第四錠 行動開始
「前世の記憶」というものを信じていたわけではなかった。テレビの特番でやっていても、台本に沿ってるんじゃないの?と少し斜めに見ている節があった。
だが、こうして高校二年生の自身の記憶を持ち合わせて小学生の男の子に生まれ変わっている所を見ると、本当にあるのかもしれないと思い始めてしまう。無論、この話は誰にもしていない。話した所で信じてはもらえないだろうから。子供が興味を引こうと嘘をついている。親の愛情不足なんじゃないの?と余計な心配事を増やしてしまいかねない。
そういった懸念もあったが、話しても無駄だろうと彼女に思わせるには別な要因があった。家庭環境…その一言に尽きる。父親は地元では有名な起業家で、事業には成功しているようだった。その証拠に、家は持ち家の豪華な造りで、窓から見える庭の景観も庭師が綺麗に整えている。少し離れた電動シャッターのガレージには黒塗りの高級車が1台、妻が乗ると思われるコンパクトカーが一台。その横には中型車と見受けられるバイクが一台、あった。家の各所天井にはドーム型のセンサーが付き、玄関には有名なセキュリティ会社のステッカーも貼ってある。成功している分性格的には厳しい側面もあり、成功するためには心技体、どれか一つでも欠けてはダメで、全てを高次元で維持する必要があると考えていた。自らも心身を鍛えるために空手とスイミングを子供の頃から続けており、息子…もとい十七歳の女子高生が転生した姿の少年にも同じように行わせていた。知識の面でも抜かりはないようにと、幼稚園生でも学習塾にも通わせるくらいだ。最も、十七歳の記憶があるため幼稚園生がこなすような図形や簡単な数の問題などに悩む必要もなかったのだが、それなりにこなしていた。早く終わり皆正当であれば「神童だ」と見る目が変わってしまいかねないからだ。
また、所作にも厳しく箸の持ち方を始めとしたテーブルマナーや話し方、ドアの開閉方法といった細かい所まで指導が入る。ごく一般的な家庭で育った愛には、この所作までの指導を窮屈に感じていた。とはいえ守らなければ怒られ、正しいやり方に直される。できるようになるまで何度も。指導してくる本人にとっては日常的に行なっている事だからできて当たり前で「大きくなったときに困るし恥ずかしいから今から身につけておくんだ」と、指導にも熱がこもる。彼女はそんな日常に辟易としていた。
母親はというと、二人の時は優しいが父親を前にするとその指導に口を挟む事はなかった。恐らく、子育てについて口出ししても自分の意見が通らない事はこれまでに身を持って学んできたのだろう。反面、小さい頃から家にいて子煩悩という印象があった。幼稚園から帰れば絵本を読んでくれたり、一緒にホットケーキを焼いて食べたりした記憶もうっすらとある。買い物に出かければお菓子や食玩も買ってくれた。
だがそれでも、愛の記憶が戻ってからは他人としか認識できなかった。
向こうは無償の愛情を注いでくれているのに。男の子として育ててくれているのに、心は女の子…。何も考えずに、体の通り男の子として産みの母の愛情を受け取って応えられれば、お互いにこの上なく幸せな時間を過ごせただろう。だがそれでも、そうとは分かっていても、心の中の愛がそれを許容する事はできなかった。だから、愛の意識が戻ってからはどこかよそよそしい態度になってしまっていた。
母親もそれは感じ取っていたようだが、幼稚園が終わることや小学校入学という環境の変化に対する不安の表れなのではないか…と深刻には考えてはいなかった。一過性のものだから大丈夫、小学校に入って、お友達もできて日々を過ごせばまた元通りになる、と信じていた。
しかし、その願いは叶う事はなかった。小学生時代も、中学生時代も。同じ家で暮らしていれば日常の会話は必ず生じるので、遠藤葵としての自分を演じなければならない。家にいる事は、たとえ豪華で何不自由なくとも、ただいるだけで窮屈だった。家の中では遠藤葵の仮面被り、家の外でも誰かと会う時は同じように男として振る舞う。人は皆、遠藤葵として見て、男の子として接する。心の中の少女を見出すことはなく。愛の心を出せる場所は、なかった。
小学校に入る前…卒園式を迎えてから知った事だが、母は父の会社で働いていた。育児を優先するため時短でインターネットを介したリモートワークではあったが、愛の心に負い目を感じさせるには十分だった。
誰のために働いているのか。
父の事業のため?
家計を助けるため?
自身の生きがいとして?
様々な答えを模索するものの、最終的にたどり着く答えはいつも同じ。自分自身…葵のため、としか思えなかった。
胸が苦しかった。
愛情を知りつつも応えられないことにも、受け入れることが…気持ちに嘘をつくことができない自分自身にも。
だから、仕事中は極力迷惑をかけないよう、1人静かに部屋に篭っていた。時々様子を見にくるが、仕事中は長居をしない。小学校入学までの有り余る時間を、彼女は自身の記憶を整理するために使った。幸い、部屋には落書き帳や鉛筆、消しゴム、色鉛筆といった文房具に加えて子供向けの絵本が多数あった。それらを子供が遊んだかのように少し散らかし、ひたすら落書き帳へと記憶を綴っていた。正直、この記憶がいつまで続くかわからないという不安もあった。今日は大丈夫でも明日思い出せる保証はどこにもなかったからだ。だから、思い出せるうちにありったけの記憶を紙に書き込んだ。使い慣れた指先とは異なる短く小さな手。昔の感覚で書いても、思うようにうまく文字を綴ることができずもどかしかった。それでも日々、書き続けていった。自身のこと、前世の…もとい本当の家族や友達、よく聞いた音楽、好きだった場所、大切なもの…それらの詳細を、できるだけ丁寧に。自分自身の心を出せる、唯一の場所。たとえこの先、愛の記憶が薄れていっても、これを見ればまたあの頃を思い出せるように一文字ずつ、綴っていった。