第1話 死体が出た
「死体が出た」
従者の震える声が、薔薇の香り漂う廊下に響いた瞬間、私は手にしたティーカップを静かにソーサーへ戻した。
王宮の東翼。朝の光も届かない石造りの回廊。そこに倒れているのは、王太子の専属侍医――原作「薔薇と誓いの王宮」には、決して死なないはずの人物だった。
まずい。これは原作にない。
侍女たちが悲鳴を上げ、騎士たちが走る。貴族たちが袖で口元を押さえながら囁き合う中で、私だけが逆算していた。この場所、この時間、この死体の意味を。
前世で十年、法律の世界の端っこにいた。弁護士事務所の事務員として、私が読んできた調書の枚数は、おそらく誰にも負けない。事件は書類になる前に、必ず現場に痕跡を残す。現場が語ることを、書類は後から整理するだけだ。そしてこの現場は今、一つの不可解な矛盾を抱えて、静かに私に語りかけていた。
扉は内側から施錠されていた。
それだけなら、まだわかる。密室など、小説の中では珍しくもない。しかし問題はその次だった。
「いつ発見されたのですか」
私は近くに立っていた若い騎士に声をかけた。彼は驚いたように目を瞬かせたが、身分の差を思い出したのか、慌てて答えた。
「夜明け前に当直の衛兵が異変に気づき、扉を破って入ったとのことです。その際、室内に他の者はおりませんでした。衛兵は確認後すぐに扉の前に立ち、私どもが到着するまで誰も出入りさせておりません」
出入りさせていない。つまり、扉を破った時点で、部屋には遺体だけがあった。
私は回廊の石壁に視線を這わせた。窓は一つ。格子ではなく板張りの鎧戸だが、開けてみれば一目瞭然だった。幅が狭い。成人が体をねじっても通れる隙間ではない。私の細い腕一本が限界だろう。
内側から施錠された扉、証言のある封鎖、人が通れない窓。三点が揃っている。
怖い、と思った。でも足が動く。
調書で読んだどんな事件よりも、これは現実で、この死が本物で、犯人がまだこの王宮のどこかにいるかもしれないのに、それでも私の目は現場から離れなかった。知りたい。知らなければ、次に死ぬのは誰かもわからない。
「エリーゼ様、どうかお下がりを」
騎士の制止を、私は片手で静かに遮った。
「少しだけ。確認したいことがあります」
エリーゼ・ヴァルトール、十七歳、異世界転生三ヶ月目。令嬢としての私はこの場にいるべきではない。けれど事務員としての私は、この現場から目を逸らすことができなかった。
侍医の左手が、微かに床から浮いていた。正確には、何かを握ったまま力が抜けた、という形をしていた。私は膝をつく寸前で止まり、視線だけを落とした。指の間に、紙の端が見える。小さく折り畳まれた、何か。
回収したい。でも今はまだ動けない。
騎士たちの視線が、私の背中に刺さっている。令嬢が死体に近づくなど、この世界では非常識の極みだ。それはわかっている。わかっていて、それでも私の頭は止まらなかった。
前世の記憶が、勝手に動き出す。調書の中で何度も見た構図。密室、遺体、そして死者が最後に握った手がかり。書類の上ではパターンに過ぎなかったものが、今は血の匂いと薔薇の香りが混ざる石畳の上に、本物として横たわっている。
これは乙女ゲームのシナリオじゃない。
誰かが、原作を書き換えている。
そしてその誰かは、密室という不可能を実現できる何かを持っている。魔法か、抜け道か、あるいは私がまだ知らない王宮の構造か。どれであれ、次の一手を打つ前に、私はあの紙片の中身を見なければならない。
死者は語る。調書が教えてくれた、最初の真実だ。
問題は、この王宮では、語らせてもらえるかどうかもわからないということだった。
次回は3月8日(日)19:00更新予定です。




