第七錠 青天井の未来に向けて Ⅲ
愛がホルモン剤を調べて手配する傍ら、並行して進めるべきことがあった。
平たく言ってしまえば進路である。これまでの統一テストでは全て満点を叩き出してきたが、習い事を辞めることはできなかった。あまり勉強する様子もなく満点を取れるのだから、習い事を辞める必要はない、との解釈らしい。ならば、逆の手を取るしかない。どうしても学力をつけなくてはならない理由を作ること。それが当てはまるとしたら東大を目指すことだった。
とはいえ、愛は東大を狙えるほどの学力は持っていなかったし、東大でやりたいこともなかった。
前世では、高校一年になって間もなく病院と学校の往復が始まり、満足に勉強できる時間は季節を巡る度に減っていった。だから、小学3年生である今から東大を目指して勉強すれば、同年代に比べると多少のアドバンテージにはなるはずだ。また、それ以外にも東大を目指す理由はあった。親元を離れて生活するため、だ。遠藤家は大きいものの、地方都市に居を構えている。東大に通うには大学周辺にアパートを借りるか寮に入る必要がある。アルバイトもするだろうから、実家に帰るのは盆暮正月程度で済むはず、と目論んでいた。
また、学力向上を名目に高校からは全寮制の進学校に通うことも視野に入れていた。中学までは我慢して地元にいる。経済的に困っていないとはいえ、育ての親に負担をかけすぎるのは良くないと考えたからだ。幸い、居住地から離れた地域にある全寮制の高校は見つけてあった。あとは詳細を調べ、しかるべき時に受験の話をすればいい。そのためにもまず、東大を目指していることを親に意識させる必要があった。
部屋の時計に目をやると、母の仕事が終わっている時間を指していた。
(今しかチャンスはない)
葵は階段を降り、声を絞り出す。
「ねぇ、お母さん」
「ん、どうしたの葵」
父がいないリビングで1人お茶をする母に話しかける。テーブルには買ってきた焼き菓子と紅茶のセットが置かれている。
昔はホットケーキよく焼いたのに。そんな思い出が脳裏をかすめつつも、言葉を絞り出す。
「あのね、聞いてほしいことがあるの」
「何、急に改まっちゃって」
普段はこんな風に話しかけることはない。母は手にしていたノリタケのアルマンドと呼ばれるカップをソーサーへと戻す。長年愛用しているものだ。
「将来、東大に行きたいの」
「東大?どうしたの急に。テレビに影響受けたの?」
突拍子のない息子の言葉に驚くと共に、笑みが溢れるのが見てとれた。
東大というと落ちこぼれの高校生が合格を目指す漫画やドラマが、現役東大生と芸能人がクイズで勝負する番組が放送されていたため、今や子供でも知るほど認知度は高い。
「それもあるんだけど…東大って頭のいい人がいっぱい集まるんでしょ?先生も、生徒も。そこで色んなものを見て学びたいんだ」
「そっかあ、そういう風に考えてたのね。だからいつも勉強したいって、言ってたのね。お父さんが聞いたら喜ぶわねぇ。お母さんも、頑張らなくちゃ」
無意識に出た言葉なのだろう。だがその言葉で2度、胸にズシンと重いものを感じた。
一つ目は父が聞いたら喜ぶ、もう一つは母も頑張らなくてはという言葉。
前者は葵が目標を持ってくれたことよりも東大を目指すことで父が喜ぶという、父本意の考え方であること。後者は自分のために母の人生を犠牲にさせているという思いに申し訳ないと感じる自責の念からであった。
(そんなこと、言わないでよ)
母親が自らを犠牲にして子供のために尽くすことは、親としては喜びなのかもしれない。
だが葵の根幹にあるのは習い事を辞めたい、家を出たい、これは本当の家族ではないという愛情とは真逆の気持ちである。
それをわかっているからこそ、目の前の母に申し訳ない気持ちになる。1人、表情を変えないよう胸を痛めていた。
1日でも早く家を出よう。
離れれば、やりとりも無くなって偽りの家族を気にすることもなくなる。
しばらく、こんな思いをしなくて済む。葵も、共に暮らす両親も、お互いに。
こうして、事あるごとに葵の自己肯定感はさらに下がるのであった。