プロローグ 愛の思い出
雲ひとつなく月明かりが辺りを照らす日のこと。夜の街は鈴虫の演奏があちこちから聞こえていた。
とある病室の一角から月ではなく人工の光が漏れている。当直の看護師は巡回の最中、その部屋へと立ち寄る。もう、何度目のことかわからない。
「こんばんは、愛ちゃん。眠れないの?」
「あ、桜子さん。こんばんは。…はい、眠れなくて」
桜子と呼ばれた看護師はベッドで書き物をする少女に寄り添う。
「また日記書いてるの?」
「はい。眠れない時はこうして想いを綴ってるんです。なんだか、1人だし静かだし、色々考え込んじゃって」
「そうなの?どれどれ…」
「ちょ、見ないでくださいよ〜」
愛と呼ばれた少女は細い両腕と体で日記覆い隠すように体を寄せる。
「大丈夫、見ないから。でももう12時過ぎたし、あんまり起きてるのも良くないわよ?」
「そうですよね。もうちょっと書いたら寝ます」
「うん、わかった。それじゃ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
桜子はにこやかに愛に手を振って病室を後にする。愛もそれに応えるよう笑顔で手を振りかえしていた。だが、部屋を出た所で桜子の表情は険しくなる。彼女の体がどういう状態か、これまでの1年でよくわかっていたからだ。
愛は入院中、日記をつけていた。日々の経過を記録することはもちろん、自分の想いを伝えるためだった。桜子の足音が遠くなったことを確認し、日記の続きを書き上げていく。
眠るのが、怖い。
寝て、目が覚めなかったらと思うと怖くてたまらない。
目が覚めなかったら、きっとママやパパに悲しい思いをさせてしまう。
目が覚めなかったら、私のいない毎日が始まる。
何事もなく世界は回るけど、パパは、ママは、友達は…私との繋がりがなくなってしまう。
とんでもない親不孝者だよね。
私は、誰も悲しませたくないけど、あと何年…あと何日生きられるかわからない。だから、1日でも長く。少しでも大切な人との時間をたくさん持ちたい。
水原愛。
彼女が初めて病院を訪れたのは高校1年の夏休み前のこと。体調に異変をおぼえての受診だった。
先ほど話した桜子はその頃から担当している看護師だ。愛が高校生になった年に看護師として勤め始めた。
検査の日は採血や事前問診で、入院時には日中の検温や食事の配膳、夜の巡回時には話し相手となっていた。
年齢も近く、顔を合わせる度に2人の距離は近くなっていった。
あの日…愛は昨夜にも続いて朝から日記を書いていた。書かずにはいられない衝動に駆られていた。この胸の内に秘めた想いを、誰にも言えないがために。
この日記を読んでいる人へ。
あなたは、「誰かの人生と入れ替わりたい」そう思ったことはありますか。
もっとお金があれば、
顔が綺麗だったら、
背が高ければ、
健康な体であれば、
この病気がなければ、
異性の体で生まれていれば…。
人により、願いや思いは様々だと思います。
だけど、私は「誰かと入れ替わりたい」と思ったことはありません。
例え、病気で長く生きられなかったとしても。
今のパパ、ママ、友達、住んでいる町…
そのどれもが大切で、何も失いたくない。
みんなみんな、私にとって大切な…大好きな存在。
誰かの人生に乗り移ってまで生きて、この世界に存在し続けたくない。
だって、「誰かの人生」になった瞬間、私の大切なものとの関係は、全て途絶えてしまうのだから。
そんな世界にただ1人生きたって、価値はない。
だから、今を、
毎日を大切にしたい。
この日記は程なくして両親の目に触れる事となる。だが、愛の思いについて、両親の応えが彼女に届くことはなかった。