「阿弥陀胸割」諸本の紹介と合戦場面のこと
「阿弥陀胸割」は慶長十九年(1614)の上演記録のある人形浄瑠璃草創期の作品。このころ「十二段草紙(浄瑠璃姫物語)」や「牛王姫」(この二作はどちらも源義経とその恋人をめぐる物語)などと並んで身分の上下問わず幅広い人気を博した物語であったようです。慶長十九年といえばその年の末には大坂冬の陣があった年ですから、家康とかも見てたかもしれないですね。
本作での親の菩提を弔うために子供が身を売るというテーマは、謡曲「自然居士」や説経「松浦長者」にもみられ、主人公の姉弟のキャラクター造形(弟を守り我が身を犠牲にする姉)は「山椒太夫」の安寿と厨子王ともよく似ています。
人の生き肝(多くは特定の日時の生まれの女性のもの)により病が平癒するという趣向は本作独自の要素といえますが、これはその後さまざまな作品に引き継がれ取り入れられていきます。有名なところでは文楽/歌舞伎の演目の「摂州合邦辻」など。
また、「代受苦により血を流す神」というビジュアルイメージには、キリスト教劇からの影響も指摘されています。
(一応この物語の舞台は天竺ですが、当時の日本人の想像力の範囲内のなんちゃってインドですね……いわゆる「なろう式ヨーロッパ世界=ナーロッパ」の先駆けと思えば「小説家になろう」に掲載するにふさわしい作品と言えなくもない?)
【参考にした「阿弥陀胸割」諸本について――古浄瑠璃系と説経系】
ところで、「阿弥陀胸割」の現存する諸本は「古浄瑠璃系」と「説経系」に分類されていますが、この作品がもともと古浄瑠璃なのか説経節なのかは議論があるようです(ので、本作ではとりあえず「説経浄瑠璃」ということにしてお茶を濁しております・笑)。しかしそもそも浄瑠璃と説経節のちがいとは? というところですね。
説経節は中世末から江戸時代初期に盛んにおこなわれた語り物文芸で、主に神仏の霊験譚を語るもの。浄瑠璃は義経と浄瑠璃姫の恋物語をその名の由来とし、これもやはり神仏霊験譚もしばしば語られたものですが、やがて三味線の伴奏とともに人形芝居として発展していったものです。
・本の体裁が浄瑠璃正本は上下の二分冊、説経正本は上中下の三分冊である
・説経は語りの形式として本地物の形をとる(神仏の由来譚を語る唱導的な形式句がある)
・説経では「いたはしや」の多用、「~てに」などの独特の語法がよくつかわれる
といった点で区別されているようですが、「阿弥陀胸割」は時代的にも未分化な状態の作品のようです。
なお、現在確認されている「阿弥陀胸割」のテキストは以下の通り。
〈古浄瑠璃系〉
(一)、「むねわり」中本。さうしや賀兵衛版(『古浄瑠璃正本集』第二)…慶安四年(1651)
〈説経系〉
(二)、「阿弥陀胸割」半紙本。天満八太夫正本。鱗形屋孫兵衛版(『説経正本集』第三)…宝永(1704~1711)初めごろ
(三)、「阿弥陀胸割」中本。天満八太夫正本。村田屋版(『説経浄瑠璃集』二)…元禄(1688~1704)末?
(四)、「阿弥陀胸割」村田屋開版(『徳川文芸類聚』八)…享保六年(1721)
(五)(六)、「阿弥陀胸割」西村屋版、二種類(翻刻なしにつき未確認)…享保十年?(1725)/文化年間(1804~1818)
(七)、「阿弥陀胸割」古活字本(『中近世語り物文芸の研究』)…慶長(1596~1615)末から元和年間(1615~1624)
古浄瑠璃系(一)、説経系(二)~(六)ともに、多少の異同はありつつも、共通するところが多く、同じ本からの派生と考えられます。もっとも古いテキストである(七)の古活字本は(本地物の形式をとっていることから説経系だと思われるが)その他のものと比べて内容がより詳しく、語り方にも若干異なる部分があり、別系統っぽい。詳しいうえに描写が好みだったので、当翻訳はこの本をもとにしています。
【三段目の合戦場面について】
(二)~(六)の説経系の本では、(一)の浄瑠璃系にはない要素として、合戦の場面が含まれています。源太兵衛の家臣花月の二郎と、大まん長者の家臣せいがんの左馬之助、とうぼくの右馬之允らの戦いが、松若の病の原因とされているのです。
合戦場面のあるバージョンとないバージョンのどちらがより古いか(つまり合戦場面は後世に増補されたものか、もとからあったものなのか)議論されています。
合戦場面が含まれるものは初期の説経には少なく、時代が下ってから追加された例も見られる(「小栗判官」など)ため、合戦シーンは後の増補で余計なものであると見る向きがあったのですが、「阿弥陀胸割」の復原に取り組んだ信多純一氏は(一)さうしや賀兵衛版「むねわり」に先行する原本には合戦場面が含まれていたと予想しました。
さらに信多氏は、若松の病が二郎の怨念によるものという因果関係が示される戦闘場面は後補された余計な部分ではなく、物語の重要な要素だと指摘しています。
ところがその後、90年代になって新発見史料が出てきました。本翻訳の底本にした(七)古活字本ですね。
これは慶長末から元和のころもので現存最古のものと考えられますが、御覧の通りこれには合戦場面はふくまれていないわけです。あらたいへん。順番としては、やっぱり合戦場面なしが本来の姿だったかも……?
もちろん、物語として楽しむ上ではどちらが正しいということもないでしょう(バリエーション多いほうが楽しいし)。
松若の病の理由づけとして戦闘場面を必要な要素として解釈するのもアリ。しかし、合戦場面がなくてはおかしいということもないと思うんですよね。
古活字本では松若が病気にかかったのが七歳の春からであるとはっきり書かれてありますが(ほかの版ではいつから病に臥せっているのか曖昧になっている)、これはちょうど天寿姫が両親を亡くしたのと同時期にあたります。かんし兵衛夫婦とその家中の者が仏罰により全滅する中で、お釈迦様が二人の子供だけを助けたのは、まさに松若救済のためだったと読むことができます。
なぜ松若が病に罹ったのかは重要ではなく、むしろ天寿姫の苦難の理由の説明のために松若の病があるのだという解釈が成り立つ。この物語において、経験する困難に理由が必要な主人公はあくまでも天寿姫であるわけです。
七歳で両親と財産を失い、三世の諸仏に見放され、十二歳までむなしく月日を送った天寿姫と、七歳の春から重い病に罹り、三世の諸仏の因果を得て、十二歳までただいたずらに時を過ごした松若君、というのもはっきりと相似していますし、それは天寿がていれいについた(のちに真になる)嘘、「私の身の上はこのような人の御台所になるのに相応しい」という言葉にも対応します。
つまり二人はソウルメイト☆(古)的なアレというか……。
ちなみに、古活字本ではお釈迦様はただ「このきょうだいをばたすけおけ(姉弟の命は助けてやりなさい)」というだけですが、他の版だと「ちっと子細のあるあいだ、助けおけとおほせる(ちょっと思うところがあるから助けておきなさいと仰った)」というようなことが書いてあります。この「子細のある」というのが、実は松若のことだったんだな……というフラグになってると思うんですよ。
さらについでに言うと、古活字本以外の版での天寿姫は弟に「我/\の眉目姿も良きとて長者の嫁に取らせ給ひて万の宝を下されて候程に(私たちのルックスが良いものだから長者の嫁にしてもらって、財産もたくさん下さったのよ)」みたいなことを言っています。そんなわけあるか。ていれいくんのねーちゃんおもろいな(これはこれで好き)。
まあそういうわけで、古活字本、なかなかに完成度高いんじゃないかなーと思います。
えーーー、サラッと解説のつもりが微妙に専門的な話になってしまいましたが、もしご興味ありましたらコチラの論文↓をぜひどうぞ。100倍よくわかるので!
●和辻哲郎「阿弥陀の胸割」(『日本芸術史研究』第一巻所収)
●信多純一「『阿弥陀胸割』復原考」 ←合戦場面諸々についての詳しい研究はこれ
●粂汐里「『阿弥陀胸割』の成立背景―法会唱導との関わり」
●粂汐里『中近世語り物文芸の研究』 ←古活字本「阿弥陀胸割」の翻刻が載っています