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夢の湊短編集

ノーミュージック、ノーライフ


 NO MUSIC、NO LIFE。

 音楽の無い人生なんて、有り得ない。

 どこかのCD屋のキャッチフレーズだが、最高に当を得ている。おれの人生について言うならば、だ。

 おれは常に音楽を聴いている。おれは常に音楽が鳴っているところにいる。おれは常に音楽がないところには音楽を持っていく。

 おれが物心ついた頃には既にポータブルプレイヤーが普及していた。だから、この生活を実行するのに不都合なことは一つもなかった。カセットテープを、CDを、MDを、DATを、ハードディスクを、その時その時に最も性能のいいものを、おれは音楽のために持ち歩いてきた。もし、これらの便利な機械がない昔に生まれていたら、おれはどうなっていただろう。

 プレイヤーが進化するに従って、おれの持ち運ぶ曲は増え続けた。バッテリーの性能が上がるに従って、おれの行動範囲は広がり続けた。

 毎日の歩行中、バスを待ちながら、吊り輪に掴まり揺られながら、会社の中で、パソコンを眺めながら、電話の応対をしながら、メモをとりながら、会議室にいながら、移動しながら食事をしながら話しながら呑みながら排泄行為をしながら、出張中のタクシーの中でも海の上で船に揺られていても飛行機で空を飛んでいても、もちろん風呂の中でもベッドの中でも、一日中どこでもおれは音楽と一緒だ。

 今のイヤフォンはノイズキャンセリング能力が高く、おれと音楽の領土は何者にも侵すことのできない聖域にあと少しまで近づいている。

 昔からの友人はおれの嗜好を理解しているから、うるさいことは言わない。時には一緒に専用のホールで生の音楽を浴びるように享受し、楽しみを共有することもある。そんな一時は結構楽しいものだ。

 だが、おれと音楽の領土を見た普通の人間は大抵妙な顔をする。耳に装着されたイヤフォンから四六時中音楽が流れているとを知ると、怪訝な顔はさらにマイナス方向に変化する。時には苛立ちとともに、ごちゃごちゃ言い出すヤツも出る。そんな時おれはヴォリュームを上げる。すると、相手の口から飛び出しているんだろう小言を、全く気にしなくて済む。気に入りの曲のリズムやメロディーに身を委ねているうちに、相手は諦めてどこかへ行ってしまう。

 例えば、今の職場の上司だ。

 ヤツとのつきあいは、ここに来てからだからまだ日が浅い。なんとかしておれの注意を惹こうとしているのも、そのせいだろう。おれという人間を未だに把握していないヤツは、いつもおれの音楽を止めたそうにしている。イヤフォンを引き剥がしてやりたいと顔に大書きしてある。だが、実力行使に出る勇気はないようだ。

 今日も一つ案件を持ってきたが、おれは気が乗らなかったのでヴォリュームを上げ、ジャズの音色にヤツの言葉を埋もれさせてやった。ヤツはおれの耳のあたりを忌々しそうに睨みつけていたが、結局は無言で去って行った。

 こういうヤツは遅かれ早かれ、おれそのものをいないものとして扱うことに決める。その方が精神衛生にいいからだ。おれにとってもその方がラクでいい。

 問題なのは、なかなか諦めないヤツだ。たまに現れる無駄に根性のある人物とおれとは、徹底的に決裂しての終焉を迎えることが多い。

 実は今、目の前にいるこの女とも、そうなりそうな予感がしているところだ。

 白磁のコーヒーカップを付け爪をした指で支えながら、不機嫌そうに言葉を吐き出し続けている女は、リップグロスをでろりと塗った唇を尖らせて、何度も開けたり閉じたりをくり返す。

 おれはそこに、丁度いい具合にラップのリズムを重ねて聞いていた。

 不機嫌な顔に被さる掛け声は、イェー、イェー、イェー、イェー。

 まるでコミカルなプロモーションビデオだ。生じる皮肉な可笑しさに思わず口が緩んでしまう。

 そんなおれの顔を見て、女の細い眉が吊り上がった。女は突然首を振ったかと思うと、明るく染めた髪を掻き上げながら、おれに向かって叩きつけるように言葉をぶつけ始めた。

 高揚感のあるサビのメロディーが、感情的な動きにスリルを上乗せする。

 丸い胸をリズミカルに弾ませながら、女は肩を怒らせ、ラメ入り爪の人さし指の先をおれを射すように突きつける。

 透明な唾を飛ばしながら、肉感的な唇が開閉するそのさまを眺めていたら、女は突然立ちあがり、乱暴に上着をとった。おれを見下ろして何かを吐き捨てるように口にすると、くるりと背を向ける。

 おいおい。

 一直線に出口へと遠ざかる後姿を見送った後、テーブルを見ると伝票が残っていた。

 今度の女はキレるのが早かった。泣き顔が可愛いからもう少し続くかと思っていたが、つきあい始めてからそんなものは殆ど見せてくれなかった。泣き顔予想は期待外れだ。

 そういえばあの女、この店に入ってから延々と何かを訴えていた。おれはBGMが好みに合わなかったからきっぱり遮断して、持参のプレイヤーを聴いていた。当然、女の言葉は全く聞こえていなかったわけだが、これまではそれで何の不便もなかった。女の話ってのはつまるところ自己完結するものだから、大抵の場合、適当に相づちを打っていればそれで丸く収まる。スムーズに流れる時間は上手くいっている証だ。

 その流れが途絶した時はおれの場合、相手が一つのことをようやく実感した時と相場が決まっている。

 そんな状況で、おれが言われることは毎回おんなじだ。

 話を聞け。

 わたしの、おれの、ぼくの、話を聞け。

 音楽なんか聴くのをやめろ。

 耳にタコができるほど聞いた台詞だ。

 話を聞くのはやぶさかではないのだが、音楽を聴くなとはおれに生きるのをやめろと言っているのに等しい。そこのところを何で誰も解ってくれないのか、まったくこっちが理解に苦しむ。

 おれはいつも全身で主張しているじゃないか。おれと音楽とは切っても切れない、絶対に切り離しようのない強い絆で結ばれてるってことを。

 こんな面倒臭いやり方で後味悪く愛想を尽かすくらいなら、さっさと離れてくれたほうがずっと親切だ。

 幾度か似たようなことを繰り返しているうちに、おれは思い始めていた。人間とつきあうのは、なんて手間のかかる面倒なことなんだろうと。

 だからだろう。最近のおれは人の言うことが真実どうでもよくなってきていた。どうでもいいことは聞き流すのはおれの昔からの習慣だったが、今では意識しなくても声は消え失せ、代わってその時聴いている音のヴォリュームが上昇するようになった。

 水が注ぎ込まれて水槽の水位が上がるように、おれの体の回りを音が浸していく。おれの周囲に音楽で満たされたシェルターが出来上がる。

 快適なシェルターに籠もったおれに頻々と用事をすっぽかされた職場の人間は、おれに用事があると要件を書いたメモを渡してくるようになった。なるほどと思う。おれの耳は塞がれているがおれの目はまだ周囲を見ている。そのメモを見たおれはというと、重要だと思ったことだけしてやって残りは捨てていたわけだが、そんな事をしてもおれはまだお払い箱にはされていない。自慢じゃないが、おれは仕事ができるのだ。

 しかし、こんなふうにマイナスの用件を一方的に投げつけられるのは、初めてだ。

 これは仕返しか?

 いつも通りに捨て置いてバックレたら、無銭飲食で犯罪者になっちまう。

 うんざりしながら伝票を握り、立ち上がった時、おれはもう一つの忘れ物に気がついた。

 あの女、バッグを忘れて行きやがったのだ。

 マヌケな置き土産に対する怒りに合わせて、おれはプレイヤーのリストを変更する。ラップは止めてロックだ。吠え猛る硬派なプレイに身を委ねることにして、レジで勘定を済ませ、女のバッグを肩にひっかけると、ドラムとベースの攻撃的な轟きを伴に、真っ直ぐ人混みに突き進む。

 夜は更け、ネオンの街は酔客だらけになっていた。繁華街の臭いが生ぬるくあっちこっちから漂ってくる。

 つい持ってきてしまったが、この忘れ物どうしてくれようか。

 女の部屋は知っている。だが、届けてやる義理があるのかどうか。

 迷いを蹴散らすように、傍若無人なヴォーカルが全てを拒絶してシャウトする。

 面倒なんか放り出してしまえ。しがらみなんか切り捨ててしまえ。

 おれは一人で生きる。一人で生きられる。一人がいい。一人でいたんだ。

 大地から響いてくるような音に全身を打擲されて、麻痺する感覚が気持ちいい。

 この爽快感をわからないヤツになんか、用はない。

 電気信号によって生成されるベース音の、ずしずしくるリズムに合わせて角を曲がった時、すれ違いざま誰かと肩がぶつかった。

 振り返ると、顔の輪郭がたるみ崩れて脂じみた男の、驚愕の視線が飛び込んできた。

 まるで感電でもしたみたいな惚け顔に、おれの笑いが弾け出す。

 顔を強ばらせ、男が何かを言う。

 口がぱくぱく動くのに合わせて鳴るのは、滑稽さをアピールする超絶技巧のギターソロだ。怒りで力んだ男の動きは操り人形のようにぎこちなく、見ていると可笑しくてたまらない。

 まだ何かを言ってる男を振り落とし、笑いながらおれは踵を返した。

 それからしばらく、おれは音楽と一緒に通りをそぞろ歩いた。気分が良くなってきたからか、曲調が変わる。今度は人混みを音と一緒にグルーヴする感じだ。

 余裕が生まれたおれは、視界で起きるあらゆる物事に何故かどんぴしゃりのメロディーやリズムが鳴るのに気づいた。

 これはなかなか面白かった。

 いいや、なかなかなんてもんじゃない、これはまるでおれの理想の世界、天国そのものの実現だ。

 台詞や効果音なんて邪魔は何一つ存在しない。全てが音楽で表現される。雑音に煩わされることなく、おれは音楽だけに専心し身を任せられる。走るドラム、かっ飛ぶギター、変幻するキーボード、うねるヴォーカル。

 跳ねるベース、踊るパーカッション、突き抜けるホーンセクションの賑やかなアンサンブル。

 都会の闇に落ちる街灯の下を、どぎついネオンの瞬く下を、食べ物や吐瀉物やらアルコールやらがごった煮の悪臭の中を、ジャズ、ブルース、リズムアンドブルース、ラテン、ヒップホップ、ビートの効いたダンスミュージックを道連れに、おれは闊歩していった。

 周囲の人間は、おれとは関わりのない動く書き割りだ。歩道をいちゃつきながら蛇行するカップルや、暗がりでたむろする胡乱な青少年、やけ酒あおって管巻く赤ら顔の中年男、異色な雰囲気を撒き散らして空気を読まないカルトっぽいヤツらが、全て、おれのために上映される面白可笑しい映画の登場人物達なのだ。

 そんな感覚に酔いしれて有頂天になっていたおれは、先を行く人間がぽつぽつと立ち止まり出したのに舌打ちをした。

 狭い空間で棒みたいに突っ立って、歩行の流れを疎外しているそいつらは、始めはただとても邪魔なだけだったが、皆が皆、何かの予兆に撃たれたような顔をして、不安そうに視線を泳がせているのが目を惹いた。

 気がつくとおれは、たった一握りの抱いた警戒心が、したり顔で危機感を煽る音楽に乗って次々に周辺に伝染していく瞬間を目撃していた。

 広がる不穏の海にさらに大きな波紋を生みだして、何かが弾丸のように飛び込んできた。醜く歪んだ必死の形相で、多分自分自身の限界を超えて力を振り絞っている男だった。

 ストリングスの特別にサスペンスフルな音を背負って駆けてくる。

 おれは、周囲を見まわしてみた。

 男の登場に触発され、人々は動揺して慌てふためき、次々に後を追い始めた。

 高まるBGMの中、眉を寄せ額を皺だらけに口を悲鳴の形に開け、眺めるおれのことなど見向きもせずに、ひたすら脇を走り抜けていく怒濤のような人の波が夜の都会に出現した。

 それはアフリカの草原に暮らす草食動物の群の映像のようだった。捕食動物に襲われた草食動物は、他者によって狙い定められた死を振り解き、自分だけでも命永らえようと、必死で逃げ惑うのだ。

 突然発生した先行き不明のドラマ、ドキドキハラハラする音楽に飾りたてられた興味深いシーンに偶然出くわし、傍から見物している気分で、おれは逃げ去る人々を見送った。

 爆発的な音が、大気を震わせて近づいてくるのを感じたのは、その時だった。

 おれはその発生源を確かめることを思いつき、ゆっくりと振り返った。

 次の瞬間、夜闇を切り裂く強い光が一瞬で視界を眩ませたかと思うと、途方もない衝撃が体に襲いかかった。

 何か大きな物体がおれに衝突したのだ、おれは弾き飛ばされたのだと、意識する間もなく、アスファルトを頭上にして体と視界がスローモーションで回転する。

 重力に逆らっているおれの体以外、おれの思考も含めて、全てが静止している空白の時間がそこに生まれた。

 おそらくそれはほんの一瞬だったんだろう。車に跳ね飛ばされたからといって、人間はそんなに長い間宙に浮いていたりしない。

 だが、おれには、その瞬間が永久に続くように思われた。

 正確な間隔で響く一つの低い音以外、全ての音が消え去った、その瞬間を麻痺した感覚でぼうっと受けとめていた。

 この瞬間が過ぎたら、酷くまずいことが待っている。

 そんな予感が脳裏を掠めた。

 そして、極限まで引き延ばされていた時間が弾けて元に戻った時、おれは固い地面に叩きつけられる衝撃に襲われた。

 肉が潰れ、骨が捻れ、砕けた肉体の中で、おれはまだ意識を保っていた。

 おれは人だかりに囲まれていた。おれは街灯に照らされた視界に、おれを見下ろしておれに話しかける幾つもの顔が出たり入ったりするのを目にしながら、ひどい混乱に陥っていた。

 何故かといって、おれには、おれに話しかけるヤツらの声が、全然聞こえないのだ。自動車事故の現場には幾つか遭遇したことがあるが、大抵の場合、その場は混乱で騒然としているものだった。なのにおれは、周りを走りまわるヤツらの声を、全く聞きとることができないでいた。

 事故の衝撃で、一時的に難聴に陥ったのではない。

 その証拠に、おれの横たわる世界には、まだ音楽が鳴っていた。おれは、耳を聾する大音響に包まれていたのだ。

 大地の底から響く重たい打楽器とともに進撃して来るのは、まるでおれの境遇に劇伴をつけたらこうだろうというような、オーケストラの重厚なシンフォニーだった。飛びきり悲劇的に鳴きつづける弦楽器の主旋律とともに、幾つもの管楽器、打楽器がそれぞれに個性を主張しながら重なり合い絡まり合って、新たに生み出され増幅された響きがヴォリュームマックスでおれの全身を襲う。既に傷つき壊れかけている体を、小刻みの震動がさらに細かく粉砕していく。

 こんな曲は、おれのプレイヤーには入ってない。

 恐慌状態のまま、感覚の無い手でイヤフォンを引き剥がそうとしたが、指先がなんとか辿り着いた耳からは愛用の高機能なそれが消えていた。事故の衝撃で、外れてどこかへ行ってしまっていたのだ。

 途端に極度の悪寒が、エレクトリックギターの金属的な高音となって全身を鋭く貫き、同時にタイトなリズムを刻むベース音があちこちに生じた深刻な傷をざくざくと掻きむしり始めた。

 おれは、心の中で悲鳴をあげた。

 その悲鳴は、鋭く高い金管とシンバルの金切り声に変換された。

 ぐるぐる点滅する赤い回転灯とともにやってきた救急隊員が、おれを担架に載せながら何事かを尋ねてきたが、おれはその言葉を聞き取ることもできなかった。

 なのに救急車の発進、急加速から、タイヤが受けとめる道路の凹凸、カーヴで重心がずれてまた元に戻る揺れの感覚が、緊急事態を告げる忙しく喧しい音として変換生成され、これでもかとおれを目指して雪崩れ込んでくる。

 集中治療室とおぼしき場所に引きずり込まれた時に加わったのは、数え切れない医療機器が奏でるテクノポップだ。

 全ての影を消失させる眩しい手術室に運ばれて、酸素吸入のマスクを装着され、麻酔を打たれて視界が暗転した後も、音は鳴り止まなかった。この期に及んで突如始まったグランドピアノの響きは、オーケストラとはまるで別のソナタを奏で始めていた。

 もう嫌だ。

 やめてくれ。

 悲劇のバックグラウンドミュージックは重々しい予兆を通り過ぎ、今やまさにこの瞬間の危機を表現する変化と振幅の激しいドラマティックなラインへと変容していった。そこに被さるのが陶酔しきったピアノと、エレクトリックで機械的なリズムとメロディーでは、ハーモニーになるはずがない。

 それに加えて、何が要因かおれには解らない異様な音が周囲で散発的に発生し、おれの神経を掻き乱し続けた。

 そのうち、一応はそれぞれに曲の形が聞き取れていた音楽が、次第に曲としての調和を失ってバラバラと崩れ出した。

 一番低くて正確だった音の間隔が次第に間遠になっていく他は、ノイズだらけでヒステリックで、既に楽曲とは言い難くなってしまった音、音、音が、津波のように溢れて高まり、崩れては押し寄せ、盛大なる激流と化した不協和音は幾らでも押し寄せ続けた。

 一体これは、どういうことだ。

 この音は、どこからやってくるんだ。

 おれの耳は、何を聞いているんだ。

 生まれる疑問が思考の形を成していないことに、おれはもう気づけなくなっていた。

 おれは、全てが音としてのみ存在を許される世界に、やってきてしまったのだ。

 何もかもが空気の振幅による波として形作られるそこで、生まれいずる波はおれの破れた皮膚に次々と打ち寄せると、神経を血管を幾千もの細い針となって流れ遡り、全身を経巡った末に骨の髄へと到達する。

 尖ったそれが数限りなくおれの真っ芯に突き刺さり、激痛にのたうちまわっても、耳は塞ぐことができないし、意識を遮断することもできない。

 こんな目に遭わされるのは、まだおれが生きているからなのか。一体、どれほどの怪我を、おれは負ったというのか。

 もしかすると、生きるのをやめれば、死んでしまえば、この音は消えてなくなるのか。

 ならばそれでもいい。

 死ねば解放されるというのなら、このまま死ぬのもありだ。

 だから、だからお願いだから、この音を止めてくれ。

 血反吐を吐くような悲鳴が大きな夾雑音として吐き出された時、放心するおれの一番間近で重たく響き続けていた低い音が、ふつりと途絶えた。

 同時にあれほど喧しかったテクノポップとピアノの独奏が、後を追うように消えていった。

 するとおれの中心目がけてごりごりに凝縮されていた音の波動が、ゆっくりと解け始めた。

 激烈な変化が次第に和らぎ、体に届く震動が緩く弱くなっていく。

 わずかな、空白がやってきた。

 しかし、安堵するほどの暇はなかった。

 それほど間をおかずに、虚ろな打楽器の音がぽくぽく鳴り出したのだ。

 音は、それからも変化をつづけた。

 単調なリズムで延々と続く軽い打楽器音に、エスニックな弦楽器の沈み込むようでいながらなんとなく空気の薄い気のする、不思議に明るいような伴奏が重なる。

 そこに加わった細く煙のように立ち昇る管楽器の音色を不安に感じていると、ずっと暗転していた視界に何者かが現れ、おれに語りかけ始めた。

 おれは警戒しながらもその何者かに向かって懸命に眼を凝らし、耳をそばだてたが、生憎そいつの姿も言葉も、靄がかかったように曖昧で、何者なのか何を言っているのか、なかなか判別がつけられない。

 てめえは、一体何しに来たんだよ!

 苛立ち混じりの罵倒は、言葉にはならなかった。

 代わりに殴りつけるような騒音が生まれ、おれの方がビビる始末だ。

 そいつはおれとしばらくそのまま対峙していたが、音色が遠く弱くなっていくとともに、結局おれには何にもわからないまま、いつの間にか消えてしまっていた。

 おれの前に、おれ以外の何者かが現れたのは、それが最後のことだった。

 おれは、一人で取り残されたのだ。



 それから、おれはずっとここにいる。

 おれのしているのは、ただ聞くことだけだ。何もかもが波動となった世界で、することといったらそれしかない。

 音は鳴りつづけ、消える気配もなかった。そして、曲として認識できる形は殆ど失っていた。

 おれはもう、視覚刺激が存在しないことを意識することもなくなっていた。音だけの世界に慣れ始めているのだろう。まだうまく聞き分けはできないが、周囲にある音は、おれの既知の何かかもしれないと推測している。おれは飲み食いの必要を感じなくなっていたが、試しに食べてみようにも、まだどの音が食べ物なのかも解っていない。

 もしかすると、今のおれは何も食べなくても平気なのかもしれない。

 だがその考えは、非常に危険な何かを孕んでいる気がする。誤って再び到達しないように、おれは心にストッパーをつけて置くことにした。

 音は、存在しつづけていた。

 他の何が無くても、それだけは揺るぎようのない現実だった。

 あちらこちらで、何の法則もなく湧き出す音やリズムやメロディーの断片をたどって、おれは移動をすることができた。

 音は、世界に満ちあふれていた。

 澄んだ音から雑多な混じりものを含む音、孤高の音、懐の深い音、穏やかな低音から明るい高音、普通に聞こえる音から、可聴域を超えてただ震動としか呼びようのない音――だがおれには聞こえる――まで、音は呆れるくらい大量に生成されつづけていた。

 その中でおれが好んで聞いていた音など、砂漠の中の砂粒一つ、ごく僅かなものに過ぎなかった。ともすれば押し流されそうな音の奔流の中から、おれの力だけでそれを選り出すことなど不可能で、高性能のオーディオ機器を持ったところで、きっとどうにもならないだろう。今のおれには、触れることの出来そうなものが、何一つ見えないんだから。

 おれには今、体があるのだろうか。

 ああ、いけない。これも考えてはいけないことだという気がする。

 おれは、音だけの世界を彷徨する。

 たった一人で、氾濫する音の中に馴染みの気配を密かに求めて、ゆらゆらと浮遊する。

 もしどこかで覚えのある気配を見つけても、相手はきっと、おれのことになんか気づかないだろう。おれの方も、気づくことが出来るかどうか怪しいものだ。それはうすうす感じる不安だったが、やめることもできなかった。

 他にすることがないというのは、言い訳に過ぎない。おれはおれをおれとして意識しつづけるため、保持しつづけるための理由が欲しかったのだ。

 彷徨しているおれは、孤独だった。認めたくはなかったが、孤独は辛いものだった。

 誰か一人でいいから、おれを見つけてくれないか。わずかな、だが切実な期待を抱いているおれを、以前のおれならば情けないと嘲るに違いない。実際にそうだった時も始めのうちは確かにあった。だがそんな感情もかつての記憶も、いつしか源を失った泉のように枯れていってしまった。

 諦めろと、おれの中でおれが言う。

 どれだけ彷徨ったところで、おれを見つけてくれそうな人間に、心当たりなどないだろう。

 そんな関わりを避けて音楽に逃避し、一人でのめり込んでいたのがおれの生活だったのだ。

 音ばかりの乾いた世界に似合うのは、乾いた孤独、それだけだ。

 それがいいと望んだのは、誰だった?



「もう、気にするのやめなよー。そりゃ、自分が忘れたバッグ持った男が事故られたら、ヤな気分だよー。でもさー、あの男がああいうヤツだったから、ああいうことになったんでしょー。フツー、気づくよー。ぶっ飛ばしてくるダンプの音がしたらばさー」

「だよねえ!」

「だから、あんたのせいじゃないってばー。あれは不幸な事故ー」

「そうそう、事故事故! 逆によかったんじゃない、あんたのためには!」

「あ、ちょ、それは言いすぎー」

「ごめーん! でもさ、あの男のことだから、きっとあの時もどっぷり音に浸ってたに決まってるよ! だってぶつかるのを待ってるみたいにボーッと立ってたらしいって、警察の人も言ってたじゃん!」

「もしかしてー、何が起きてるのかも全然気がつかないでー、トリップしたままイッちゃったのかもねー」

「イッちゃったのかもよ!」

「……あのひと、今でも音楽を聴いてるのかな……」

「そうだよー、きっと聴いてるよー」

「聴いてる聴いてる!」

「……ベースやドラムに文句言いながら……」

「そうそう、そうだよ、きっと!」

「だから元気出しなよ、あの男はどこにいても音があれば幸せなんだからー、ねー?」



 ノーミュージック、ノーライフ。

 この言葉の誤りを、おれは切実に感じている。

 今ならば、こう言うだろう。

 ノーライフ、ノーミュージック。

 生の無い場所に、音楽は無い。

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