4-2
ラファエルは暖かいベッドの中で目を覚ました。豪華なインテリアの、お城のような建物である。壁には暖炉が赤々と燃え、窓の外は相変わらずの猛吹雪だった。
「起きたわね。こっちにいらっしゃい」
ショートカットの銀髪で肌が透けるように白く、赤い瞳の女の子だった。中学生ぐらいの風貌である。黒いドレスを引きずって、さっさと部屋を出ていく。
ラファエルが追っていくと、女の子は身長の何倍もあるような大きなドアに入っていった。ドアを入ると、そこは玉座の間だった。女の子はためらいもなく玉座に腰かける。どうやら彼女がこの城の主らしい。
「さて、熾天使ラファエル。いまは神性を持っていないようだけど、どういうつもりで冥府にきたのかしら?」
ラファエルは目に見えない力で強制されて、赤絨毯にひざまずいた。
「あの……わたしはリリスを追って……ここは冥府なのですか?」
女の子はため息をついた。
「知らないで入ってきたの? ここは冥府。そして、わたしは冥府の女神エレシュキガル」
「お目にかかれて光栄です、女神エレシュキガル。それに、吹雪の中から助けていただいて……」
エレシュキガルはビシッとラファエルを指差した。途端にラファエルは口を聞けなくなる。
「助けてないわよ。おまえがわたしのキャンバスを穢すから排除したまでのこと。一万年の間降り積もった雪に罪人達の血で絵を描くの。それがわたしの唯一の楽しみ。だけどおまえはそのキャンバスを台無しにしてくれた。あと百五十年ほどだったのに」
ラファエルの背中を嫌な汗が流れていった。女神の壮大な楽しみを台無しにしたらしい。どんな神罰がくだるものかと恐ろしくなる。
エレシュキガルは見透かしたかのようにクスクス笑う。
「怖がらなくてもいいのよ。取って食べたりしないから。ただ、あなたはここから出られない。次の一万年が過ぎるまで、わたしの話し相手になってもらうわ」
ラファエルは気が遠くなって、身体じゅうから血の気が引いていった。禁固一万年、そんな残酷な罰があっていいものだろうか。
「女神エレシュキガル、それはあまりにも酷な……」
「おまえはわたしが一人で何万年もここにいることをかわいそうだとは思わないの? おまえにとって一万年が有り得ないなら、わたしにも有り得ない。でも、わたしはここを離れられない。女神だって退屈するのよ?」
ラファエルは歯を食いしばって女神に言い返す。
「わたしには、まだやるべきことがあります。守りたい人がいるのです。どうか、どうかご容赦を……」
「本当に守るべき人なんているのかしら? いま、地球がどうなってるか見せてあげるわ」
ラファエルの脳裏に鮮明な映像が浮かんだ。地球を大洪水が襲っていた。魔界、地獄も水責めにされ、天界は海に墜落、水没していた。
「う、嘘です……こんなはず……あなたは嘘をついているのでしょう!」
エレシュキガルは目を閉じ、残念そうに首を振った。
「女神ラマシュトゥが、おまえが追ってきたリリスのことね、あの子が創造神エンリルにまたずいぶんとわがままを言ったようなの。エヴァの子ども達をみなごろしにしてほしいって」
「エヴァの子……?」
「そうよ、アダムとエヴァの子ども達。地球に住んでる人間達のことよ」
リリスはアダムの最初の妻だったが、アダムとはケンカばかりだった。そこで創造神エンリルはアダムにエヴァを与えた。アダムとエヴァはとても仲が良く、その子ども達が地球の人類になった。
捨てられたリリスはアダムが惜しくなったが、アダムは振り向いてくれなかった。嫉妬深く、怒りっぽいところが嫌いだと言われた。そこでリリスは自分の性格の悪い部分を切り離した。めでたくリリスはアダムと子をもうけた。その子孫がリリン達である。
「ここでいうリリスって誰のことだかわかるかしら?」
「わたしが追ってきたのがリリスではないのですか?」
「そうね、だけど、あれは半分でしかない。もう半分はおまえがよく知っているサッちゃんという子よ」
「でも、あのリリスがリリン達に慕われているということは、あちらが本体なのですか? サッちゃんは切り離された悪い面だと?」
「そうね、面白いもので、切り離された悪い面は転生を重ねていい子になっていった。一方で良い面のほうはエヴァへの嫉妬が復活し、つのる一方で、いまだに成長できていないの。それで、いつまで経ってもエヴァに意地悪ばかりしているわ」
ラファエルは、美希がエヴァと呼ばれていたことを思い出す。
「エヴァとは天使長ミカエルのことなのですね? と、すると、アダムとは誰なのです?」
「魔王ルシファよ。彼は本当はエンリル神の弟神でエンキというの。リリスとエヴァは彼のあばら骨から生まれたのよ」
ラファエルは遠い目をして頭の中を整理する。
「つまり、光希パパとサッちゃんママの分身リリスの子がリリンで、光希パパとミカの子が人類。リリスはミカが憎くて意地悪を仕掛けたあげく、エンリル神に大洪水をねだった。と、いうことですか?」
「そういうことね」
ラファエルは両手をついて途方に暮れた。世界の仕組みを知ったところで、地球の人類は滅ぼされてしまったのだ。なにもかも手遅れである。
「そんなに気を落とすことないわ。いま死んでいく人々も、やがて転生してやりなおす。おまえの希望があれば聞いてあげなくもないわ。こう見えてもわたしはおまえを気に入ってるのよ」
ラファエルはピントの合わない目をして、エレシュキガルの言葉は耳を素通りしていった。ラファエルは呆けたまま訊ねた。
「もう一つだけ……ここは地球ではないのですか?」
「やだ、神性を持ったときに気付かなかったの? ここは月の内部に存在する空洞よ。元々月は地球を監視するための巨大な宇宙船なの。いまは惑星ニビルがすぐそばにあるから、ニビルとの中継点にもなっているわ」
「わけがわかりません……わたしが今まで信じてきた世界とは、いったいなんだったのでしょう」
エレシュキガルは瞬間移動して、ラファエルの背後に立った。おぶさるようにラファエルの首に手を回して嬉しそうにする。
「一万年かけて理解すればいいわ。おまえはわたしのお友達に選ばれたのだから」
女神の無邪気な笑い声ばかりが、凍てつく城に木霊するのだった。