第一錠 終わりからの始まり
某県某市。とある病院の一室はお昼前だというのに慌ただしい。五十代と思しき一人の医師が、何度も訪れた病室に足を運ぶ。それも、今日で最後になる。眼前には我が子の名を叫び、体をゆする両親の姿があった。
「失礼します」
医師の一言に両親は我に返り、医師を見つめる。救いを求める眼差し。両親は一縷の望みにかけて静かに言葉を待つ。
「残念ですが、ご臨終です」
医師はライトを消して少女の目をそっと閉じる。もう、自力では閉じることができないがために。
「十一時五十二分。本当に、残念です」
腕時計から視線を上げ、傍に佇む両親を見据える。
「娘さんもご両親も、よく頑張りました。最後を温かく見守ってもらえて、幸せだったと思います」
医師はチラリと横たわる少女に目をやり、窓の外を眺める。
「長く、生きた方だと思います。当初の見立てより、一年も長く生きられましたから」
だがその言葉は、両親には届いてはいなかった。
母親は泣き崩れ、父親は項垂れ、肩を震わせている。
「後ほど、看護師が今後の説明に来ます。私も、本当に残念でなりません。では…」
そう告げると、医師は病室を後にする。長年担当してきたのだろう、彼もまた唇を固く結び、何かを堪えているかのようだった。
泣き崩れた母は娘の名前を叫び、二度と目の覚めることのないその体を抱いた。
父は温もりのまだ残る娘の手を取り、溢れ出る涙を抑えようと唇を噛み締めていた。だが、どれほど堪えようと、涙を流そうと少女が息を吹き返すことはない。
段々と失われていく温もりを、娘の手の感触を忘れまいと握る手には力がこもる。
生後間もない頃、反射的に握り返してくれた小さな手。指一本をようやく握ることができた小さな手は、父より少し小さいくらいに大きくなっていた。
初めて立った時、幼稚園の入園や日々の登園、学生生活、家族での旅行…幼い頃から繋いできた思い出とその手はもう、握り返すこともなくただただ現実を突きつけてきた。
医師に呼ばれた看護師は、病室の入り口で声をかけられずに立ち尽くすしかなかった。彼女もまた、少女とその家族を見続けてきた一人だ。名札には矢板桜子とある。彼女もまた胸の痛みを抑えることができなかった。
患者に感情移入してはいけない、深い仲にはならない方がいいと先輩から教わってきた。とはいえ、一年以上も共に過ごせば情だって移る。ましてや新米の彼女がずっと担当してきたのだ。自身もそうだが患者とその家族が仲睦まじい様子を見ていればなおさらのこと。叶うことなら無事に退院して、もう戻って来ないでほしい。そう、願っていた。
このような形を迎えたことは不本意だが、ここは病院。似た光景は何度も見てきた。
だから、今自分がすべきことは共に悲しむことではない。残された家族にどう前を向いてもらうか。
そのためには残酷だが現実を受け入れてもらうしかなかった。
「失礼します。この度は…」
努めて感情を押し殺し、決まり文句を切り出す。
そうでもしないと、「仕事」をしないと何も先へは進めない。
この家族も、自分自身も。
窓の外は灰をぶちまけたような空で、今季一番の寒気が来ているとのこと。
今にも雪が降り出しそうだった。
道行く人もまばらで通りもひっそりとしている。まるで、この家族のために全ての喧騒が止んだかのように。