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01 代筆屋の少女と片腕の帰還兵

 村の中で何度か見かけたことのあるその人は、とても背が高く、いつも眉間に皺を寄せていて、近寄りがたい空気をまとう人だった。

 村一番の力自慢で、猪を追い払ったこともあるのだという。幼かった私には少し怖い人だったけれど、大人たちの間では一目置かれる存在だったそうだ。


 同じ村に暮らしていながら顔を合わせる機会はほとんどなかったけれど、今でもよく覚えているのは、まだお母さんが元気だった頃のこと。

 いつものように買い物へついて行き、ほんのわずかな時間さえ待ちきれなかった私は、会計を済ませるお母さんの手を振り払って噴水広場へと駆け出した。

 後ろから私を呼ぶ声に気を取られて振り返ったその瞬間――何か硬いものにぶつかって、思いきり尻もちをついた。それがあの人の太ももだと気づくより先に、私はわんわんと泣いてしまったっけ。


 どう考えても私が悪いのに、少し困ったように手を差し伸べてくれたその人こそが――ルークさん。

 立ち上がった私に、掠れた低い声で「気をつけなさい」とだけ告げると、彼はすぐに立ち去ってしまった。

 その大きくて逞しい背中が、どうしてか、やけに鮮明に記憶に残っている。

 

 あれから十年以上の月日が流れた、今。

 そのルークさんが、再び私の前に現れた。


 けれど、あの頃と今とでは何もかもが違う。

 お母さんは病でこの世を去り、私の背丈はいつの間にか彼の胸元に届くほどになっていた。

 そして何よりも――あの日、私に差し出してくれた右腕の肘から先が失われていて、代わりに、その厳めしい顔には大きな傷が刻まれていた。


 ルークさんは「徴募兵」と呼ばれる人だったそうだ。普段は畑で鍬を振るっているけれど、ひとたび戦が始まれば、志願兵として戦地に赴くのだという。それは小さな民族同士のいざこざだったり、国を挙げた大戦だったりと、様々らしい。

 随分と長く姿を見ないとは思っていたけれど、どうやら遠い異国の地まで赴いていたようだった。

 

 そして――今回の戦は、負け戦だった。

 敵国で捕虜となり、ようやく解放されたときには、彼がこの村を出てから十数年の歳月が過ぎていたそうだ。


「代筆を頼みたい。……娘、宛に」


 人当たりの良かったお母さんは、この村でのささやかな居場所と「文字」を遺してくれた。おかげで身寄りのない私でも、こうして代筆屋としてどうにか根を張ることができている。

 識字率の低いこの村ではそれなりに重宝されていて、贅沢さえ望まなければ日々の暮らしに困ることはない。

 そんな私の元へ彼が訪ねてきた理由は、その失われた右腕を見ればすぐに分かってしまった。


「……妻にも娘にも、何もしてやれなかった。謝りたいんだ」


 椅子に浅く腰掛けたまま、唸るように語る彼に私は言葉を挟むことができなかった。

 記憶の中の彼は、武骨な胸当てを身に着け、腰に斧を括りつけた勇ましい姿だったというのに。

 いま目の前にいるのは、喉の肉が削げ落ち、窪んだ目を彷徨わせながら膝を小刻みに揺らす、まるで別人のような男だった。


「……頼めるだろうか?」


 その、窺うような弱々しい声に、私ははっと我に返った。

 

「もちろんです!」


 断る理由なんて、どこにもあるはずがない。上ずるような声で返事をする。

 それを聞いたルークさんは、安堵したように小さく息を吐くと、虚ろな目のまま床を見つめ、ぽつり、ぽつりと言葉をこぼし始めた。

 私はその言葉を一つひとつ聞き漏らさないように拾い上げ、丁寧に便箋へと書き留めていく。


 ――長年帰れなくて、申し訳なかった。

 ――金を送るどころか、肩身の狭い思いをさせてすまなかった。

 ――まだお前も幼かったのに、何もしてやれず、悪かった。

 ――今さらだが、この金を受け取ってほしい。


 並ぶのは、後悔と謝罪の言葉ばかり。どうしようもないやるせなさが、胸の奥にじわりと広がっていく。

 奥さんは、彼が捕虜になったと知るや、すぐに娘さんを連れて村を出たという。荒れ果てた家の机には、離縁状だけがぽつんと残されていたそうだ。

 この人は家族のためにも必死に戦ってきたはずなのに。彼は命がけで得たわずかな慰労金と引き換えに、あまりにも多くのものを失ってしまったのだ。


 彼が抱える気持ちなんて、私なんかに分かるはずがない。

 それでも、胸が張り裂けそうなくらい苦しんでいることだけは、痛いほど伝わってきた。


「……今から読み上げますので、内容に誤りがないか、ご確認ください」


 代筆屋として、私は努めて冷静にそう告げた。

 ルークさんは黙って、ゆっくりと頷く。

 私は便箋を手に取り、一行ずつ丁寧に読み上げていった。彼は目を閉じ、その言葉を噛みしめるように、何度も、何度も頷いていた。



 送られた手紙は、程なくして私のもとへ戻ってきた。

 届けてくれたのは、隣に住む幼馴染。郵便屋の見習いをしているマーティンだった。


「本当ならあのおっさんに直接返すべきなんだろうけど……。お前の字だったから、一応見せておこうと思ってさ」


 差し出された封筒は、封が切られた様子もなくそのまま無情に突き返されていた。

 宛先の上には、殴りつけるような勢いで『受け取り拒否』という赤い文字。

 息が、喉の奥で詰まる。


 ふと、井戸端で奥様方が交わしていた噂話が、頭の中でこだました。


『あの人は家庭を顧みなかったそうだからねぇ。捕虜にまでなったっていうし、私が奥さんでも逃げるわよ』

『今さら帰ってこられても困るって話よね。しかもあんな姿で……』

『もうとっくに新しい街で新しい男でも捕まえてるさ。村長が目をつけるほどの美人だったからねぇ』

『この間は夜中に徘徊していたそうよ。頭までイカれちゃったのかしら。怖い怖い……』


 無神経な言葉の数々が、胸に突き刺さる。


「……どうする?」


 マーティンが、心配そうに私の顔を覗き込む。その視線から逃れるように、私は俯いた。

 ……こんな手紙、あの人に見せるわけにはいかない。

 今の彼がこんなものを見たら――もっと悲しませてしまう。


「……マーティン。お願いがあるの。協力してくれないかな」


 娘さんの筆致なんて、私に分かるはずがない。けれど、離れ離れになったのはもう十年以上も前のこと。少しくらい筆跡が違っていても気づかれるはずもない。

 

 だから、ほんの少しでもあの人の心の慰めになるのならと、私は筆を執ってしまった。

 ――ルークさんの、たったひとりの娘さんとして。

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