07 未熟な子ども
宣言通り、ルークさんはぱたりとこの家を訪れなくなった。
時折、おばさま方に囲まれながら薪を割る姿を見かけることはある。目が合えば不器用に手を上げてくれるし、夜遅い時間に会えば家まで送ってくれることもあった。食堂のご主人が、「ルークの奴め。また顔を出すようになったが、長居はしないし金払いもいいから助かるよ」なんて、冗談めかしても言っていた。
――きっと、ルークさんは少しずつ立ち直って、この村で再び根ざそうとしているんだ。
だったら、文通相手の『ミア』さえいれば、私の存在はもう不要なのかもしれない。ううん、むしろ妙な誤解を招くだけの厄介な娘で、寂しげにしている私に付き合ってくれていただけなのかも……。
彼が村に馴染んでいくのは喜ばしいことのはずなのに、胸の奥にぽっかりと穴が空いたように寂しいのは、どうしてなんだろう。
元の生活に戻っただけ。……ただ、それだけのことなのに。
「……なんか、悪かったよ。お前にそんな顔をさせたかったわけじゃないんだ」
そう言って困ったようにお茶をすするのは、郵便屋の仕事が休みになる冬の間は頻繁に様子を見に来てくれるマーティンだ。
彼がいてくれるおかげでダイナーも寄りつかず、この季節はいつも穏やかに過ごせていた。
「ううん、気にしないで。別に、避けられてるわけじゃないもの」
「でも……代筆も頼まれなくなったんだろ?」
「それは、ほら……冬の間は手紙も届けられないからよ。雪が解ければ、また様子を聞く手紙を出すかもしれないし……これまでだって、そんなに頻繁だったわけじゃないから」
そう――ルークさんは、最初こそ熱心に代筆を頼んできたけれども、娘さんが元気に暮らしていると偽りの返事を貰ってからは、少しずつ落ち着いていったのだ。
その代わりに料理を作ったりしていたのに……その関りももう、断たれてしまった。
「……マーティンも、いつもありがとう。でも、私もいつまでも子どもじゃないわ。そんなに心配しなくても大丈夫よ」
「それが出来りゃ苦労はしねえんだよ。なあ、イリナ。気まずいかもしれねえけど、俺がいないときは、やっぱりおっさんに……」
「だめ」
私は、彼の言葉をきっぱりと遮った。
「もう、これ以上ルークさんに迷惑はかけられないから。……大丈夫。私、もう一人で平気よ」
そう。迷惑はかけたくない。これ以上、あの人の優しさに甘えちゃいけないんだ。
だって、あの人にとって私は――。
代筆を請け負ってくれる、ただの村の娘にすぎないのだから。
「……子どもじゃなくなるから、心配なんだっての……」
マーティンが、諦めたように小さくぼそりと呟いた。
けれど、その言葉の本当の意味は、まだ私には分からなかった。
*
雪が解け、マーティンが再び手紙を届けに村を出ていくと、私の仕事もにわかに忙しくなる。冬の間は閉ざされていた交流が、手紙を通じて再び動き出すからだ。
――けれど、その日。店の戸口に立ったお客様は、思いもよらない相手だった。
「失礼するが……君がイリナという娘か? ……まさか、君が手紙の代筆をしているのか?」
この村では見かけたことのない、恰幅のいい男の人。他所から来たお客だろうと察し、私は営業用の笑顔を貼りつけた。
「はい、私がイリナです。代筆の仕事を請け負っておりますが……どのようなご依頼でしょうか?」
「いや……まさか、これほど若い娘だったとはな」
男の顔が、みるみるうちに曇っていく。私を見定めるようなその目が、冷たくなっていくのが分かった。
どうしてだろう。どこかで不快にさせてしまったのだろうか。心配でそわそわしていると、男は深いため息をひとつ吐いた。
「……ここの村長の息子、ダイナーのことは知っているな?」
「あっ……はい」
「うちの娘がその男に弄ばれた。毎日泣き暮らす娘を見ては、父親として到底見過ごすわけにはいかなくてな。……テレサという名に、心当たりは?」
――テレサ。
その名前を聞いた瞬間、心臓がひやりと冷たくなる。
間違いない。ダイナーが「誰が一番早く落とせるか競争している」と下卑た笑みを浮かべていた、あの恋文の送り先だ。
「……あの、もしかして……」
「君が、代筆したんだろう? あの手紙を」
言葉を遮るように詰め寄られ、私はただ小さく頷くしかなかった。
「娘は、あの手紙に書かれた甘い言葉にすっかりのぼせあがったようだ。村長にも先ほど厳しく抗議してきたところだが……まさか君のようなうら若い娘が、あんな恋文の筆を執っていたとはな」
「ごめんなさい……そんなつもりじゃ……私は、ただ頼まれただけで……」
「仕事としてやったことだというのは理解している。娘を直接傷つけたのは、あくまでダイナーだ。だから君のような子どもに責任を問うつもりはない。だが……君のご両親とは、一度しっかり話をさせてもらえないだろうか」
「……それは……父も、母も、もういないんです……」
正直にそう伝えた瞬間、男の目に宿っていたわずかな同情めいた色が、すっと消えた。
その代わりに現れたのは――どうしようもない苛立ちと、冷え切った落胆の色だった。
「……それならば、君は自分の判断で、私の娘を馬鹿にする手紙を書きつけたと。そういうことだな」
「ち、違います! 馬鹿にするつもりなんて……! 私は、ダイナーさんにお願いされて、断れなくて……」
「言い訳は結構だ。君の事情がどうであれ、私の娘が傷物にされたという事実は変わらん。……いいか、次に同じような真似をすれば今度こそ容赦はしない。本来なら慰謝料を請求されても文句は言えんのだぞ」
――傷物、慰謝料。
恐ろしい言葉の羅列に、頭の中が真っ白になる。
私はただ、頼まれたから書いただけ。
代筆屋として、依頼人の言葉に口を挟むのは失礼だと思っていたから。何も考えず、ただ言われるがままに筆を走らせただけだったのに。
私の書いたその文字が、誰かを深く傷つけていたなんて――。
「……ごめんなさい……」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
深く頭を下げる私を男は一瞥し、憤然と踵を返して出ていった。
……私が子どもだから許してもらえたんだ。
何も考えずに書いてしまった、責任も取れない、未熟な子どもだから。
あのお父さんは家に帰って、泣いている娘さんのそばにいてあげるんだ。
慰めて、守って、一緒に怒ってあげるんだ。
私には……私のお父さんは、どこにもいないのに。
「……っ、うぅ……ひっく……」
一度こぼれ落ちた涙は、もう止まらなかった。
情けなくて、悔しくて、後悔ばかりが胸を締め付ける。
私は早々に店の札を「閉店」に裏返し、鍵をかけると、そのままベッドに倒れ込んだ。
毛布を頭まで引き被り、ただ小さく丸くなって、声を殺して泣き続けることしかできなかった。