その王冠を手にする金の瞳は
「ねえ、ご覧になられました? 昨日の新聞!」
「ええ、ええ! 出ていましたわね。あのクローグ男爵家が標的になったんですって?」
「わたくし、一度クローグ男爵とお話させていただいたことがありましたけど、とても人当たりの良い人でしたわ。それが、ねえ……」
綺羅びやかな夜会のあちこちで似たような話が繰り広げられていた。
ホットなトピックは、昨日盗賊に入られたクローグ男爵家である。
本来であれば男爵家に同情が寄せられる事件ではあるが、この場にいる、いや、新聞を読んだ者は皆一様に別な感情を抱いていた。
「捕まって良かったな。まさか奴隷売買に手を染めていたとは」
「彼の屋敷の地下室に奴隷とされた多くの者たちが監禁されていたそうだ」
「中には鞭に打たれて瀕死だった子もいたとの報道もあったな」
「なんと酷い……」
人当たりもよく、貴族間での取引や交流の場では誠実であった男爵の裏の顔に皆一様に悪感情を抱いていたのである。
奴隷売買はこの国では違法であるが、他国ではまだ合法であるところもある。
そこで、国内向けには「斡旋」という形で事業展開して実態を隠していたとのことであった。
「斡旋」と「奴隷売買」では契約形態が違う。
「斡旋」は、働く本人が賃金や報酬に関して契約を取り交わすが、高度な知識がなければそれが不当なのか妥当なものなのかが分からない。
そのため高度な知識を持つ人間 ―― 今回は男爵家が仲介役となっていたのだが、ここで男爵は悪知恵を働かせたらしい。
そこそこ頭が回る人材は、通常通りに「斡旋」を。
数字や文字すら理解できない者は言いくるめて、「奴隷」として他国に売りつけていたのだ。
長年この事業を担っていたこの男爵の悪事が露呈したのは、その盗賊のおかげと言ってもいい。
その盗賊は、金銀財宝など目もくれずその家の悪事のみを狙う。
例えば、今回の男爵家のような大物もあれば、家庭内で盗みを働いていた使用人の悪事を暴くといった小さなこともある。
この小さなケースの場合は、その家長に手紙という形で密告される。
その手紙もいつの間にか、家長の執務机に置かれているというのだからその盗賊がいかに神出鬼没か分かるだろう。
とにもかくにも。
最近の社交界の話題は、この盗賊一色だった。
盗賊は金銀財宝以外の価値ある情報であっても盗まない。
それこそ、その情報を握るだけでその家からいくらでも金をせびることができるというものであっても。
その盗賊は「悪事」がある家だけに入り、情報を盗み、ポンと王都内にある全ての新聞社のデスクに置いておくのだ。
新聞社側の誰も盗賊の姿を見たことがない。
人が多くいるフロアの中にあるデスクの上に、記者が目を離した隙にいつの間にか置かれているのだ。
新聞社はこぞって記事を書き立てる。
この場にいる誰もが話をする。
勇敢なこの《義賊》は、どんな姿をしているのだろうかと。
頭を抱えているのは悪行を積んでいる者だけではない。
その筆頭がイグニス王国の王家である。
「……今回はクローグ男爵家か」
「申し訳ありません。隈無く、それこそネズミの穴まで探しましたが……例の《義賊》に繋がるものは一切見つかりませんでした」
頭を下げる、今回の調査を担当した騎士団長に国王は「よい」とため息とともに告げた。
そもそも、今までも同様に探しても分からなかったのだ。
今回こそと毎回思うが、空振りになっているのはすでに両手足の指の数を越えている。
悪質な犯罪が暴かれるのは良いことだ。
だが、こういったものは関係各所と調整した上で進めたい国とは反して、《義賊》はタイミングを問わずに、しかも新聞社へ暴露している。
新聞社側へ公開しないよう圧力をかけることも考えた。
だが、この国にある各新聞社は国営ではないし、何より国民側から言論統制ともとられかねない。
今回、クローグ男爵の失墜により、クローグ男爵家と常識の範囲内で取引をしていた商会や貴族が被害を被った。
被害額は計上中だが、手広く交流のあった家だ。一体どれほどの額となるものか。
国王は頭を抱えるしかない。
「ああ。誰でもいい。誰ぞ、この《義賊》とやらを一旦止めてくれ」
―― 捕らえろ、と命令を出さないあたり、国としてこの《義賊》の働きを半ば認めているといっても過言ではなかった。
◇◇
この国の王宮の一角に、小さな宮があった。
薄汚く、ツタに覆われ、一部は崩れ落ちている。
そんな人が住むべきではない場所に住んでいる者がいた。
「みぃ、みぃ、どこ?」
《ここにいるよ》
「あ! いた!」
推定4歳の幼子。
衣服はボロボロで、足は裸足だ。すでにあちこち傷がある。
黒髪は長く、前も後ろも胸ほどまである。目は前髪に隠れ、口元しか見えない状態だ。
不安げだった声色は探していた者からの返事にパッと明るく変わり、声があった方に駆け出していった。
幼子が駆けた先は、とある部屋のベッドの上だった。
ボロボロで汚れた毛布、ボサボサの絨毯。ベッドの天蓋はビリビリに引き裂かれて跡形もない。
よじよじとベッドに登った幼子は機嫌よく、口元に笑みを浮かべる。
「みぃ、みぃ、きいて。みぃのこと、みーんなおはなししてたよ!」
またこの子は、こっそり王宮に近づいたのか。
そんな言葉を飲み込んで、それは答える。
《そうかい、そうかい。それは重畳》
「みぃすごいね」
《そうさ、私はすごいのさ。―― そんな私を見つけたお前もすごいんだよ、坊》
「えへへ、ぼーうれしい」
ニコニコと笑う幼子の頬にふわりと何かが触れた。
幼子はきゃらきゃらと嬉しそうに笑い声をあげ、ぎゅうとそれに抱きつく。
《坊、お腹すいていないかい。そろそろご飯の時間だ》
「ごはん!」
《じゃあ取ってくるから、坊は良い子で留守番しているんだよ》
「うん! ぼー、いいこにしてる!」
するりと幼子の頬から何かが離れていった。
幼子はニコニコと笑いながら、部屋のドアに向かって手を振る。
ドアがひとりでに開いて、ひとりでに閉まった。
幼子にとっては、この小さな宮が世界だった。
小さな宮には誰も来ない。おそらく、もはや誰もこんなところに宮があるだなんて知らないのだろう。
幼子には家族がいない。
気づけばこの宮に置き去りにされていた。
どうやってこの場所に来たかなどの記憶は、幼子には残っていない。
とにもかくにも、幼子はひとりであった。
表面上は。
《坊、ただいま》
「おかーり!」
《今日はパンとスープだったよ》
「わーい!」
ベッドの上から下りて、すぐ近くにあった小汚いテーブルの横にある椅子に飛び乗った幼子は、わくわくとした様子で食事の準備を眺めている。
小汚いテーブルの上に似つかわしくない、白パンが入った籠と水筒のようなものが置かれた。
籠にはあわせてマグカップとグラスと栓がされた瓶が入っている。瓶の中身は水だ。
マグカップがテーブルに置かれて、その中にゆっくりと蓋を開けられた水筒が傾けられる。注ぎ口から湯気が立った。
具だくさんの温かいスープが注がれるその様子に幼子は、前髪の奥に隠された瞳をキラキラと輝かせた。
《まずは手を拭こうね》
「あい!」
籠にあらかじめ入っていた古いタオルに、栓を抜いた瓶から水を垂らして湿らせる。
湿ったタオルで手を丁寧に拭かれた幼子はパチンと両手を合わせた。
「えーっと、みぃと、ごはんをつくってくれたひとにありがとう!」
元気よく告げた幼子は、白いパンに手を伸ばす。
パンは幼子の力でも容易くちぎれるほどに柔らかい。
一口サイズにちぎった幼子は口の中に放り込むと、美味しそうに食べ始めた。
幼子がマグカップのスープにふぅー、と息を吹きかける。湯気はぐにゃりと歪んで、もとに戻る。
その様子を楽しそうに眺めた幼子は、ふぅー、とまた息を吹きかけた。
何度かそれを繰り返し、湯気が薄らいできたタイミングで幼子はマグカップを口につけて傾ける。
スープが幼子の口に流れ込み、野菜の甘みと旨味に幼子はごくごくと続けて飲んだ。
ぷは、と息継ぎをした幼子は視線を上げる。
「みぃのぶんは?」
《私はもう食べたから大丈夫。ゆっくりお食べ》
「はぁい」
ニコニコと笑う幼子の周囲には、誰もいない。
◇◇
「あ、返ってきてる」
ひとりの王宮メイドが、生い茂った庭に面した回廊でぽつんと籠が置いてあるのを見つけた。
一緒に歩いていた王宮メイドとともに、その籠に近づいて拾い上げる。
皿と空になった瓶、水筒がその中にあった。
「あの、これは……?」
「ああ、そう。これも教えとかなきゃね。大体決まった時間に、ここにまかないとして出される食事を置いておくのよ。そうするとこうやって空になって返ってくるの。これを回収して、厨房に持っていくのよ」
「誰が食事されてるんですか?」
「さあ?」
肩を竦める指導係のメイドに、新人メイドが目を瞬かせる。
「知らないのよ、誰も。なんでも3年ぐらい前から厨房から食材や出来上がった料理が盗まれることがあって。見張っててもいつの間にかなくなってるから、料理長が『献立が狂うならいっそのこと用意してやれ!』ってなって、まかないを別で用意するようになったのよ。用意したら、ここに使ったものが置かれるようになったから、食事もここに置くようになったってわけ」
不思議よねぇ、と籠を眺める指導係のメイドから、新人メイドは視線を回廊から見える草木が生い茂った庭へと移した。
王宮の庭園は基本的に手入れされているはずだが、なぜここだけこんな状態なのだろうか。
新人メイドの視線で指導係のメイドは察したのか「ああ」と声を上げた。
「この奥に、先代の第二妃様だった方の離宮があるのよ。今はもう、誰も使ってないけど」
指導係のメイドいわく、30年以上前、先代の王には美しい黒髪の第二妃がいたそうだ。
どこぞの小国の姫であり、王に望まれ嫁いできた彼女であったが、正妃であった現在の王太后に遠慮しこちらの離宮で過ごしていたという。
先王からの寵愛を受けていたものの、自身の立場を理解していた第二妃はいらぬ争いを産まないよう分を弁えて暮らしていたらしい。装飾品や使用人も最低限であった。
だが、王太后が身ごもり、先王がそちらにかかりきりになったのが彼女の悲劇の始まりであった。
現在の国王である王子が生まれたという慶事に国中が喜びの声を上げた。
先王も王太后も歳を取ってからの子がかわいく、嬉しく、皆、王子の世話に忙しくなった。
―― 第二妃の存在は、約2年。忘れられたという。
先王は元よりこの国の重鎮からも、侍従や王宮メイドたち、彼女付きであった侍女すら。
「え、なんですかそれ」
「怖いわよねぇ。ある日、先王様がふと気づいたんですって。『第二妃の顔を見ないが、どうした』って。それでみんな彼女の存在を思い出して、慌てて離宮に向かったら亡くなってたそうよ」
誰も来なくなった、埃が舞う離宮の一室。
ベッドの上で、質素なワンピースを着た、痩せこけた第二妃が眠るように死んでいたのだという。
先王は嘆き悲しんだ。
王太后も彼女が憎かったわけではない。彼女の死を惜しんだ。
彼女付きの侍女は「なぜ第二妃を忘れたのか分からないのです!」と発狂した。
そう。なぜ、誰も彼もが彼女を忘れたのか。
それは未だ、分かっていない。
「離宮は取り壊さなかったんですか?」
「それがねぇ。取り壊そうとしたそうなんだけど、恐ろしい唸り声が聞こえるんですって。実力のある魔術師や神官なんかも確認したけれど、人どころか獣もいないの。それで先王様も王太后様も『朽ちるまでそのままに』ってしてるんですって。それに最近だとここら辺に小さい人影がたまに現れるそうよ。迷子かと思って探しても、誰もいないんですって。怖いわよねぇ」
だから庭も自然のまま。
回廊にかかりそうになる部分だけは手入れするが、その奥は誰も足を踏み入れない。
「さ、次はついでにこのまま厨房を案内するわ」
「はい」
指導係のメイドが歩き始めたことで、新人メイドも彼女のあとに続いた。
気になる。気にはなるが、彼女にはまだたくさんの仕事があるのだ。
ふたりがいなくなった回廊を、風が吹き抜ける。
生い茂った庭が風に揺れてざわざわと音を立てた。
―― それから、10年の時を経て。
16〜18歳までの貴族子女と一部の優秀な平民が通う学院。
その一角にある図書館の奥で、制服であるブレザーのボタンを開け、ネクタイを緩めた男子生徒が大きな出窓部分に上がり込み、窓枠部分に寄りかかりながら本を読んでいた。
容姿が整っている短髪の男子生徒の髪色は黒いが、窓越しに差し込む陽の光が反射して七色の光を放っている。
パタン、と本を閉じた男子生徒は、ひとつため息を吐く。
「……うーん。これが世間一般では『面白い』と思われるものなのか。難しいな」
人から勧められた本を読んでみたものの、男子生徒の琴線に触れることはなかったらしい。
彼が読んでいた本はシリーズ物の冒険譚であった。
辺境にある貧しい村のひとりの少年が家族の死をきっかけに村を発ち、生きるためにダンジョンに挑戦し、様々な試練や冒険を経て仲間を得ながら王都に向かうというもの。
最近完結したものだったので一気読みできたが、まあ、飽きずに読み進められるといった点では構成は上手いのだろうなと男子生徒は思う。
共感できないのは主人公の境遇が境遇だからかもしれない。
《坊の方がより悲惨で、より劇的な人生を送っているように思うね》
「そうかな。そうかも」
男子生徒はぼそりと答えた。
男子生徒の近くには誰もいないが、図書館内には人がいる。
「人から見れば悲惨かもしれないけど、僕にとっては悲惨じゃないよ。だってみぃがいてくれたもの」
《私が坊を食べるつもりだったと言っても?》
「結局は食べてないじゃないか」
《そうだね》
そんな会話をしていると、ふと男子生徒が口を閉ざした。
自然と周囲がしんと元の静かさを取り戻し、遠くからこちらに向かって歩いてくる足音が男子生徒の耳に届く。
やがて顔を出したのは、長い赤髪をひとつに束ね、メガネをかけてしっかりと制服を着込んだ男子生徒であった。
「どうしたの」
突然の声掛けにメガネの男子生徒はやや驚いたようであったが、黒髪の男子生徒の周囲には人がいないということは分かっていたのだろう。自分にかけられた言葉だと理解し、軽く一礼する。
金色の瞳が自分の思考を何もかも見透かしているような感覚を覚えたメガネの男子生徒は、一呼吸置くと改めて姿勢を正した。
「失礼いたします。……回りくどい物言いはお嫌いとのことですので、単刀直入に。最近の第一王子殿下の様子についてはご存知ですか?」
「ここにいても届いてるよ。酷いもんだね」
読んでいた本を出窓部分に置き、足を下ろした黒髪の男子生徒はそう軽く返した。
その表情は「それで?」とでも言いたげで、話しかけたメガネの男子生徒は一度出かけた言葉を飲み込んだ。
彼は体を自分に向けている。まだ話を聞いてくれる体勢である。
「……お力添えをいただきたく、お願いに参りました」
「僕は別にいいけど、それ、あの子も望んでるの?」
あっさりと許可された願いにメガネの男子生徒は驚いたものの、続けて言われた言葉にわずかばかり顔を顰めた。
彼は、メガネの男子生徒が何の願いを持って来たのか正確に理解している。
だからこそ痛いところを突いてきた。
「―― いいえ」
「本人が望んでないのにダメじゃない?」
「分かっています。ですが、私はもう見ていられないのです」
メガネの男子生徒はゆっくりと首を横に振った。
視線は黒髪の男子生徒と合わず、床を彷徨わせる。
嘘ではない。
彼女が切羽詰まっているのは火を見るより明らかなことは。
嘘ではない。
そんな彼女がしゃんと背筋を伸ばし、「大丈夫」と微笑んで自分が差し伸べた手をやんわりと断ったことは。
嘘ではない。
……本当に、自分がもう見てられないということは。
「彼女に今後一生恨まれても構いません。どうか、お力添えをいただけないでしょうか」
深く、メガネの男子生徒は頭を下げた。結ばれていた長い髪が肩からさらりと流れていく。
黒髪の男子生徒はじっと彼のつむじを眺めていたが、やがて小さくため息を吐いた。
足を組み、その足に肘を置いて頬杖をつく。
「僕、さっき答えは言ったよ」
バッと勢いよく、メガネの男子生徒が頭を上げた。その勢いでメガネが少し下にズレたようだったが、それすら直さず呆然と黒髪の男子生徒を見つめている。
「僕に助けを求めるということはそういうことになるけど、当主は納得してるということで合ってる?」
「……はい。これは父である我がリッツガルド侯爵家当主の望みでもあります」
「そう。……愛されてるんだね、あの子は」
黒髪の男子生徒は呟くように答えると、ストンと出窓部分から下りた。
置いていた本を手にして、メガネの男子生徒 ―― アウグスト・リッツガルド侯爵令息の隣を通り過ぎざま、ポンと彼の肩を叩く。
「できるかぎりやってみるよ」
「っ、ありがとうございます! 王弟殿下!」
ひらひらと手を振って、黒髪の男子生徒 ―― 王弟と呼ばれたトミュリスは本の返却手続きをすると静かに図書館を後にした。
校舎の廊下に差し込む陽の光は、柔らかな色合いを含んでいる。
今は放課後ということもあり、そこかしこに生徒たちがいる。トミュリスがふと中庭へと視線を向ければ、その陽気に誘われてうつらうつらとしている生徒の姿もあった。
この学院では、廊下ですれ違う程度であれば上位の人間に敬意を表さなくても良いことになっている。そうでなければ双方ともに自由に廊下を歩けないからだ。
だから王弟という立場であるトミュリスが廊下を歩いていても、王宮とは異なり頭を下げて立ち止まる生徒はいない。
そんな普段通りの学院の様子を眺めながら、トミュリスは学院にある寮の自室へと帰宅した。
使用人はいない。
人を増やしたくなかったというのが表向きの理由だが、「みぃと自由に話せないから」というのが最大の理由だ。
どうせ隣室や廊下の前に護衛がいるのだ。監視という意味では問題ないだろう。
《優しいねぇ、坊は》
「そう?」
《だって選択肢を出しただろう。普通、利用してやろうというものなら選択肢など与えないよ》
「選択肢は与えた方がいいんだよ。自分で選択したことに意味があるんだから。強要したら不満が溜まってしまうからね」
《それもそうか》
制服を脱いで、ハンガーにかけながらトミュリスは答える。
ワイシャツを脱ぐと、ふわりとそれが浮き上がった。くるくるとワイシャツが空中で回転したかと思えば、ふわりとトミュリスの手に戻る。
昼食のときに食べたミートソースが跳ねてしまい、ついた跡が綺麗に消えていた。
「相変わらずみぃの魔法はすごいね」
《ただの生活魔法だよ》
「そのただの魔法がすごいんだよ。彼らは扱えないからね」
《やるべきことを怠った末路だろう? おかげで私も散々な目に遭ったが ―― 坊たちがいてくれた》
「でもみぃのおかげで僕は命を救われたんだから、やっぱりみぃはすごいよ」
トミュリスの金色の瞳が一点を見つめる。
その視線の先には丸テーブルがあるが、その上には何も置かれていない。
猫のように瞳を細めて笑ったトミュリスは、まるで散歩でも誘うかのように何もない場所に語りかける。
「今日はよろしくね、みぃ」
《坊のためならば》
◇◇
フェルナンド・イグニス第一王子には、歳がほとんど変わらない叔父がいた。
祖父母である先王と王太后は健在で、今は王家直轄地の離宮で暮らしている。
10年前、まだ6歳だったフェルナンドに唐突に同い年の叔父ができた。
王宮中が騒ぎになったのでフェルナンドは覚えている。
あの雨の日、突然、真っ黒な髪の幼子が現れたのだ。
フェルナンドが侍従ふたりとともにあの回廊を歩いていたとき、庭に続く入口部分でおばけのような幼子が壁にもたれかかっているのを見つけた。
ひとりの侍従が警戒しながら近づいて、幼子が熱を出していることが分かり、慌てて報告に走った。
汚らしい容姿だったのでおそらくどこぞから紛れ込んだ浮浪児であろうと、何の病気を持っているか分からないからとフェルナンドはその場から引き返さざるをえなかった。
その後、父である国王から説明があった。
―― 彼は自分の弟、つまりフェルナンドにとっては叔父なのだと。
『は……? だ、だって、あの子はわたしよりも幼いではないですか!』
『違う。彼は、正しく時間が過ぎていれば、私のふたつ下の弟だったのだ』
『正しく……?』
『……今はまだ詳しくお前には伝えられない。だが、王家には隠された存在がいる。その存在によって彼は時間ごと隠され、最近になってこちらに現れたようだ。歳の数を聞いたところ6歳だと返ってきている』
なぜ彼が弟なのかと分かったのかというと、彼が身につけていたペンダントと、彼の瞳である。
彼は王家の血筋の直系の子にしか現れない金の瞳を持っていた。
不思議なもので、この血筋の子は「王の子」であれば金の瞳を持って生まれる。
だが、王位を継がなかった方の子が生まれても金の瞳は持たない。金に似た色 ―― 琥珀や黄色などはあるが、輝く金の色を持って生まれてくることはないのだ。
フェルナンドの父である現王には正妃と第二妃がいるが、正妃の子であるフェルナンド以外に子はまだいない。
第二妃は出産経験がまだない。彼女は最近嫁いできたばかりで、まだ子ができていなかったのだ。
そして何より。
彼を風呂に入れて汚れを落として分かった、艶やかな黒髪は、国王の父でありフェルナンドの祖父がかつて愛した第二妃の特徴なのだ。
光の加減によって七色の輝きを見せるその黒髪は、この国には存在しない。第二妃の故国である国の王家の特徴なのだが、すでにその国は滅んでしまっている。
彼が持っているペンダントも、先王が確認したところ、先王の第二妃が身につけていた物だと分かった。
『そんな……そんなおとぎ話のようなことを信じろというのですか!』
『事実だ』
『放っておけばよいではないですか! 今まで大丈夫だったんだから!』
『そうもいかないのだよ、フェルナンド』
結局、フェルナンドがどう騒ごうが、トミュリスという男児が父の弟で、フェルナンドの叔父であると認められるのは決定していたのだ。
祖父である先王にいたっては両手をあげて喜んだという。
フェルナンドは未だに「隠された存在」というものについては教えてもらっていない。
あれは王太子になった者にだけ教えられるのだという。
「王太子となるのは私以外いないというのに、父上め」
ブツブツと文句を言いながら、フェルナンドは足音を立てながら学院の廊下を歩いていた。
ここは学院の中でも通る者が少ない。
王家専用の部屋がこの先にあることも理由のひとつだろうし、その部屋へ向かう途中にある教授たちの部屋へ用がある者しか来ないというのもあるだろう。
教授たちは王家に雇われた者ばかり。
まあ、つまりは足音を立てて歩いたとしても、フェルナンドに文句を言える人間はいないのである。
王家専用の部屋に入ると、その部屋に立ち入りをあらかじめ許可されていた面々がすでにくつろいでいた。
その中のひとり、シルフィーナ・リッツガルドという女子生徒が、フェルナンドを見るなりパッと顔を輝かせた。
「フェル様!」
「やあ、シルフィ。今日は大丈夫だったかい?」
「ええ、フェル様がきつくお義姉様を叱ってくださったからか、今日は何もしてこなかったわ!」
口を開けてニコニコと喋るシルフィーナにフェルナンドも口元を緩める。
お高く止まって、表情も硬い婚約者よりも目の前の彼女の方がずっと良い。
「それに、ヒュー様が目を光らせてくださっていたから、お義姉様の取り巻きからは睨まれるぐらいで済んだの」
「そのぐらいお安い御用さ」
「うふふ、ありがとう」
「助かった、ヒューイット」
「当然ですよ、殿下」
ウィンクをして答えるヒューイット・クローグにフェルナンドは手を振って答えながらシルフィーナが腰掛けていたソファに座った。
肩が触れるほど近くに座ったが、シルフィーナは嬉しそうに笑う。
これがフェルナンドの婚約者ならば「節度ある距離を」と淡々とフェルナンドに注意をするだろう。婚約者ではない令嬢との適切な距離感ではない。
「殿下は私が苦境に喘いでいたときに助けていただきましたから」
「ははは、その割には私よりもだいぶ成績が良いが?」
「さすがに将来に直結しますので、ご勘弁を」
「冗談だ」
―― ヒューイットは元男爵令息だ。
例の《義賊》によってクローグ家はほぼ一家離散したといっても過言ではない。
ヒューイット自身が優秀だったのでこの学院に入学できたのだが、父親の悪評はついて回り、優秀ささえも妬まれた。
そこにフェルナンドが手を差し伸べたのだ。
フェルナンドのおかげで、今、彼に楯突くものはいない。
彼はフェルナンドよりも頭がよく、成績優秀だ。成績でも勝てない者たちはどうすることもできなかったのだろう。
「今日もお義兄様をお誘いしたんですけど、用事があるそうで……」
「アウグスト殿は頭が固いからな。仕方がない」
「……お義兄様に嫌われていたら、どうしよう」
瞳を潤ませて俯くシルフィーナの頭を、フェルナンドは優しく撫でた。
リッツガルド侯爵の弟の遺児である彼女は、リッツガルド侯爵家特有の赤い髪を持っていない。
だが、フェルナンドとしてはこのローズピンクの色合いがとても好みだった。まるでルビーのような、血のような真っ赤な色は目が痛くなる。
「大丈夫だ、シルフィ。たまたま用事があっただけだろう」
「でも、いつも断られていて……」
「私からの誘いじゃないからだろう。今度は私が誘ってみるさ。ついでにシルフィのことも無碍にするなと叱っておこう」
「まあ、嬉しい」
瞳を潤ませたままほんのりと頬を赤らめて微笑むシルフィーナに、フェルナンドはごくりと生唾を飲み込んだ。
妙な色気がある。制服はしっかりと着ているのに、まるで誘われているかのような。
「殿下」
ハッと我に返ったフェルナンドは、呼ばれた方へと視線を向けた。
ぴしりと背筋を伸ばし、立っているのはウィストン・エルン。伯爵家の息子だが、近衛騎士団長の子息でもあった。
「私がここに来る前に、ティザーリア嬢が『どうにかせねば』と呟きながら歩いているのを見かけました」
「なんだと」
「殿下、怖いわ」
フェルナンドは身を寄せてくるシルフィーナの肩を抱きよせる。
婚約者がいる身でありながら、その不適切な行動を指摘する者は誰もいない。
「ティザーリアについて、どうにかせねばならんな。かといってやりすぎればシルフィに疑いの目が向けられるし、シルフィ自身に危害を加えられかねん」
有耶無耶になったが、過去に一度、シルフィーナはティザーリアに階段から突き落とされたことがある。
ティザーリア本人が「違う」と弁明していたが、その場にフェルナンドがいた。
フェルナンドはシルフィーナの悲鳴を聞いて上階の踊り場にいるティザーリアと、階段から落ちてきたシルフィーナに気づいたので、ティザーリアが突き落としたのかは見ていない。
だが、状況的に彼女が突き落としたのは明らかであった。
シルフィーナも「お義姉様が……」と言っていたのだから尚更だろう。
しかし、確実な証拠がないと言われた。
あの踊り場付近にはティザーリアとシルフィーナしかおらず、階下はたまたま通りがかったフェルナンドとウィストンしかいなかった。
そしてフェルナンドたちからは、ティザーリアの挙動がはっきりと見えなかった。
敢えてフェルナンドが「突き落としたのを見た」と言わなかったのは、確実性がないことを証言すれば、いつかそれで足元を掬われるとその場にいたウィストンから忠告されたからだ。
フェルナンドは王位継承者であるが、王位継承者はフェルナンドだけではない。
そちらの派閥に少しでも弱みを与えてはならない。
シルフィーナは、侯爵家にいながらも酷い仕打ちを受けている。
いつだったか、彼女はフェルナンドにだけこっそりと足に鞭打ちされた痕を見せてくれた。
艶めかしい足にはっきりと浮かんだ赤黒い痕に倒錯的な何かを感じつつも、フェルナンドはその悪行に憤りを感じたのだ。
「ああ。あの《義賊》がティザーリアの悪事を暴いてくれれば良いものを」
10年前、派手に暴れていた《義賊》は今も時折、世間に話題を提供してくれる。
相変わらず暴露される情報は悪事に限ったことではあるが、頻度は格段に落ちた。
《義賊》という存在がストッパーになっているのか、悪事を働く者が少なくなったのか。それは定かではない。
どうせならティザーリアの悪事を暴いてくれればいい、とフェルナンドは思っている。
そうすればシルフィーナが彼女に怯えることなく生活できるのに、と。
「フェル様、《義賊》になんか頼らなくても証拠は集まりますわ」
「……そうだな。心苦しいが、今証拠を集められるのはシルフィしかいない。集めきった暁にはティザーリアの悪事を断罪してやろう」
「ありがとうございます、フェル様。私、フェル様がそう仰っていただけるだけでも頑張れます」
フェルナンドに上体を預けてしなだれ、上目遣いで見つめてくるシルフィーナにフェルナンドは力強く頷いた。
すでに証拠は集まりつつあるのだ。
あとはもうひとつ、決定的なことだけ。
不意に、にゃあ、とフェルナンドの耳に猫の声が聞こえた。
周囲を見渡すも、猫らしき存在はいない。
シルフィーナとヒューイット、ウィストンがフェルナンドの行動に首を傾げている。
「いま、猫の声が聞こえなかったか?」
「え? いいえ……」
「聞こえなかったですけどね。ウィストン殿は?」
「私も特には……」
ヒューイットとウィストンはともかく、吐息が聞こえるほど傍にいるシルフィーナですら聞こえなかったのだ。
気のせいだろう、とフェルナンドは猫の声が聞こえたことを捨て置いた。
◇◇
王家主催のデイパーティーに参加していたティザーリアは身を震わせた。
恐怖からではない。畏れからだ。
「ティザーリア・リッツガルド侯爵令嬢! 貴様の悪行はすでに白日の下に晒されている!」
―― この、目の前の愚かな王子がしでかした所業をご覧になられているはずのあの方への!
「学院の目の届かぬ場所や自邸でのシルフィーナへの暴言、暴虐の証拠はすでにある。先日のシルフィーナを階段から突き落とした件は推定無罪となったが、今回はそうはいかない」
フェルナンドが懐から取り出したのは布切れであった。
ただ、それは上質な布でさらにはドレスに使われていたものだと分かる。極小宝石が散りばめられていたからだ。
「このドレスの切れ端が、あなたの部屋に落ちていたのをリッツガルド家の使用人が拾ったそうだ。私がシルフィーナへと贈ったドレスを切り裂くなど!!」
「殿下、私は」
「弁明など不要!!」
傍にいたシルフィーナの腰を抱き寄せたフェルナンドは、ティザーリアに向かって手を突き出し、叫ぶ。
このパーティーに参加している全員に聞こえるように。
その様子にティザーリアは悩ましげに表情を歪めた。
「私、フェルナンド・イグニスはいま、この時を以てティザーリア・リッツガルドと婚約を破棄する! この件はすでに国王陛下もご了承済みだ!」
シルフィーナは衝撃を受けたように両手で口元を隠しているが、その隠れた口元は愉悦の笑みを浮かべている。目に浮かんだ感情の色も。
それは傍にいたフェルナンドにすら見せないほど巧妙な隠し方で、彼女がよくやる手法のひとつであった。
ティザーリアには分かって、周囲には分からないように、ティザーリアを見下すための。
ティザーリアはしばし黙り込んでいたが、静かに息を吐くと、ドレスの裾を摘んで持ち上げ、膝を折った。
「……国王陛下も了承済みともあれば、わたくしには何も言うことはございません。ただ、シルフィーナ様への暴言等、ドレスの件も含めて身に覚えがないことであることだけは宣言させていただきます」
その声に震えなどなかった。
カーテシーの動作もスムーズで、婚約破棄のショックを受けているような様子は見せなかったし、ティザーリア自身、婚約破棄自体に異議はなかった。
ようやっと解放された、という気持ちが大きい。
姿勢を直しながら、ティザーリアはフェルナンドを見つめる。
まっすぐに見つめてくるティザーリアに怪訝な表情を浮かべるフェルナンドへ、ティザーリアは問いかけた。
「ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「国王陛下からは婚約破棄のみ、了承をいただいたのですね」
「それ以外に、あなたに何があるというのだ」
フェルナンドの答えを聞いたティザーリアは、僅かに目を見開いて、それから軽く首を横に振った。
意外と言えば意外だし、最近のフェルナンドの様子を見ていれば当然かともティザーリアは思う。
この婚約には、政略的な事情があった。
そしてティザーリアは、幼き頃から正妃となるべく育てられた娘である。
「―― ふ、ふふっ」
誰かの笑い声が響いた。
フェルナンドが「誰だ!」と誰何するも、誰も彼もが視線を彷徨わせる。
ティザーリアだけが、ある一点を見つめ、そちらに体を向けるとドレスの裾を摘んだ状態で深く膝を折ったカーテシーを披露した。
彼女の行動で気づいた者たちも、同様に同じ方向へと最敬礼を見せる。
それはフェルナンドの近くにいたヒューイットとウィストンも同じであった。
それでようやく、フェルナンドはそちらへと視線を向けた。
このデイパーティーの主催は王家。
つまりは主催者である王家の者たちも出席している。
それは当然、第一王子であるフェルナンド以外にも。
ダンスも行われる予定であったこのパーティー会場は、中二階が存在している。
ふたつあるボックス席への立ち入りは制限されており、高位貴族であっても入る機会はほとんどないエリアであった。
なぜならば、そこは王家専用であるために。
片方は幕がかかっており、何も見えない。
そしてもう片方には。
「―― ああ、ごめんごめん」
そう、ボックス席の手すりに頬杖をついて答えたのは、黒髪金目が特徴的な美しい、少年とも青年ともつかない男であった。
「邪魔するつもりはなかったんだ。楽にしていいよ、みんな」
男 ―― トミュリスの一声で会場で礼を捧げていた全員が姿勢を正した。
はじめから呆然とトミュリスを見上げていたフェルナンドとシルフィーナだけが異質である。
「お、叔父上……」
狼狽した声を上げたフェルナンドに、トミュリスは微笑んで背筋を伸ばす。
ボックス席の手すりに手をかけたかと思うと、ひらりとそれを飛び越えた。
中二階とはいえ、それなりの高さだ。会場内にいる者たちから悲鳴が上がる。
けれどトミュリスは、まるで猫のようにくるりと体を捻ってストンと地面に降り立った。
怪我した様子もなく、息を詰めて見守っていたティザーリアはホッと安堵の息を吐く。
すると、先ほどトミュリスがいたボックス席の隣、幕で覆われていた方のボックス席に動きがあった。スルスルと幕が上がる。
現れたのは国王と王妃であった。
フェルナンドの表情が明るくなる。味方が出てきてくれたと思ったのだろう。
トミュリスがスタスタと歩き始めると、人々は道を作るように、トミュリスの行き先を開けていった。
するとその先にはティザーリア、そして更にその向こうにはフェルナンドたちが立っている。
トミュリスが歩みを止めた場所は、ティザーリアの隣であった。
フェルナンドと同じ金の瞳を細め、トミュリスはニコリと笑う。
「婚約破棄おめでとう、フェルナンド」
「……あ、ありがとう、ございます?」
「そこの娘とは婚約を結び直さないの?」
「ゆくゆくは、と考えていますが……まずは、身辺を整えねばと」
「そっかそっか~」
あっけらかんと話すトミュリスにフェルナンドが困惑していると、不意にフェルナンドの服が軽く引っ張られた。
フェルナンドが自然と目線を下げれば、顔色を悪くしたシルフィーナがフェルナンドの服を掴んでいる。
「フェル様……」
「どうした、シルフィ」
シルフィーナは呟いた。
フェルナンドが聞き取れるかどうか、というぐらいに小さく、小さく、一言。
こわい、と。
口の動きからしてシルフィーナが何を口走ったのか気づいたティザーリアは、内心盛大なため息を吐いた。
そう。怖いのだ。この方は。
「ティザーリア嬢」
呼びかけられて、ティザーリアはトミュリスへと視線を向けた。
彼の猫のような金色の瞳が、口元が弧を描く。
彼は何も言わない。ただ、微笑んでいるだけ。
何を求められているのかだなんて、ティザーリアは痛いほど分かっていた。
「―― お約束通り。フェルナンド様から婚約破棄されたため、わたくしはたった今、この時より貴方様の妻となります。トミュリス王太子殿下」
「うんうん。僕は良い子は好きだよ」
「お、お義姉様!? どうして……!」
フェルナンドは声すら出ないほど、衝撃を受けたようだった。
シルフィーナは状況を理解できずに混乱しているのだろう。なんで、どうしてと言葉を繰り返した。
すると、フェルナンドたちの傍にいたヒューイットとウィストンがフェルナンドたちから離れ、トミュリスたちの方へと歩み寄った。
フェルナンドは固まっていて、トミュリスの方を凝視しているだけ。
シルフィーナがふたりの名を呼んだが、ふたりは振り返りもせず、やがてはトミュリスとティザーリアの目の前で片膝をついて頭を下げた。
ニコニコと、トミュリスは笑う。
「お疲れ、ヒューイット、ウィストン」
「命を救ってくださった殿下のためならば、いかような命令でもこなしてみせます」
「殿下のご用命とあらば、凡愚の忠実な犬を装いましょう」
もう、フェルナンドの顔色は青を通り越して白くなっていた。シルフィーナの腰を抱いていた腕はだらりと下がっている。
シルフィーナも、一歩、二歩と後ずさった。
ようやく気づいたのだろう。
自分たちの周りには、味方などひとりもいないことを。
実際に周囲を見渡してみても冷ややかな視線しか向けられないはずだ。
それは、ボックス席で静かに会場の様子を見ていた国王と王妃も同じことで。
「お、王太子……なぜ……」
それでもフェルナンドは勇気を出して、震える声で尋ねた。
文脈も何もない。
けれどあまりにも察せられる内容で、ティザーリアはちらりとトミュリスを見上げた。
彼と目が合うも、彼はニコリと微笑むだけ。
説明する気がないと察したティザーリアは、小さなため息をひとつだけ吐いてフェルナンドに向き直った。
「わたくしは先ほど、国王陛下からは婚約破棄のみ了承をいただいたのか、とお聞きいたしました。なぜならば、わたくしはこの国の次期王妃として幼少期より育てられた人間です。すでに王家から正規の教育を施され、わたくしは次期国王となる者以外に嫁ぐことは叶いません。次期国王たる者がわたくしを廃し、新たな妃を選ぼうとするのであれば。わたくしは、毒杯を賜る必要がございます」
ティザーリアはすでに国や王家の最重要機密に関する教育を修了している。
つまり、国外はおろか国内の貴族にすら嫁ぐことができなくなっている。次期国王となる男以外に嫁ぐ他、生きる術はないのだ。
「ですがフェルナンド第一王子殿下は、わたくしとの婚約を破棄なさいました。つまり、あなたは次期国王の資格を失ったのです」
フェルナンド第一王子以外に、現国王夫妻、および第二妃との間に子はない。
第二妃は可能性があるだろうが、例え来年生まれた子を育て上げ、王太子として立太子させるまでの間にどれほどの時間がかかるだろうか。
その間、国王に何か問題がある可能性はある。
―― つまり、年の離れた王弟であるトミュリス以外になり手がいないのが現状である。
助けを求めるようにフェルナンドが中二階にいる国王と王妃へと視線を向けた。
だがふたりはそっとフェルナンドからの視線を逃れるように、瞳を伏せたり反らしたりといった反応を返した。
それはすなわち、この状況は、王家も承認していることだということは、愚かなフェルナンドでも理解できることで。
ああ、とフェルナンドは膝から崩れ落ちた。
うなだれるフェルナンドに寄り添うでもなく、そろり、そろりとその場から離れようとしたシルフィーナであったが、当然叶うはずもない。
「ああ、シルフィーナ嬢」
「ひっ」
「先ほど、リッツガルド侯爵家に盗賊が入ったようでね。報告が入ったんだよ。それで笑っちゃったのもあるんだけど」
トミュリスの言葉とともにシルフィーナの背後に人が立った。
その気配に気づいた彼女が振り返ると、義兄であるアウグストが、冷たい眼差しでシルフィーナを見下ろしていた。
「ダメじゃない。《義賊》に狙われるようなことしちゃ」
背後でトミュリスが面白おかしいとでも言わんばかりの声色で告げられたのを聞きながら、シルフィーナはアウグストから眼前に突きつけられた書類に狼狽えた。
シルフィーナが自ら足に乗馬用の短鞭を打ちつけ、自傷した様子。
階段の踊り場で歪んだ笑みを浮かべながら、ティザーリアの目の前で階段から落ちたように見せかけた様子。
自室であろう場所で、かつてティザーリアが身につけていた宝飾品を恍惚とした表情で身につけている様子。
極小の宝石が散りばめられた舞踏会用のドレスを、自らの手で切り裂く様子。
それらが、写真付きですべて記載されていたのである。
「うそ、うそうそうそッ!! だって、だって誰もいなかったのに!!」
「あっははは! だってあの《義賊》だよ? いつどのように侵入したのかも、どのように情報を盗むのかも分からないような凄腕の盗賊が、バレるようなことするわけないじゃん!」
「衛兵。この娘を捕らえてくれ。リッツガルド侯爵家唯一の令嬢に対する不敬、強盗、偽称など叩けば色々と出てくるはずだ」
「助けて!! 助けてお義兄様!! お義姉様!!」
衛兵に取り押さえられまいと抵抗するシルフィーナに、アウグストは盛大なため息を吐いた。
心底、軽蔑しているといった眼差しを受けてシルフィーナはびくりと動きを止める。
「私も両親も、ティザーリアですらお前を義妹だと思ったことはない。あくまでお前は我々の従妹という立場でしかなかった。お前はリッツガルド侯爵家の分家の娘であり、本家の娘ではない」
両親を亡くし、ひとりとなってしまった彼女を憐れんで、ティザーリアと同等に扱ってしまったのがいけなかったのだろう。
従妹でしかなかったシルフィーナは増長した。
直系の娘であるティザーリアと同じ立場であると誤解した。
本来の立場である分家の娘として、弁えて過ごしていれば。
リッツガルド侯爵家の分家当主として再興する道筋もあったというのに。
シルフィーナはボロボロと涙を零し、嗚咽を漏らしながら衛兵たちに連れ出されていった。
床に座り込み俯いていたフェルナンドも、衛兵の手によって会場から連れ出されていく。
それを見送ったトミュリスは、目が覚めるほどの美しい笑みを浮かべると、胸に手を添えて声高らかに告げる。
「つまらない茶番に付き合わせてしまい申し訳ない。だが、王太子となった以上、僕は国のため民のため、この身を尽くしてティザーリア嬢とともによりよい未来を築いていこうと思う。どうか、未熟な我々に力を貸してほしい」
トミュリスが大勢に向かって一礼したのを見て、ティザーリアもカーテシーを見せた。
はじめはパラパラとした拍手が、徐々に広がり、最終的には会場に大きく響くものへと成長していく。
顔を上げたトミュリスとティザーリアは顔を見合わせた。
「これからよろしくね、ティザーリア」
「こちらこそよろしくお願いいたします、トミュリス様」
―― 時を経て。
成長したトミュリスの頭に王冠が載せられた、今日、この日。
誰もが寝静まった時間、トミュリス夫妻の部屋に繋がるベランダで星空を見上げていた存在があった。
月明かりで邪魔される部分もあるが、キラキラと輝く星空は、どれほど時が経っても美しい。
「みぃ」
背後から声をかけられて、振り返る。
妻であるティザーリアはすでに夢の中なのだろう。こっそり起きてきたトミュリスに、瞳を細めた。
涼しい夜風が、月明かりで七色に光る黒髪を揺らしている。幼かった美少年は麗しき青年になっていた。
《おめでとう、坊》
「……ありがとう、みぃ。これで、母上の悲願が叶ったよ」
《私は坊のサポートをしただけだ。実際にトミュリス姫の願いを叶えたのは坊、お前だよ》
穏やかに、静かに。
トミュリスは笑って応えた。
トミュリスの母は、小国の姫で名を『トミュリス』という。
光の加減によって七色に光る美しい黒髪を持つことで有名な姫は、静かに暮らしていた。
次期国王となる相思相愛の夫もいて、幸せだったのだ。
姫に一目惚れをした、二代前のイグニス王がいなければ。
姫の故国はイグニス王国よりも力のない国ではあったが、イグニス王の婚姻申し込みを「既婚である」と断った。
けれど王は諦めることができず、あれこれと手を尽くしても手に入らぬと気づき、最終的には別の名目で小国相手に戦をし、攻め滅ぼしたのだ。
姫の愛する夫も、父も戦で命を落とした。
『どうして』
姫の愛する母は襲いかかってきた兵士に凌辱され、自死した。
『どうして……』
姫の愛する民草は、みな物言わぬ屍に変わり果てた。
あの国でただひとり生き残り、姫が茫然自失としていたところを王が掻っ攫ったのである。
敵国にひとり放り込まれた姫の心境はいかほどか。
幸いなのは、王の正妃は敵ではなかったことだ。味方でもないが、無駄に干渉してくる妃ではなかった。
……だからこそ、姫はあの離宮で見つけることができたのだ。
王家から「隠された存在」として扱われた ―― 本来はミシュキアル・イグニスと呼ばれていた、イグニス王家始祖とされる獅子の姿をした獣神の存在に。
《いつの頃だか忘れたが、愚かな王のせいでここに封じられてな。昔のようにとは言えないが、お前の望みをひとつくらいは叶えることはできよう》
『……では、それでは。現イグニス王家を廃すことはできますか』
《ほう? 我が血を継ぐ者たちを廃せと》
『代わりに、わたくしがあなたの子を産みましょう。あの王の血が一滴も入らぬ者に、一時の感情で滅ぼした国の子に王国を継承させるのです。それが叶った暁には、わたくしの命もあなたに捧げましょう』
目を真っ赤にして、涙を零しながらも気丈に望みを告げる姫にミシュキアルは低く笑って応えた。
ちょうど王妃が懐妊し、王の意識が逸れたときである。
ミシュキアルは自身特有の魔法を使って、離宮ごと姫の存在を人々の記憶から隠した。
文字通りその身をミシュキアルに捧げた姫はすぐに懐妊した。
当然、ミシュキアルとの子である。
人外、ましてや神の子だ。普通の妊娠では考えられない早さで腹が大きくなっていった。
ミシュキアルは、せっせと姫と腹の子のために食事を調達した。
王宮の厨房では年初に一年で使用する食材の量を計算して発注する。王家の人数にあわせて発注されるため、途中からひとりひっそりと消えたとて、当面の間は作られる料理の量は変わらない。
それに、次年度の計画を立てるときだけ、発注に関係する人間にのみ姫の存在を軽く感じさせれば良く、それは姫とともに隠れてから2年もの間、成功していた。
ミシュキアルの手助けもあり、隠されてから約半年で子を出産した姫は、自身の名を生まれた子に授けた。
子が母の名を忘れぬように。
いつか、誰かが歴史を紐解いたときに気づくように。
それから約1年半後。
子が卒乳した頃、ミシュキアルは自身の子を姫から預かった。
『少し早いですが、お約束通り、わたくしの命を捧げます』
《……別に、お前がこのまま育てても問題ないんだよ》
『……もう、わたくし自身の体がもたないことぐらい、分かりますわ』
ハラハラと涙を流しながらも笑みを浮かべた姫に、ミシュキアルは瞳を伏せた。
『どうか、わたくしの命を召し上げられませ。そうしてあなたの中で、この子の傍にいさせてくださいませ……どうか、わたくしが願う復讐を遂げるその日まで』
―― 結局、その日、ミシュキアルは姫の命を望み通り喰らった。
そのおかげで全盛期の半分ほどの魔力を取り戻し、ミシュキアルは子ごと時間の流れが非常に遅くなる亜空間の中に隠れた。
今はまだ、自分にこの子を王位に導けるほどの魔力が戻っていないから。
一代延命させることになってしまうが、彼ら自身で脈々と受け継がれた血を絶やす手助けをさせるのが良い。
そうして、姫の憎き王の息子が成長して王位を継ぎ、さらに子が生まれ成長した頃合いに魔力が完全に戻ったミシュキアルは子とともに戻ってきた。
将来、子であるトミュリスが成長し、王位を継いだときに起こるであろう後顧の憂いを断つために、トミュリスの味方になりそうにない者を断罪した。
ミシュキアルにしか使えない魔法を使えばそれはとてもかんたんだった。
《義賊》はミシュキアルである。
ミシュキアルの血を濃く引くトミュリスもまた、魔法が使えたので彼もまた《義賊》になった。
「ティザーリアはいい子だね。みぃをちゃんと理解してたよ」
《私が言うのもなんだが、大事にしろよ》
「うん。いい子は好きだよ、僕は」
《そうか》
ティザーリアの血筋に、姫が憎んだ王の血は入っていない。
遠い先祖に旧王家の血は混じっているだろうが、目的はあの王の血を引く者に引き継がせないということ。
あの王に子はひとりしかいなかった。
その子もまた、あの愚かなフェルナンドひとりしかいなかった。
―― 結局、旧王家は潰える運命だったのだろう。
それが早かったか遅かったかだけの違いでしかない。
《始まりの頃に『我がイグニスの名を生まれながら冠する者にのみ私と同じ瞳を持たせる』と決めておいて良かったよ》
これで我が子を王にすることができたのだから。
トミュリスが両手を伸ばし、ミシュキアルのふわふわとした首元に抱きつく。
相変わらずだなと、ミシュキアルはトミュリスの頭に頬を擦り付けた。
「ずっと一緒にいてね、みぃ」
《当然だよ》
「父上って呼んだ方がいい?」
《坊の好きなようにしていいよ。みぃという呼び名も好きだから》
「じゃあ、みぃのままで」
いつか、この子も死ぬ日がくる。
そのときはその残り少なくなった命を食べてやろうとミシュキアルは思う。
そうしたらきっと。
自分の中にいる姫が、この子をたくさん褒めてくれるだろうから。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
またしても2万字以内にならず……。
精進いたします。




