六七〇年
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六七〇年 五月一日
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其の年 各地に雷降り 寺に災る事 多し
降り注ぎし雷 国分寺数多焼く
卯の月三十日 あかつきに法隆寺に怪火あり 堂塔あまさず焼失す
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「兄君にお会い致したい!!」
俺の我慢は限界だった。
十二月の、兄君がせっせと蓄えた仏像のあった宮中大蔵の焼失から始まり、
昨年の暮れから起こり続ける、国分寺の落雷による連続焼失。
そして、昨日。
遂に、厩戸皇子が建てた法隆寺までもが焼失した。
その場で真白の羽で自在に空を飛ぶ天狗を見た等という者さえいた。
その報に俺は途方もない恐怖に襲われた。
以前からの連続して起きていた怪火を、兄君は落雷に乗じた何者かによる放火だ、としか取り合わなかった。
そんなことがある訳が無い。
大体国分寺はヤマト朝廷として威信をかけ行っている事業なのだ。
仮に兄君の言い分が正しいとして、両の手の指で足りない数の寺を落雷と放火で失っているという事が事実だとすると、その方が余程不味い。
それだけ広範囲に大王に弓を引く反乱分子がうじゃうじゃと居るという事になってしまう。
しかし、そんな予兆は全く見られない。糞兄の強引な政策で敵こそ多いが、それらは皆表だって反旗を翻したりはしては居ない。
それに、法隆寺は存在も警護も別格の地であった。
死後数十年しかたっていないものの、厩戸皇子は既に信仰さえ集めている。
そんな仏様の仲間入りをしている厩戸皇子が、全霊を賭け取り組んだ事業があの法隆寺の建立だ。
絢爛豪華な内装に、煌びやかな光沢を放つ、人の背丈を超える様な巨大な仏像。
そして、今こそ都では無いが文化の発信地である飛鳥の中心に建てられた巨大な大仏堂と五重塔。
それらが、放火で焼かれる?
それこそあり得る訳が無い。
ほとんどあり得ないが仮に賊だとすれば、多額の金銭となる内装がそのまま残っている訳が無い。
大体常時三桁の人間が警備に当たっている様な場所で不審者が入り込める訳が無いだろうし、仮に入り込み放火をしたとしても、
瞬く間にすべてに燃え広がり焼きつくす等出来る訳が無い。
これは、神々がお怒りなのだ。産土の神が、氏神が、着物神が、八百万の神々と天照神が。
古くから恩恵を与えてきた彼らの社を突然破壊し、大陸から渡って来た得体のしれぬ仏を敬ったツケが、俺達の元へ帰って来たのだ。
俺は、それが恐ろしくて仕方が無い。
全てを見通してきた神々の怒りを買ってしまった事が。
──俺の、存在すら脅かす様な事実をお知りになっているであろう神々を怒らせてしまった事が。
玉座のある間の、扉が開いた。
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「兄君!! この異変をどう思われるのですか!!」
俺が怒鳴ると、兄君は煩そうに眉をゆがめるだけだった。
「先の件は放火と、不慮の事故である落雷が全ての原因だ。それ以上でもそれ以下でも無い」
「法隆寺が焼け落ちたのですぞ! それを唯の放火だとおっしゃるのですか!」
「ああ。あれは唯の放火だ。犯人は総力を上げ捜索しておる、発見されるのも時間の問題だ」
あくまでも放火だ、と言い張るらしい。
尤も、予想はしていたが。
このすっかり頭の固くなってしまった男が、頑として俺の主張を聞きとめやしないという事なんて。
「二百もの兵が警備をしておったのですぞ! 出火から一刻で五重塔まで全焼してしまったのですぞ!!
それでもまだ放火だとおっしゃるのですか!!」
「放火だ。綿密に計画された反乱分子の放火なのだ。しかしそれらを朕は一掃する。大王の力を見せつける良い機会となろう」
まるで話が通じやしない。
俺は畏れと焦りに背中を押されるように言葉を紡いだ。
──そして俺は、致命的な失敗を犯した。
「その様な訳がありますまい! さあ、今すぐにでも仏像と堂を壊し神々に許しを請うのです!」
「……大海人、何故お主はそれほどまでに八百万の神に縋る?」
「っ!」
焦り過ぎたのだ。俺は、糞兄に疑問を持たせてしまった。
自分で振り返っても不審な程の捲し立てっぷりだったんだ。
何とかしなければ。この男に決して悟られる訳にはいかない。
「以前から気になってはおったのだ。朕と大海人の産みの母は同じであり、
互いに対面したことこそ遅かったものの、同等の教育と教養は積んでおるのであろう?
ならば何故、神々に傾倒するのだ」
俺は、答えられなかった。
苦し紛れの嘘を吐くのが、今の俺の精一杯だ。
「それは……私は天照神を始めとする神々を信仰し、
神倭伊波礼琵古命から脈々と続く皇室の血を敬っております故」
「嘘を吐くでない。母君が崩御なさるまで、大海人はその様な素振りなど一切見せなかったではないか」
「そんな事はありませぬっ! 大体、兄上が異常なのです! 祖神や氏神さえ蔑ろにし、皇室の誇りをも大陸に売り渡す様な!」
動揺を悟られるな。毅然と反論しろ。そして、兄を激昂させろ。
己に、繰り返しそう言い聞かせる。
「ええい、黙れ!! 控えろ大海人皇子!
朕がこの倭の王だ! 幾ら実弟とはいえそちの意見は求めぬ!
良いか良く聞け、朕は産土の神々など相手にはせぬ!
発展と繁栄をもたらす仏のみが教えを受け入れるのにふさわしいのだ!」
兄は俺のたくらみ通りに怒りをあらわにした。
良し、それに俺が一芝居乗せれば完璧だ。
糞兄は、その言葉に対し俺が何をするのかと、じっと冷めた目で見ている。
ああ、いいぞ。その顔、度肝を抜かせてやる
俺は漸く冷えた頭の熱を感じながら、警備の兵の手から矛を奪い取った。
「っ、この、売国奴め!!」
振り被り、俺は矛を投げた。
一瞬の空白が、広間に生まれた。
兄の傍に控えていた鎌足も、真後ろの警備兵も、兄自身も止められる事無く、
茫然と見つめられた矛は、鋭く“兄の靴先を掠め”床へ突き立った。
最初にその情景を理解したのは鎌足であった。
彼は飛び跳ねるように立ちあがると、俺と糞兄の間で立ちふさがり口を開いた。
「お止めなさいませ皇子殿!!」
「っ!」
俺は驚いたように肩を跳ねさせる。
流石に故意でやったと思われてはたまらないからな。
あくまでも今の俺は冷静さを失っている様にしなければいけない。
「卑しくも大王にあらせられるのですぞ!
大海人皇子殿の矛で大王にもしもの事が起きれば、どうなるか分からない訳ではありますまいな!」
「……っ。く……申し訳ありませぬ、つい、カッとなって恐れ多い真似を」
悔しさと、自分の愚かさを嘆く気持ち。それらを必死でこらえる様な形相で。
俺はそれらを作り顔に張り付けると、臣下の礼を取り頭を下げた。
あの事が、この糞兄に知られる事に比べれば己の誇りなど些事に過ぎない。
「いかなる罰も……お受け致します……」
「……もうよい」
俺が頭を上げると、そこには“無表情”の糞兄……いや、中大兄皇子が居た。
数々の政敵を、皇位継承者を、そして己の意にそぐわぬ邪魔物を葬った、血塗られた皇子の顔だ。
背中を冷たい汗が一筋流れ落ちる。
心の臓は狂ったように打ち鳴り、喉と言わず口と言わず、全てがカラカラに乾いて一片の水も感じさせない。
やり過ぎたか? そんな弱気な心が俺の中で芽生えた。
もしかすれば、俺はこの場で切り殺されるやもしれない。
……だが、それに何処か安堵している自分が居た。
此処で死ねば、俺は皇子のまま死ねる。ならばそれも悪くないかもしれない。
ひとつ、心残りがあるとすれば……やはり讃良姫の事だな。
中大兄皇子が父親なのだ。直ぐ様に何処かへ嫁に出されるに違いない。
政治的に、結んでおきたい誰とも知らぬ豪族の元へ。
それでも、あの飛びぬけて強い彼女はひたむきに前へと進むだろうか。
その姿が容易に想像できて、俺は少し可笑しくなって、凄く悲しくなった。
……命の危機が目前に迫っている割に、俺も以外と余裕なもんだ。
「もうよい。下がれ、大海人皇子」
肩に掛っていた重圧が、ふっと消えた。
途端に俺の口からは、荒い吐息が漏れた。気付かない内に、息をする事すら忘れていたらしい。
「今回の件は不問に致す。大海人は何と言っても、朕の実の弟なのだからな」
「はっ。有難き幸せ。では私はこれで」
兄さえも欺いている、なんて事に罪悪感を感じる年頃はとっくに過ぎている。
俺は踊りだしたい様な心持でその場を離れた。
仏へ信仰を捧げる事は止めさせられなかったが、先走り犯した致命的な失態を隠せたことはそれだけでも上出来だ。
でも、それらを全て差し置いて俺の心に浮かんだのは、無事に讃良姫にまた会える、という事だろう。
それが一番に来る辺り、俺は中大兄皇子の張り巡らせた政略結婚という術中に、肩までどっぷりなのかも知れん。
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「鎌足」
「お傍に」
私が呼ぶと、三十年来の友にして最も忠実な臣は静かに答えた。
俺の言わんとしている事は、彼は分かっているに違いない。
入鹿を討ったあの時から、この怜悧で残酷な頭脳は常に俺の栄光への足元を照らす様に輝いている。
「大海人め、遂に尻尾を出しおったな」
「彼の方もあの演技があっさりと見破られておるとは、思っておりませんでしょう」
「寧ろそれで都合が良いというものだ」
私が一つ笑うと、鎌足は不快そうに眉をしかめた。
「しかし、ご自重くださいませ。まだ彼の者は大王の実弟なのですから」
「言われずとも分かっておる」
憎たらしい大海人皇子め。思えば、私は初めて奴を目にした時から憎んでいた。
私でさえ稀にしか会う事の出来なかった母君に手を引かれ、私と対面した幼き弟。
聞けば母君の離宮で一緒に暮らしているという。
私はその時、醜い嫉妬が心を焦がすのを感じた。
母君のご寵愛を賜る彼の者へ、どうにもできない程の嫉妬を覚えたのだ。
寵愛を賜った彼は何もしなくても皇位をやがて継ぐであろう。その未来への嫉妬。
そして、私がどれだけ願っても得られなかった、母君の寵愛を受けているという事実への嫉妬。
その感情を自覚した時から、私は一心不乱に進み続けた。
──本当は、こんな地位は欲しく無かったのだ。
ただ、高い所に昇れば私は母君に褒めて貰える、そう思いこみ、進み続けただけだった。
結果は、見るも無残なものだ。
入鹿を母君の目の前で誅殺した時も、皇室の転覆をはかっていた有間皇子を殺した時も。
大王として御褒めの言葉、それは何度も頂いた。だが、私が欲したのはそれではなかった。
私は、母君から、言葉が欲しかったのだ。
「大王?」
「ん、ああ。いや済まぬ、少々考え事をしておってな」
「左様でございますか」
そう呟く鎌足の瞳には、私の全てを理解している様な色が輝いていた。
どうあがいても、この友には私は敵わないのだ。自嘲気味に、私は呟いた。
「ああ。……どうせ、鎌足は分かっておるのだろうな」
「……私は、臣下でありながら、貴方様の友でもありまする」
「ふはは、神を名乗る朕に、その様な物言いをする人間は鎌足だけだ」
「私の様な偏屈爺がそう何人も傍に仕えていては息も詰まってしまいますぞ」
斯様に、気楽な人間など私の傍には、鎌足しか残っておらぬ。
他は皆、死ぬか、殺すか、離れるか。何にせよ、友たちはみな私を置いて何処かへ行ってしまった。
「違いない。 ……さて、鎌足」
「はっ」
「何度も言うておるが、朕は、我が子をこの様な狂気に蝕ませたくない。
親の寵愛を感じられぬが故に、親族や家臣を手に掛ける、その様な血塗られた真似をして欲しくは無いのだ。
そのためにも、朕は直接大友皇子に皇位を継いでほしい」
「はい」
「朕は、間違っているのだろうか?」
こんな陳腐な問いかけを、何度鎌足と繰り返しただろう。
「皇位継承権一位の者を追い落とすなど、普通は戦乱しか生みませぬ」
「……だろうな」
「ですが、この場合は別にございます。
実は、大王に弟など存在しない、この場合では」
PV1万こえちゃいましゅた、はわわー
※追記:一部修正しました、あわわー




