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第23話 ヘドム

異変は静かに始まった。濃い霧が這うように広がり、やがて視界を奪った。


「これは危険だな。」


ローレンが荷馬車を止め、野営の準備を指示した。サトリとリーナが荷物を降ろそうとしたその時、霧がパッと晴れた。星が瞬く夜空が広がる。しかし、森の獣や鳥たちのざわめきが異様に大きくなっていた。


「……何かが来る。」


サトリがそう呟いた刹那、地鳴りとともに大地が激しく揺れた。三人はとっさに身を伏せ、揺れが収まるのを待つ。そして恐る恐る立ち上がった瞬間、異形の怪物が現れた。


地面から紫色のぶよぶよした塊がゆっくりと生え始め、触手のような根を四方に伸ばしていく。それはまるで腐敗した樹木が這い回るかのようだった。


「ヘドムだ!」


三人は同時に叫んだ。ヘドムは比較的ありふれた闇のモノだ。触手で獲物を絡め取ると、全身から消化液を分泌し、じわじわと喰らう。動きは極めて鈍重で、一体ならば恐れるほどの相手ではない。しかし、顔に張り付かれると窒息し、即死する。そして何より恐ろしいのはその数だ。ヘドムは群れる習性を持つ。一体見つけたら、周囲に二十体は潜んでいるとさえ言われる。


「逃げよう!」


サトリが叫んだ。しかし、リーナは両手小刀を構え、低く笑った。


「私に任せて。」


彼女が一体を斬り伏せる。しかし、その隙間から、ゆっくりと、しかし確実に、次のヘドムが姿を現した。


「まあ、そうよね……。さあ、どれだけ出てくるのかしら?」


彼らの足元から、じわじわとヘドムが湧き出てくる。絡み合う触手がゆっくりと伸び、獲物を捕らえようとしていた。


「いかん、リーナ!取り囲まれた!」


ローレンの警告に、リーナがはっと周囲を見渡す。ヘドムの群れが、まるで湿った闇が染み出すように、荷馬車を取り囲んでいた。次々と地面から這い出し、数えきれないほどの不気味な影が揺らめいている。


「逃げるぞリーナ!乗れ!」


ローレンが怒号を上げた。リーナが荷台に飛び乗るのを確認し、ローレンは愛馬に鞭を打った。普段なら決して入れない強烈な鞭打ちに、愛馬は驚き、猛然と駆け出す。その勢いにたじろいだヘドムを蹴散らし、強行突破を図る。


だが、ヘドムの群れは決して慌てることはなかった。追うように、ゆっくりと、しかし確実に、蠢きながら迫ってくる。どれほど逃げても、ヘドムの気配は遠ざからない。いつの間にか、逃げ切れるという確信が揺らいでいた。


そして――ガクン、と荷馬車が傾いた。


「くそっ、轍に車輪がはまったか!」


ローレンが叫ぶ。背後では、ヘドムが無言のまま、ただ迫り続けている。その動きは決して速くない。だが、だからこそ恐ろしかった。あまりにも遅く、あまりにも確実に、こちらを捕らえようとしている。


リーナは小刀を握り直し、荷馬車を飛び降りた。サトリも短剣を抜く。


「サトリ、構えて!」


サトリの手が震える。狩りでは罠を用いることが多く、剣で戦うのはほとんど経験がない。しかし、今はそんなことを言っている暇はなかった。


ローレンも短剣を手にし、荷馬車の後方へ回る。


「くるぞ……」


戦いはまるで終わりのない悪夢だった。三人は必死で剣を振るう。斬っても、斬っても、次のヘドムがゆっくりと現れ、手足にまとわりつこうとする。


「もうダメだ、走って逃げよう!」


サトリが悲痛な声を上げる。


「荷馬車を置いて逃げられるか!頑張れサトリ!」


ローレンが怒声を飛ばす。


リーナもまた、圧倒的な不利を悟っていた。しかし、最初に「私に任せて」と戦いを始めたのは自分だ。その結果、状況を悪化させてしまったという後悔が喉を塞ぎ、何も言えなかった。


その時だった。


突如、遠くから雷鳴のような音が響いた。


「……蹄の音?」


次の瞬間、けたたましい蹄の音が暗闇にこだました。

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