、思えばその時くらいからだったのかもしれない。学校帰り、部屋で二人っきりで過ごす時間の中で、彼女の口を突くヤツの名前が気になりだしたのは。
それから最初の何日かは目に見えて緊張していた。顔を合わす距離が近くなった途端、過剰に意識してしまったみたいだった。毎朝そわそわしていたし、自分の格好がおかしくないかってことばかり気にして、執拗にボクに訊ねてくる。そうこうしている内に時間がなくなって、慌てて学校まで駆けていく。だけど鏡では良く見えない頭の後ろ辺りにちょっと寝癖が残っているところが、彼女らしくて可愛かった。きっと途中で気づいて一人であたふたしたり、誰かに指摘されて赤面したりする姿を、ボクは秘かに想像する。そして、「失敗した!」て少しむくれながら愚痴をこぼす彼女の頭を撫でながら、ボクはいつも慰めていた。
学校が終わってから、毎日そんなふうに彼女の話を聞いた。二人きりで、彼女の部屋で、時には机に向かい合ったり、時にはベッドの上に座って寄り添うようにしたりしながら。昔は一緒に走り回ったり、じゃれ合ったりして遊ぶこともあったけど、今ではコロコロと表情を変えて喋る彼女の話に、耳を傾けることが多くなっていた。そうして、昼間一緒にいられない時間を補完していた。活発に遊んでくれる彼女も好きだったけど、ズボンをスカートに履き替えて、少し化粧をするようになった彼女は綺麗で、もっと好きだ。時々困った顔も見たくなって、悪戯をしてしまうくらいに。
二人でいるときの彼女は良く喋るし、良く笑う。嬉しいときはボクと額がくっつくくらいまで身を乗り出してきたり、悲しいときや悔しいときには涙を流したり、恥ずかしいときは赤面したり、手足をバタバタさせたり、浮かれてるときはボクの頬やお腹を突っついたり、ゴロゴロしたり。素直に溢れ出る感情を隠したりはしなかった。人前に出た彼女はボクと同じで取り澄ましているから、そんな彼女を知っているのはボクだけのはず。最近、ヤツが友達と人気ロックバンドの話をしていたとか、配られたプリントを手渡す際にドキドキして顔を見られなかったとか、そんな話題が多くなっていたのが癪だったけど、そんなのは一種の熱病か何かだと思っていた。そんなことよりもボクはまだ彼女を独占していることに満足していたし、彼女の気持ちだけが空回りして、それがヤツに届いていないことにも安心してた。
そして席替えから一週間経って、初めて言葉を交わしたらしい。
「古典のテスト範囲ってどこだっけ?」帰りのホームルーム中に背中を突いてきたヤツがそう訊き、彼女はただ反射的に答えた。
「72ページから120ページ」
「サンキュー」
要約するまでもなく、それだけの会話。いや、会話とさえ呼べないくらいの短いやり取り。それなのに彼女は天井に頭をぶつけてしまいそうなくらい舞い上がり、興奮していた。そのとき自分がどれだけ嬉しかったかを滔々と語り、歓喜で膨れ上がった心を爆発させるみたいに、握り締めた両手で何度も机を叩いた。突然で声が裏返っていたり、もっと可愛い返しができたんじゃないかと嘆きながらも、上気した彼女の顔は終止幸せそうに緩みきっていた。
「ねぇ、喜んで」と、ボクの手を取りながら彼女は笑った。彼女の笑顔は好きだ。ずっと見ていたいと願うほどに。だけど素直に、おめでとうなんて言葉は言えなかった。
本当のことを言えば、このときボクは少しだけ嬉しかった。自慢の彼女がようやく誰かに認められた、彼女の想いがほんの僅かでも報われた。それは他人には秘密にしていた宝物を何も知らずに褒められるようなくすぐったさがあったけど、同時に胸の奥が疼くのを感じた。
だって、その笑顔は間違いなく、ボクのためのものではなかったから。
別に声をかけられたからってヤツが彼女の存在を意識し始めたわけでもない。彼女の気持ちに気づいたわけでもない。彼女の一方通行の想いは何一つ変わらないはずなのに、
日向ぼっこをしている最中に突然夕立の雲が忍び寄ってくるような、そんな不吉な気配を感じていた。
暗闇の中でただ一つ灯った明かりを見つけたなら、取りあえずその方向に足を向けてみるのが生き物の性なのかもしれない。闇雲に想いを募らせて袋小路に迷い込んだ彼女には多分、ヤツと言葉を交わしたという事実が、確かな道標に見えたのだろう。
だから勇気を振り絞って、その次の日には彼女の方から声をかけた。
――黒板写せなかったからちょっとノート見せて。
一限目から用意していたその言葉を、彼女は五限目になってようやく口にした。声に出すことが精一杯過ぎて、まともにヤツの顔を見られなかったらしい。それまで別に親しかったわけじゃないから、怪訝な顔をされたのかもしれない。ヤツが逡巡していたであろうその短い間が彼女には途方もなく長く感じ、胸の鼓動が邪魔して上手く息ができなかったのだという。そんなの軽く断ればいいのに、だけどヤツは自分のノートを手渡した。
人間というのはきっと、距離感のわからない相手には、まずは優しく接するものなのだろう。
あの先生消すの早すぎだよな――そんな愚痴を聞きながら、彼女は顔を上げることが出来なかった。せっせとノートを写すフリをしながら、胸の鼓動が溢れ出さないように抑えるので必死だった。折角の休み時間なのだから仲のいい友達とつるめばいいのに、ヤツは彼女の作業が終わるのを待っていた。向かい合って座っている、今ヤツの意識の中に間違いなく自分がいる、そのことが彼女の頬を紅潮させ、息苦しくもさせた。シャープペンシルを握る手は震えている。それなのに、はね方に特徴のある文字とか、欄外に描かれた落書きだとか、そんなところに今まで知らなかったヤツを見つけた気がして、彼女には無性に嬉しかったみたいだった。
「猫、好きなんだね」
落書きの一つを指差しながら訊ねると、ヤツは照れたように頷いたらしい。家にも一匹いるんだけど――と携帯電話で撮った写真を彼女が見せようとしたところで、六限目のチャイムが鳴った。
折角膨らみかけた会話の蕾が開く前に摘み取られたことを悔やみながらも、その日の出来事を語る彼女は満足そうだった。肩まで垂れ下がった髪をクルクルと弄るのは、機嫌がいいときの仕草だ。想いの一欠けらが届いたという、そんな確かな手応えがあったのだろう。そして、晴れやかな顔でボクに笑う。その喜びを完全に共有できると信じて疑わない彼女の瞳が眩し過ぎて、とても見ていられなかった。
ボクがどんな想いでその話を聞いているのか、きっと彼女は想像さえしたことはないのだろう。彼女の泣いている顔や、淋しそうな顔は胸が張り裂けそうで見たくなんてない。なのにボクは、嬉しそうにヤツの話を喋るようになった彼女の想いが、潰えることばかりを願っていた。
本気で、そう思い始めていた。
雪原に坂道があれば、あとは小さな雪玉を転がすだけで勝手に大きな雪だるまになっていく。それと同じだ。要はきっかけさえ作れたなら、転がり落ちていくのなんてきっと容易い。
始めは日に一回あるかないかだったヤツとの接点も、次第に増えていった。そんなのは知りたくもないのに、彼女の言葉からはまざまざと現実を知らされる。二人の距離が互いに近づいていくから交流が増え、互いに多くの言葉を交わすから、二人の距離が縮まっていく。転がりだしたそれはもう、加速度を伴って膨らみだしていた。
一日の大半を同じクラスで過しているのだから、共通の話題には事欠かなかったんだと思う。授業とか勉強の話に始まって、あの先生はどうとか、クラスメイトのあの子が最近こうなんだとか。そんなものから、段々と踏み込んでいく。昨日見たテレビは、好きな音楽は、趣味は、休みの日は何をしているのか、兄弟はいるのか、どんな女の子がタイプなのか、猫は飼っているのか――彼女はいるのか。
ボクにはどうでもいい話でも、彼女はその一つ一つが綺麗な宝物であるかのように記憶という名の宝石箱に並べていく。その一つひとつに一喜一憂しながらも、日々増えていく喜びが溢れている。ボクはというと、時折それを踏み荒らしたい衝動に駆られながらも曖昧に頷くしかなかった。そこに彼女なりの勇気や努力があったことを知っている。だからそれを否定したり、無に帰すことなんてできないし、何より彼女に嫌われたくはない。
だからボクは願うことしかできなかった。彼女が、傍にいるボクに気づいてくれることを。
だけど彼女に前に進もうとする意思がある以上、願っているだけでは何も状況は好転しない。そんな当たり前のことに気づいたのは、もっと後だった。小さい頃からずっと一緒だったのだから、口に出さなくてもわかってくれる。そんな期待は、ただの甘えでしかなかった。恋は盲目などと良く言われるけど、彼女には袖を引くボクのことなんて目には映っていなかったのかもしれない。
そしてボクは初めて本気で喧嘩した。彼女がどう思っているかは知らないけど、少なくともボクはそのつもりだった。
高校の入学と同時に、彼女は携帯電話を買ってもらった。受験勉強を頑張ったご褒美にって、そういう約束だったらしい。初めてそれを持ち帰った夜、彼女はボクとお揃いの、栗毛の猫のストラップを付けた。これを持ってるとずっと一緒にいるみたいだねって言った彼女は、少し誇らしげだった。子供の頃には持つことができなかったものを手に入れたことで、ちょっとだけ大人になった気になったのかもしれない。それから一年半が経ってもまだ、ボクの分身はそのままそこにぶら下がっていて、離れることはなかった。
携帯電話というものを普通の女の子がどくらいの頻度で使うのかは知らない。だけど、テレビなんかで日に百通はメールのやり取りをする子もいるのだと聞くと、その日鳴った回数が片手でも数えられるくらいでしかない彼女は、例外的に少ないのかもしれない。それなのに最近、彼女の手が携帯電話に伸びることが多くなったのを感じていた。そわそわしながら画面を開き、何の着信もないのを見るとかすかに溜息を吐く。そしてまた、十分くらいすると同じように画面を覗き込む。時々メロディーが鳴った瞬間に飛びつくけど、宛名を見て僅かに肩を落とす。その度にボクは、デコレーションされたキティーとばかり顔を合わせている。
ある程度親しくなってくると、まるでそうしなけれないけない儀式のように携帯電話のアドレスを交換する。それが多分、人間関係として次のステージに移ったという、一つの証明になるのだろう。文化祭でヒロインの姉の役が決まってから少し経ったあの日、彼女はボクの前に現れるなりすぐに携帯電話を取り出した。まだ弾む息を整えるのももどかしいように蒼白い画面に食入ると、メールの宛先を手に入れたばかりのヤツのアドレスで埋める。ボクには意味不明の文字列でも、彼女にとってはきっと、奇跡を引き起こす魔法の呪文も同然だった。それを愛おしそうに見つめては胸に抱きしめ、そして少し頬を赤らめてボクに笑った。それからヤツに初めて送るメールの中身を、ボクに相談してきた。
今何してるの? といきなり送るのはストーカーみたいだ。今度の休みにどこかに遊びに行こう、と自分からデートに誘えるくらいの関係には早すぎし、そんな勇気はまだない。帰りに寄った喫茶店のデザートの話とか、CDショップで見つけた新しいアルバムのこととかを振って、相手が楽しいと感じてくれなかったらどうしよう。どんな絵文字を使えば可愛く見えるか、どれくらいの量なら鬱陶しく思われないか。どうすればもっと、好きになってもらえるのだろう。そんな逡巡をたっぷり二時間は繰り返した挙句、たった三行の、昼間に出された宿題の質問だけを送った。その間、言葉だけはボクに向けられながらも、多分出会ってから初めて彼女はボクと目を合わさなかった。
厚さ僅か一センチ程度のディスプレイが、どうしようもなくボクと彼女を隔てていた。
はっきりと言えば、それの存在は脅威だった。いつでも、どこでも、誰とでも繋がっていられるそれはつまり、いつでも、どこにいたとしても、誰からでも時間を奪われる装置だ。二人っきりのときにだって無粋な電子音が平気で割り込んでくるし、その返信を彼女は躊躇わない。日ごとにヤツからの電話やメールが増える度、誰よりも近くにいるはずなのに、次第にどこか遠くへと追いやられてしまうような気がした。
だからボクは携帯を奪ったんだ。ヤツからの着信を示すメロディーが鳴ったそれを彼女の手からもぎ取って、唖然とする視線を確認しながら窓の外へ放り投げた。スピーカーからはヤツの声が漏れていたけど、それもすぐに聞こえなくなった。
「バカ」という小さな悲鳴がした。彼女は驚いたまま、腰掛けた椅子から立ち上がることもできない。ただ宙に消えた携帯の行方を捜すような彼女の目を、ボクは見つめた。殆ど睨むように。
それが最大限の意思表示のつもりだった。
怒るだろうって思った。少し垂れ下がり気味の目を吊り上げて、ハンバーガーにも上手く齧り付けないくらい小さめの口を大きく開いて、今まで聞いたこともないくらい大きな声を上げて、罵る言葉を吐く。そんなふうに感情的な姿を、ボクは望んでいた。
だって何かしらの感情をぶつけられるということは、少なくともその間中は、彼女の意識の中にいられることが実感できるから。こんなに近くにいるのに、フェードアウトしていくのは嫌だ。
――ボクはここにいるよ。だから、もっとボクを見て! 二人っきりのときはヤツの話なんてしないで! ボクにヤツのことなんて聞かせないで! ボクを、好きでいて!
そんな言葉を発せられればよかったのかもしれない。例えどんなにみっともなかったとしても、いつも彼女がボクにするように、自分の想いをもっと伝えられればよかったのかもしれない。
だけどそんな言葉を持たないボクは、窓辺で身を震わせるしかなかった。そうして半ば祈るように、彼女の第一声を待った。
一瞬呆然としていた彼女は瞬きを三回ほど繰り返すと弾かれたように席を立ち、窓辺に駆け寄った。立ちはだかるボクを押し退けると、日の傾いた朱色の光に頬を染める。綺麗だった、息を飲むことさえも忘れるくらい、とても。横顔を眺めるボクは、ふとそんなことを思う。その姿一つで全てをチャラにできてしまいそうで、ボクは大きく首を振った。
こっちを向いてよと袖を引くボクを、だけど彼女は無視して階下を覗き込む。
二階から見下ろす景色は家や標識や人や、あらゆるものの影が長引き、緩やかに夜が滑り込んでいた。庭先に佇む木や、塀代わりに植えられた茂みや芝が最後の抵抗とばかりに燃え上がり、そのコントラストの中でピンク色の携帯電話は色彩を失っているらしかった。彼女が目を凝らして探す間中、ボクはずっと呼びかけていたけど、夢中だったのかその応えはなかった。
「もう。壊れたらどうしてくれるの」
やがて彼女はそんなことを呟くと、ボクのおでこを指で突いた。そして膝丈ぐらいのスカートを翻すとボクを一人置き去りにして部屋を出て行く。すぐにパタパタと階段を下る足音が聞こえ、それを聞きながらボクは誰もいなくなった宙ばかりを見つめていた。
怒っているというよりは、溜息交じりで呆れているみたいだった。小さな口を窄めながら言い聞かせるように喋るその仕草は、悪戯をしたボクを嗜めるいつも通りのもので、だから多分今回のボクの行動もいつも通りの悪戯でしかないと、そんなふうに思ったのだろう。
結局、彼女には何も伝わらなかったのだ。ボクの抱えている想いも、不安も、ただ純粋な怒りさえも、何一つとして――。
窓の外から茂みが揺すられる音がした。地面に這い蹲うようにして携帯電話を探す彼女を遠くに見つめながら、ボクはただ線香花火みたいに虚しく、夜へと滑り落ちていった。
案の定――携帯電話は壊れていた。でもその次の日には新しいものを買って、小一時間説明書と格闘した末に、端末が新しくなった旨を告げるメールをヤツに送った。そしてその次の日からはもう、何も変わらなかった。ボクと一緒にいる時間も、それなのに少しずつ遠くへ行ってしまうような歩幅も、そのままだった。
だけど、正確には二つの変化があった。一つは携帯電話を触るとき、ボクから少し距離を取るようになったこと。多分、また悪戯されて壊されるのを警戒しているのだろう。最初の何日かは端末を見せさえもしなかったし、その後も赤ん坊に頬を寄せるように確り抱きとめたまま、羽毛のように柔らかい耳朶に当てる。ヤツの声を届けるそれが、まるで何よりも愛おしいみたいに。でも自業自得だってわかっていたから、二人でいるとき急にはしゃぐように立ち上がる彼女を、引き止めることなんてできなかった。
そして、それからもう一つ――携帯電話に吊るされたストラップが変わっていた。
高校入学のお祝いで立ち寄った携帯ショップ、そこで彼女はそれを選んだ。淡い栗色の毛をした猫が、丸まって欠伸をしているストラップ。壁一面に並べられた幾つもある種類の中で、だけど迷うことはなかったらしい。最初からもう決めていたように、それだと思ったのだと教えてくれた。「ほら、お揃いだね」と梱包から取り出しながらボクにお披露目すると、修学旅行の夜に好きな子を告白し合うみたいに密やかに、それを買ってもらったばかりの携帯電話に取り付けた。ボクはそれを厳かに見つめながら、結婚式の指輪交換みたいだと思った。そうして一つの誓いが取り交わされたんだって、そんな気がしていた。
こうしてるとなんだか、どこにいても一緒みたいだね――二人で見入りながら、ふと彼女がそんなことを呟いたのを憶えている。頬を寄せると、ピアノを弾くようなしなやかな手つきでそっと、ボクの頭を撫でてくれた。だけど今は、そんな思い出さえも一つひとつ、虚しい残響だけを置き去りにして、まるで夢から醒めたように弾けて消えてしまう。
そんな音だけが、なぜか鮮明に聞こえた。
三日月に星を散らした金色のプレートなんて明らかに彼女のセンスじゃないのに、時々思い出したようにうっとりと眺める。どうせどこかの砂場で埃にまみれて朽ちているような安物なのに、唯一無二の財宝みたいに指先で触れる。そうして会えない時間を恨みながら、電話の発信ボタンを押すのを躊躇いつつメールを送る。返信が来るまでの間、お気に入りの大きなネズミのぬいぐるみを強く抱きしめながら、痛みを伴う甘美な恍惚に満たされている。そしてまた、思い出したように携帯電話を弄り、返信がまだなことを知ると、切なそうにストラップを見つめる。
蛍光灯の明かりを弾くゴールドの輝きが、どうしようもなく恨めしかった。そして、それを目にする度に願った。もう一度あの場所を取り戻したい。彼女が一番にボクを見つめて、笑いかけてくれる場所に帰りたい。いつも一緒にいるみたいだねって笑った彼女の傍に、もう自分は必要ないなんて思いたくはなかった。
だからボクも贈り物をしようって決めた。ヤツが安物のオモチャ一つで彼女の目を眩ませたように、そんなのよりももっとすごいものを贈ることで彼女の気持ちがボクに戻ってきてくれるのだと、そう信じた。その可能性に縋るしかなかった。
そうと決まればあとは昼も夜もなかった。彼女が喜ぶものを探し求めてただひたすらに駆けずり回り、転がるような毎日だった。ボクが彼女だったらどんなものを欲しがるだろう。ボクが彼女だったら、どんなものをもらって喜ぶだろう。そんなことをいつも考えていたけど、結局のところ誰かに贈って喜ばれるものなんて、ボクには一つしか思い浮かばなかった。それを手に入れるために色んなお店にも行ったし、そういうのに詳しそうな連中に話を聞いてみたりもしたけど、ただ時間ばかりが過ぎていくだけだった。ボクが奔走しているその間でも、彼女は電話が鳴るのを心待ちにし、そして無邪気にヤツの話をした。それから文化祭の準備だと言って、帰りが遅い日が増えた。二人きりの時間まで奪われていく。そんな日々で焦りがピークに達しようとする頃、ようやくボクは手に入れた。
気がつけば眠ってしまっていたらしい。来た時は夕日に染められていた彼女の部屋は、今ではすっかりと夜に塗り替えられていて、明かりをつけない室内でオーディオのスタンバイを示す文字だけが、街から見る一等星みたいに淋しく光っていた。
彼女はまだ、帰っていない。ベッドの枕元で探し当てた目覚まし時計は、もうすぐ七時を指そうとしていた。
今頃はヤツと肩を並べて下校中なのかもしれない。それとも、ヤツと一緒に文化祭の劇の練習中なのかもしれない。ヤツの下らない一言で照れたように笑う彼女を想像すると胸の奥が焦れる。だけどそんなのももうすぐ終わるはずだ。
机の上に置いたプレゼントがちゃんとそこにあるのを確かめると、ボクはベッドを離れ、彼女が使い古した勉強机に座った。それを決して手放さないように掴むと、机上に伏せてもう一度目を閉じる。想像するのはただ、彼女がそれを受け取ったときの喜ぶ顔だった。
それがもうすぐ、現実になる。
階段を飛び跳ねるように上ってくるかすかな震動。小羽が吹き上がるみたいな軽やかなステップが部屋の前で止まると、ボクは顔を上げてドアを見つめた。暗闇でも正確に思い描ける間取りの中で、そこが一番に彼女を見つけられる場所だから。
早くボクを見つけて欲しい――心臓の鼓動が痛いくらいに胸の奥を叩いていた。
そして思い描いたようにドアが開く。逆光に塗り込められた人影が、迷いもなく明かりをつけると、ボクはもう胸の高鳴りを抑えられずに声を上げた。
喜ぶ顔が見たかった。ありがとうって言って欲しかった。ボクを、抱きしめて欲しかった。そんなことしか、思い浮かばなかった。
それなのに彼女は小さく悲鳴を上げると後ずさった。いつもならすぐベッドに鞄を置き、奥のクローゼットを開いて着替えを始めるのに、その最初の一歩が出てこない。それどころか後ろに引いた足の力が抜けて、今閉じたドアを背にして滑り台を滑るみたいにその場に座り込んだ。
壁を背にして身動きの取れなくなった彼女のは顔は、ホラー映画で殺人鬼に追い詰められた人みたいに引きつっていた。恐怖でナイフの刃先から目が逸らせないように、ある一点ばかりを見つめている。それは、ボクが期待していた反応とはまるで違っていた。
理由もわからず、ボクは首を傾げる。彼女が何に怯えているのか、良くわからなかった。大嫌いなゴキブリを見つけた時の様子に似ているけど、あの黒光りした奴らが俳諧するには時季がもう遅い。一線に向けられている彼女の視線が、原因がボクであることを告げている。だけど、そのボクに至ってはいつも顔を合わせるボクと、なんら変わりなんてないはずなのに。
いくら考えてもきっと、その答えには辿り着けない。そんなことよりも早く彼女を安心させてあげたいし、早く喜ぶ顔が見たかった。だから取りあえずプレゼントを受け取ってもらおうと、ボクは立ち上がるとそれを咥えた。
途端、彼女の怒声が踏み出した前足に突き刺さる。
「こっち来ないで! そんなのどこから拾って来たのよ! 早く捨てて来なさい!」
驚いて飛び退くのは、今度はボクの方だった。携帯電話を窓から落とした時でさえ、彼女は頬を膨らませただけだったのに、眉を吊り上げて睨みつけるその顔には、はっきりとした嫌悪が見て取れた。そこから一歩でも進もうものなら、身構えた彼女の手から鞄が飛んできそうで、動けなかった。
形勢は完全に逆転していた。声を出したことで少し冷静さを取り戻したらしい彼女が立ち上がると、睨みつけながら見下ろしてくる。ボクは全身の栗色の毛を粟立たせながらその顔を窺う。
わけがわからなかった。反射的に耳を垂らして、上目遣いにごめんなさいのポーズを取っていたけど、頭の中は混乱していた。どうやらプレゼントが気に入らなかったらしい。だけど、なぜなのかがわからない。今まで何匹もの女の子に渡してきたけど、みんな喜んでくれた。それも今回は彼女のために頑張って、ボクの顔を二つ並べたくらいの、特大のネズミを捕まえてきたのに。いつも彼女が抱いて寝るような、ぬいぐるみの偽者なんかじゃないのに。これまでの誰よりも喜ぶ顔が見たかったのに――。
やっぱり人間の考えることは良くわからない。
顎が疲れてきて、獲物を下ろそうとすると、「汚いからやめて!」と彼女に冷ややかに窘められる。期待で膨らませた風船が弾けて、支えを一つ失ったそれは鉛のように重く、ボクの頭を地面に落とそうとするみたいに引っ張った。でも決して手放すこともできずに、途方に暮れたボクはただ、彼女を見つめた。
そして彼女も、ボクを見ている。ボクが自分のベッドに上らないように、口に咥えたものを変なところに放ってしまわないように、一挙一動に気を配っているのがわかる。
結果的には、ボクらは見詰め合っていた。いつもと違って彼女は眉間に皺を寄せ、目を吊り上げていたけど、そんな顔も可愛かった。そしていつもと違って彼女は、ヤツのことを口にしなかった。きっとその瞳にはボクしか映っていなくて、この瞬間は多分、ヤツのことなんて頭の片隅にも思いはしないのだろう。
そのことに気づいた途端、何だかとても満足してしまった。なんだ、簡単なことじゃないか。思わず笑い出しそうになって、体中の力が抜けそうになって、気づけば特大のネズミをカーペットの上に落としてしまっていた。彼女は短い悲鳴を上げると、お母さんを呼びに部屋を飛び出していく。足音も気にしないで階段を駆け下るのを聞きながら、ボクはベッドに上った。
伏せをして、体の隅々まで彼女の匂いに満たされると、安心して眠りに落ちた。
結局、あの後ボクはお母さんにも叱られた。あれだけ苦労して捕まえたネズミもビニール袋に包まれて、今ではゴミ回収車の中なのかもしれない。でも、それが嫌だとは思わなかった。
「いってきます」と、制服に身を包んだ彼女はドアを出て行く。さすがにもう、身なりを気にしすぎて、遅刻だといって走り出していくことはなくなったけど、後頭部の辺りにちょっと跳ねた寝癖が残っているのが相変わらず可愛かった。学校に着いたらそれをヤツに指摘されてあたふたするのかもしれない。帰り道は二人で手を繋ぎながら歩くのかもしれない。きっと、ボクの知らない顔で笑うのだろう。
だけど、あのドアをくぐってまた彼女はボクのところへ帰ってくる。何度でも、何度でも。
次はどんな贈り物をして彼女を驚かせてあげよう。そんなことを考えながら、柔らかな日が差し込む窓辺に移動する。彼女はついさっき出かけたばかりで、当分は戻って来ない。だからボクは丸くなって、暫く彼女の夢を見ることにした。
初投稿作品です。
よろしければ感想をお聞かせください。
よろしくお願いします。