後(終)
「そういえば」
またもひと息で飲み干した蜂蜜入り紅茶のカップを「これ以上は駄目です」と言って片づけた後、ベンジャミンは王弟殿下に聞いてみた。
「ポール卿がアニーを好きじゃないから、という馬鹿らしい、失礼、残念な嫌がらせの理由は聞きましたが、実はそれだけじゃないですよね?」
「お前、言い直しても全然ましになってないからな?」
紅茶の代わりにポケットから出した飴を渡し、ついでに早急に確認をして欲しい書類を十二件ほど執務机に置いた。
「相変わらず失礼な奴だな」とぶつぶつ言いながらもざっと書類に目を通し、王弟殿下はサインをしていく。途中、「おい、通しても良いがここの予算だけ軽く確認させとけ、詰めが甘い」などと言いながら三件はじいた。
王弟殿下はその無茶苦茶な言動のせいで誤解されがちだが、決して無能ではない。
「んで、なんだっけ?嫌がらせに別の理由があるのか、だったか?」
つけペンの先を洗浄用の瓶で洗いひょいとペン立てに投げ入れると、王弟殿下が伸びをしながら言った。ペンが傷むのでできれば止めていただきたいが、以前はインクが付いたまま執務机に転がしてべちゃべちゃにしていたので、洗って片づけるようになっただけましだとベンジャミンは思うようにしている。
「そうです。というかそもそも、何でそんなにポール卿が気に食わないんです?」
ポーリーンは家柄以外、どれをとっても非常に優秀だとベンジャミンは思っている。家柄だって子爵家とは言えファーバー子爵家は非常に安定した領地運営を続けており、決して悪くはない。
剣の腕は言うまでもないし人徳もある。容姿も派手なわけではないが整っており、爽やかで知的な印象を受ける。
何より、口数と表情筋の動きは少ないがその性格は実直で情に厚く、忠誠心も強い。ギャンブルもしないし酒で失敗した話も聞かない。ついでに浮いた話も全く聞かなかった。
一体全体、ポーリーンの何が駄目なのか。まさか本気でアンソニーを自分のものだと思って取られるのが嫌で…などという世間一般の噂話の通りだとはベンジャミンは思っていない。思いたくもない。
「面白くないだろう」
「は?」
王弟殿下が心底面白くなさそうに言って包みを乱暴にはがし、飴を口に放り込んだ。今日の飴はつい最近流行り出したバタースコッチという、バターと生クリームと砂糖を煮詰めて固めた甘く濃厚なものだ。
口の中で飴をころころと転がしていると、徐々に表情が明るくなる。気に入ったようだ。
「ポール卿は、馬鹿が付くほど真面目で面白くない。アニーはねじ曲がり過ぎて三周回って真っ直ぐに見えてるだけで、見ていて面白いが癖が強い。…どう考えたってポール卿が苦労するだろう」
言いながら王弟殿下がベンジャミンに向かって右手を突き出した。もうひとつ寄こせということだろう。ベンジャミンはポケットからもう一粒出して手に乗せてやった。
「気づかず結婚するくらいなら、アニーともっと話して、アニーに頼って、アニーがどんなやつなのか少しは知ってから結婚する方がましだと思ったんだよ…」
王弟殿下が嬉しそうに包みを開けようとしてぴたりと止まり、いそいそと執務机の上の装飾の美しい小さな陶器の蓋つきの器に入れた。そうしてまた嬉しそうに器をコンッ、と指ではじいた。そんなに好きなら帰りにまた買いに行こう、とベンジャミンは今日の予定に菓子屋訪問を追加した。
「つまり、ポール卿を心配したんですね」
「違う。夫婦になった後にこじれることを心配したんだよ」
アニーがまたねじ曲がるだろう…と執務机の上に腕を組み、王族らしく整った顔を乗せてため息を吐いた。
「アニーは、ポール卿と婚約してから明るくなった。五周くらいねじ曲がってたのが、少しほぐれてちゃんと笑うようになった。あの良くできた作り笑いも面白いが、あのアニーが楽しそうに思い出し笑いをして頬を染めるなんてそれまでなら絶対ありえなくて、貴重過ぎて、もっと面白い。―――だから」
王弟殿下が痛ましいものを見るように扉を見た。じっと見つめ、そうしてため息を吐くと顔を伏せて言った。
「アニーが我慢してまで自分を隠してポール卿を繋ぎとめようとするのも、ポール卿が結婚してから本当のアニーに気づいてこじれるのも、嫌だったんだよ」
―――そんなの、面白くねーじゃねーか。
腕の中に隠れた顔からもごもごと声が聞こえた。基準が『面白い』なのがどうかとは思うが、そんなところだろうとベンジャミンは思っていた。根は悪い人間ではないのだ。繰り返すようだが。
「まぁ、それで逆にこじらせましたけどね」
「傷口に塩を塗らなくてもいいだろお前」
がばりと顔を上げると泣きそうな顔で王弟殿下が言った。
あの王妃殿下に窘められた幼い日以来、王弟殿下は自分の言葉や行動について考えるようになった。王と王妃である両親に構ってもらえない寂しさや、兄王子と比べられることへの嫌悪でひねくれてはいたが、そもそもの心根が優しいのだ。
実は王弟殿下は、王妃殿下が蛙を好きなことを知っていた。あの日うっかりと傷つけそうになった小さな蛙は、彼が朝から探した中で一番きれいな蛙だったのだ。
叔母が言っていた。不器用で、少しずれているせいで勘違いされがちだけど、とても優しくて賢い王子様なのよ、と。
だからきっと今回もそうだと思ったのだ。この王弟殿下が本当にただ気に入らないだけで何かをする人ではないと、王弟殿下を側で支える人間なら誰でも知っている。思考が斜め上なのと『面白い』が優先なせいでトラブルになりがちなのは否めないが…。
そしてそれは、ちゃんとアンソニーも分かっていることだ。だからこそ、アンソニーは他の誰でもない、王弟殿下の秘書官になることを選んだのだから。
今日の視線は氷点下だったが、きっと数日もすればまた何事もなかったようにこの部屋で王弟殿下に駄目出しをするのだろう。アンソニーの駄目出しは、ちょっとした愛情表現だとベンジャミンは思っている。
「まぁ、結果的には良かったんじゃないです?今日でポール卿もアニーのことが少しわかったでしょう。…結婚しちゃった後ですが」
「なぁ、普通、御璽押させるか…?」
「まぁ、アニーですからね。やるかやらないかなら、やるでしょうね」
「あー…絶対兄上も、義姉上に絞られてる…」
王弟殿下が両手で顔を覆って天を仰いだ。今もこの兄弟にとって王妃殿下は完全に頭が上がらない、絶対的な存在だ。王妃殿下は普段穏やかな上に決して理不尽を言わないと分かっているからこそ、叱られるときは大いに響く。
ベンジャミンやアンソニーのような王弟殿下の側近にも気軽に声をかけてくださる王妃殿下は、実に国母に相応しい知性と品性とバランス感覚を持った人だとベンジャミンは思う。それに―――。
「そろそろ見合いの話も混ぜてくるでしょうね」
国王陛下と王妃殿下の間には九歳の王子殿下と六歳の王女殿下がいらっしゃる。ちなみに、国王陛下と王弟殿下にはおひとり、年の離れた妹姫もいらっしゃる。現在の王族は先王ご夫妻と先王の弟も含めこの九名だ。
そして、この度王子殿下が十歳を迎えられるのと合わせてめでたく立太子することが決まっている。王女殿下もいらっしゃるため、これにて『王のスペア』だった王弟殿下の役目も終わる。
これまでは、継承権争いが起きないようにと王弟殿下は王子の立太子までは結婚しないと宣言してきた。その前提が覆される。今年で三十一歳になる王弟殿下には降るような縁談が国内外から届いているのだ。
「あー…見合いなぁ…」
王弟殿下が遠い目をしている。そろそろ逃げ切れないことは本人が一番分かっているのだろう。ベンジャミンもできる限りかばいたいとは思っているが、そろそろ潮時だとも思っている。
「陛下も王妃殿下も立太子前に結婚して構わないとずっと仰っていましたからね。そろそろ…潮時ですよ」
「そうだな。潮時、だな」
王弟殿下が淡く微笑む。そうして執務机にこっそりと置かれた小さなぬいぐるみを見た。そのぬいぐるみは幼いころ、国王陛下と王弟殿下に王妃殿下から贈られたお揃いの蛙のぬいぐるみだった。贈られた国王陛下の顔が引きつっていたとは、叔母の談だ。
こんこんこん、とノックが響く。誰何をすると王妃殿下の侍女だった。「入れ」と王弟殿下が促すと、外で控えていた護衛の騎士がドアを開け、侍女を部屋へ通す。
「王妃殿下より、お茶会の招待状をお持ちいたしました」
お手本のようなカーテシーをして侍女が差し出した招待状をベンジャミンが丁重に受け取る。そうしてそのまま恭しく両手で持つと王弟殿下へ渡した。
「義姉上には必ず伺うとお伝えしてくれ」
王弟殿下がうなずくと、「畏まりました」と侍女はまた美しいカーテシーをして帰っていった。
「あー…来たなー…」
「とりあえず、手土産はバタースコッチで良いですかね?」
「ついでに俺と兄上にも一袋ずつ頼む」
ちょっとくらい慰めになるといいんだが…言いながら王弟殿下がバタースコッチの入った器をつつく。全く性格の違う兄弟だが、好きな食べ物は割と同じなのだ。大変残念なことに、女性の好みも。
再度ため息をつき「お前はここに残れ」と言う王弟殿下にベンジャミンは笑った。
「行きますよ、私も。今回も一緒に絞られて差し上げますよ、レオ」
「…そーかよ」
お前も馬鹿だよなぁ、と王弟殿下は呆れたように言い、やっぱりお前は面白いよと照れくさそうにはにかんだ。