魔王の職場放棄
「勝負あり! 勝者、アルベル様!」
審判の宣言がなされた。
対戦者である魔王だった男の胸に刺さる剣。
勝った。奇跡が起きた。
観客席から、地鳴りのような声援が湧き上がる。
当然だろう。百数十年ぶりの魔王交代がなされたのだから。
危なかった。
魔王の無尽蔵とも言える魔法攻撃、一瞬たりとも気の抜けない闘いだった。
勝てたのは、たまたまだったのかもしれない。
だが、勝ちは勝ち。これで、念願の魔王就任だ。
よろけて尻餅をつき、そのまま闘技場に寝転んだ。
拳を上げる。
観客の声援がまた沸き起こった。
医療班が魔王であった男、サリスオンのもとに駆け付ける。
剣が刺さっているとはいえ、さすがに魔王である。命に別状はないようだ。
人属の勇者だけが持つという伝説の剣でもなければ、魔王になるほどの強者を殺すことはできない。
「見事だ、アルベル。儂の負けだ」
治療魔法を少し受けただけで、よろよろ立ち上がり、サリスオンが握手を求める手を差し出した。
その目は穏やかなものだった。
潔し。
憧れ、目標にしていた偉大な魔王サリスオン。負けて魔王の職を辞するとも、アルベルにとっては変わらず偉大な大魔王であった。
立ち上がり、握手に応える。
言葉が出ない。
会場は大きな拍手に包まれた。
辛く悲しい修行時代を思い出していた。
魔族にとって、強さこそが価値だ。父親は価値のない人魔族の一人として、辺境の村から出ることができなかった。
だから、息子に夢を託した。
血豆が潰れて血だらけになった手で、剣を振らされた。
気絶するまで、連続魔法を発動させられた。
耐性をつけるために、毒性のあるものを食べ、火の輪をくぐり、氷のベッドで寝かされた。
いや、父の夢だけではない。
自分自身も強さに憧れていた。数十年に一度の闘技大会で、いい成績を残せれば魔王国の貴族になれる。そして、優勝。魔王に挑戦した。
魔族の民で一番強いものが魔王となる。
単純明快なルールに従い、王宮の『魔王職務室』から眼下に広がる王都を眺めていた。
今見えるもの全て、いや、魔族領全てが自分のものとなった。
辺境の村で生まれたただの人魔族の男が、一日にして全てを手に入れた。
ノックの音が響いて、我に返る。
「ど、どうぞ」
少しどもってしまった。魔王になったのだから、もっと威厳のある返事をした方が良かったかもしれない。「どうぞ」より「入れ!」が正しかったか?
扉を開けて入ってきたのは、背が高く細身の人魔族の男であった。戦闘能力は低そうだが、頭は切れそうな印象を受ける。
「アルベル様、魔王就任おめでとうございます」
「う、うん」
「わたくし、前魔王サリスオン様のもとで第一秘書をしていたカルスというものでございます」
秘書? ああ、魔王職務の手助け担当だったかな?
「そうか」
「……」
「……」
で? なに?
「アルベル様に異存がなければ、このまま魔王秘書として働きたいと存じますが……」
ああ、そういうことね。
「そうね、頼みます」
「任命していただけるということでしょうか?」
「ああ、任命します」
「ありがとうございます」
カルスが深々とお辞儀をしたので、俺もつられてお辞儀してしまった。
こういう時はどうするのだろう? 胸を張って、「うむ」とか言っていればいいのだろうか?
「よし、持ってきて」
カルスが扉の方に声を掛けると、メイド服の女性が次々と書類の束を持って机に並べていく。
なんだ? 何が始まる?
「アルベル様の魔王就任により様々な権利、義務、命令系統の変更に基づく書類と、闘技大会の結果に基づく貴族系統の変更に関する書類です。私の方で、慣例に従って作成しましたので、確認していただき、問題なければサインをお願いいたします」
「……え? これ全部?」
「はい。明日の魔王就任式に必要なものですので、今日中にお願いいたします」
書類の一枚を手に取って眺める。知らない単語や難しい言い回しに、全く理解できない文章が続く。
「ちょっと待て。俺が魔王になったのは昨日のことだぞ。なんで、こんなにたくさんの書類がある?」
「徹夜いたしました」
嘘だろ。魔王交代が決まってから、まだ丸一日も経っていないぞ。
「それに、お前を秘書に任命したのは、ついさっきだ。もし、任命しなかったら、どうするつもりだ?」
「無駄にならずに、良かったです」
おいおい、笑顔だぞ。
恐ろしい。このカルスという男、なんか怖い。
「……」
「……」
はいはい。やればいいんでしょ、やれば……。
机に向かい、書類の文字を追う。内容はわからんが、とりあえず読んでいるふりだけし、サインをした。これが魔王としての初仕事。
「この者たちを待機させておきますので、書類の不備等がございましたら、何なりとお申し付けください」
カルスが退出していく。残された無表情のメイドたちは、壁際に整列して立っていた。
絶対、見張り要員だよな。
ため息をつきながら、また一枚の書類にサインをする。
おかしい。なんで、俺はこんなことしている?
魔王就任してから、二週間が経つ。ほぼ、一日のルーティンは決まってきた。
午前中は、黒い仰々しい鎧を身に包み、城の最上階のベランダから、塀の向こうに集まる国民に向けて手を振る仕事。
「カルス」
「何でございましょう。魔王様」
目線を下げずに、となりに控える秘書に声を掛ける。
「ほぼ、毎日こんな事をしているが、何の意味がある?」
「国民の希望に応えるのは、魔王様にとって、何より大事な仕事でございます」
「希望?」
どんな希望だと言うのだ?
「就任された魔王様に一目会いたいと、こうして国民が集まってきております。中には、遠くから来ておる者もございます。生活費を切り詰め、交通費や宿代を捻出して来てくれた者の希望に応えることは、魔王様の責務だと存じます」
まあ、そうかもしれない。国民なくしては、王国など成り立たない。軽くない税金、兵役の義務などを考えれば、この程度の面倒も致し方ないだろう。だが……。
「魔王の顔など、そんなに見たいか?」
「もちろんでございます。我々、魔族の頂点であらせられるお方のご尊顔を見たくない者などおりません」
魔王に憧れていたのは、俺もそうだった。だが、憧れたのはその強さ。人族で一番強いと言われていた男との一騎打ちを受ける度量。そして、伝説的な戦いを経ての勝利。サリスオンに憧れたのは、そういうところだ。
強くなって挑んでみたいとは思ったが、顔を見たいとは思ったことがない。
「だいたい、あんなに遠くては、俺の顔など見れないだろう」
こちらからでも豆粒ほどの群衆が見える程度で、性別や年齢さえも判別がつかない。
「それくらいがいいのです。見えそうで見えない。魔王様のご威光を示す最適な距離感となります」
「……そんなもんかね」
よくわからないが、長年魔王の秘書をやってきたカルスが言うのだから、おとなしく従うしかない。
午後からは会議になることが多い。
貴族からの提出された議題は様々であるが、だいたい自分の利益を少しでも増やそうとするものばかりでうんざりする。
「竜魔族の少子高齢化は深刻なものでございます。働き手の少ない我が領地の税率を幾ばくか下げていただくことは、当然の主張でありましょう」
「それはおかしいでしょう。竜魔族の出生率の低さは、今に始まったことではない。長寿の種族なのだから、それで労働力が少ないなど認められるものではありません」
「しかし、我々の種族は魔族の中でも戦闘力の高いものが多い。人族との戦争ともなれば、一番活躍できる我々を人魔族と同じ扱いというわけには……」
「人魔族を愚弄することは、魔王様を愚弄することと同義だぞ」
「いえ、なにもそのようなことを言っているのではなく、あくまでも労働力の話で……」
「まあ、労働力を確保したいというのは、竜魔族に限らず、魔族全体の話でありますから」
「そうですな。やはり、奴隷を確保し、安価な労働力として使うためにも、人族との戦争をそろそろ考える時期かと……」
いつもこうなる。
様々な議題が上がり、どのような話し合いになろうとも、最後は人族との戦争の話になる。
食料不足の話では、人族の領土には豊かな土地があるから戦争をしよう。
天災の復興予算の話で、人族と戦争をしよう。
医師や薬師不足問題で、人族と戦争をしよう。
なんでもかんでも、人族との戦争へと話は変わる。そして、貴族どもの視線が俺に向けられる。
どいつもこいつも、なぜそんなに戦争をしたいのか?
俺自身は、そんなに戦争したければすればいいという考えであるが、カルスからは「絶対に、駄目です」と言い含められている。
人族は個人の戦闘力は低くとも、集団になれば強いのだそうだ。
武器や兵器の開発に優れ、扱いも巧み。また、時折、勇者のような強者も生まれる。負けはしないまでも、魔王国の損害が甚大になることは明白だと言われた。
そんなものなのだろうかと思う。
個人が強いなら、集団でも魔王軍が圧倒するような気がするのだが、歴史的な事実ということらしい。
人族はともかく、魔族の国民が無駄に死ぬのは忍びない。というわけで、カルスの言うことをきくことにしている。
「人族との戦争は、まだその時期ではない」
この台詞もカルスからの指示だ。
戦争はダメだと言うと、血気盛んな賛成派の不満を招く。だから、こういう言い方をするのだそうだ。
よくわからないが、いつもこの結論になる会議って、必要なことなのだろうかと思う。
夜はパーティー形式の食事会だ。
貴族たちとの親睦を深めるためなのだという。
俺自身はあまり貴族たちと仲良くなる必要性を感じない。食事は必要な栄養を取れればいいし、酒を飲むメリットもわからない。
これも、カルスの指示に従っているだけだ。
食事が終われば、書類仕事。
よくわからない書類に、カルスの言われるままにサインする。
その後は、勉強だ。
強くなることを最優先にしてきた俺には、これが最も辛い。
国語、算数、理科、社会……。
「なあ、カルス。納得いかないんだが、質問していいか?」
算数の問題を解くペンを止め、傍らで書類を作成している秘書に声を掛ける。
「はい、どの問題でしょう?」
「いや、この足し算のことではなく、別のことなんだが……」
カルスが眉を寄せる。
「俺は魔族の中で一番強い。だから、魔王になった」
「はい。そうでございます」
「魔力を蓄え、身体を鍛え、剣術にいそしんだ。人生をすべてかけて、強くなった」
「そうでございますね。その努力が実を結び、アルベル様は魔王となり、全てを手に入れたのでございます」
「ならばなぜ、こんな強さとは関係ないことをしている?」
「……」
魔王になってから、魔力を使うことも、剣を握ることもしていない。これでは、弱くなるばかりだ。
「国民に手を振ることも、会議に出ることも、パーティー、サイン、勉強……俺がやる必要あるのか?」
カルスは幼子を諭すような笑みを浮かべる。
「もちろん、魔王様にしかできない仕事でございます」
予想通りの答えだ。
さすがに二週間、同じ時を過ごせば、この秘書の受け答えの予想はつく。不満を漏らしても、結局、俺の言い分が通ることはなく、カルスの言うがままにさせられていることになる。
それはいい。いや、良くないけど、仕方がない。魔王としての振舞いなど、俺には分からない。カルスが俺のために尽くしてくれているのは分かるし、いい奴だと思う。俺自身も睡眠時間は少ないが、カルスはほとんど寝てないのではないかと思う。
だが、それでも納得できないことはある。
「なぜ、俺の嫁を俺が決められないのだ?」
魔王は魔族のなかで最大の権力者である。
だが、そうであっても変えることができない伝統というものがあり、覆すことはできないのだそうだ。
魔族の中で一番の強者が魔王になる。それも覆せない伝統のひとつ。
まあ、そのおかげで俺も魔王になることができたので、仕方ない。
そんな伝統の中の一つに、魔王の配偶者としての取り決めがある。
魔王が男性であった場合、その妻は女性で一番の強者でなければならない。もちろん、女性の魔王である場合は、男性で最強の者になる。
「魔王様が魔族最強であらせられるのと同じ理由でございます。魔王妃様も同じく最も強い女性でなければなりません」
「もし、俺がすでに妻をとっていたらどうなるのだ」
「それはその奥方が魔王妃として認められます」
「それなら、別に強い者でなくでも良いだろう」
「今の魔王様は独身であらせられます。慣例に従い、魔王妃選出のための闘技大会にて、優勝した者が魔王様の伴侶となります」
くだらん伝統だ。魔王になって、初めて知った。
魔王になるために、全てをかけて鍛えてきた。もちろん、色恋などに現を抜かす暇などなかった。
結婚など、出来たはずがない。
俺にも、事が済めば妻に迎えたいと思える女がいる。
実家の隣に住む同い年のエミリーだ。
ほとんど話もしたことがないが、目が大きくてかわいい娘だった。
俺が修行をしている森や山について来ては、陰で覗くような大人しい性格だった。
俺のことを好いてくれているだろうことは分かっていたし、声も掛けたかったが我慢した。そんなことに心を揺さぶられている場合ではない。今はただ強くなることだけに集中したかった。
だが、もう目標は果たせた。
いつでも迎えに行ける。そう、思っていたのに。
「闘技大会は明日からでございます。魔王国民全てが注目して、待ち望んでおります」
「……」
結局は、そういうことだ。
国民の希望があるから、魔王はそれに応えましょう。
円滑に魔王国を運営するための責務だということだ。
嬉しそうに笑う秘書に、なにも言い返せない。
どうせ、竜魔族の大柄な女か、肥満で醜い獣魔族の女が優勝するに決まっている。
俺の好みは小柄で大人しい感じの女だ。
ベッドに入り目をつぶると、瞼にエミリーの姿が浮かぶ。
愛おしい。
せつない。
どうしても、会いたい。
俺はこんなにも、一人の女性を想っていたことに気付いた。
もう、やめだ。
魔王などという役職などいらない。
逃げよう。
静かにベッドを抜け、地味な服に着替える。剣なども欲しいところではあるが、あいにくここにあるのは派手な装飾の大剣しかない。こんなものを持ち歩けば、魔王だとばれる可能性がある。
お金もここにはない。カバンの一つもないから、持っていけるものもほとんどない。
まあいい。この身ひとつで充分だ。
窓を開け、下を見下ろす。
地面からは遠いが、風魔法を使えば下りられるだろう。
音をたてないように、静かに飛び降りる。
すばやく、木の陰にひそむ。気配がない。大丈夫だ。バレてない。
意識を集中しながら、塀まで移動し、飛び越える。
周りに人の気配はない。
成功だ。逃げ出せた。
とりあえず、少しでも距離を稼ぐ。
俺は、まだ暗い王都の街を駆けだしていた。
となり街の道を歩くころには、人通りも多くなってきた。
まだ安心はできないが、まわりは平民ばかりで、俺を知る貴族や治安兵もいない。
人に紛れれば、すんなり移動できるだろう。
少し休憩もしたいし、小腹もすいてきた。だが、お金も持っていないから、どこにも行けない。
井戸の水でももらって小休止でもしようかと、辺りを見回しながら歩く。
お腹に何かが当たり、人とぶつかったのに気付いた。
見ると、男の子が地面に倒れている。
「すまん。大丈夫か?」
「いえ、すみません……ま、魔王様!」
こちらを指でさし、大声で叫ばれた。
「え? なんで?」
油断した。
魔王の顔など平民にはばれていないと思っていた。しかも子供だ。
周りを見る。
急いで道の端により、平伏する人の群れ。
なんでだ? 子供の言葉だけで気付いたのか? みんな魔王の顔を知っているのか?
やばい。とにかく、逃げよう。
俺は全速力で駆けだした。
なぜ魔王の顔が知られていたのかわからないが、もう主要な道は歩けない。
なるべく人と会わないように、森や山を越えていくしかない。
そもそもお金も何もないのだから、街や村を通る必要がなかった。
水は川を探せばいいし、水魔法もある。食べ物も動物を捕まえればいいだけのこと。ちょっと前までの生活と変わりない。
氷魔法で捕らえた蛇を、生のままかじった。
火魔王で毛と皮を焼いただけの、生焼けのウサギを食べた。
普通の人魔族のものなら腹を下すだろうが、俺は鍛えてあるから平気だ。特に食事にこだわりはないから、必要な栄養素さえ取れれば問題ない。
昔は魔獣も多くいたのだが、乱獲のため激減している。夜も移動できるし、仮眠もとくに危険はない。
ただ、地理的なことは疎い。山の中から、なおさらだ。
それでも少しづつ、目的地に向かうことができた。
何日もかけて、故郷の村についた。暗くなるころだった。
服はボロボロだし、身体も汚い。だが、やっとたどり着いた。
実家を目指す。
「ただいま」
なるべく元気な声を出した。魔王城から逃げ出し、今までの人生が全て無駄になったとしても、俺は沈んでいないと親父に示したかった。
親父は居間でひとりで食事中だった。なつかしい汁ものの匂いが漂う。
「魔王様」
俺を見た親父は、なぜかそう言うと、立ち上がり頭を下げた。
今までに、そんなことをした事はない。
いつも尊大で、ぶっきらぼうな男だ。息子に弱みを見せたこともない。
「おいおい、親父? なんで息子に頭なんか下げるんだ?」
「アルベル様は魔王であらせられます。ただの平民である私がそのご尊顔を拝めるはずもございません」
頭を殴られたような感覚に、しばらく立ち尽くすことしかできなかった。
「本気か? 本気で言っているのか? もう、俺の親父じゃないって言うのか?」
「魔王様は人魔族、竜魔族、獣魔族の頂点に立つお方、辺境の村にすむ男のことなど、どうかお忘れくださいませ」
「……」
家を飛び出していた。
何が何だか分からなかった。
疲労と寝不足も影響があるのか、意識が遠のいてしまいそうになった。
俺はなんのために、故郷を目指したのか……。
そうだ。思い出した。
エミリーに会いに来たのだ。
魔王でなくても、親がいなくても、エミリーさえいればいい。
来た道を引き返し、実家のとなりの家を訪ねる。
「ま、魔王様」
久しぶりのとなりのおばちゃん。エミリーの母親だけがいたが、やはり親父と同じ反応だ。
今度は覚悟があったから、それほど苦にならない。
「エミリーは? エミリーはどこだ?」
こいつらの反応などどうでもいい。だが、エミリーは違うはずだ。
彼女にとって、俺はとなりのアルベルで魔王なんかじゃないはずだ。
俺は、エミリーさえ手に入ればそれでいいのだ。
「娘はとっくに嫁に行っております。ここにはおりません」
「嫁? いつだ?」
「もう、三年になります」
「……嘘だろ……」
知らなかった。
となりに住んでいながら、エミリーが嫁入りしていたことに気が付かなかった。
そういえば、そのころ、よく山ごもりしていた。そのあいだの出来事かもしれない。
大人になったエミリーの姿を思い出せない。
違う。そもそも大人になるころには、顔を見る機会もなかったのだ。
そこまで考えて、もう頭の中は考えるのを止めていた。
気付いたら、山の中を歩いていた。
木の根に足をとられ、そのままうつ伏せに倒れた。
身体に走る鈍痛が心地よかった。
もっと、身体を痛めつけたかった。
そして気付いてしまった。
魔王になったとき、すべてを手に入れたと思った。
だが、違った。
俺はあの時、すべてを失ったのだ。
仰向けになって空を眺めた。
いつの間にか少し明るくなって、夜を追いやる時間になっていたようだ。
もう、この魔族の領土にはいられない。
どこにいても、俺は魔王のままだ。
「人族の地に行こう」
失ったのなら、また手に入れればいい。
俺のことを誰も知らない場所で、人生をやり直す。
強さを求めず、地位を目指さず、名誉を望まず……大切なものを探すのだ。
俺は立ち上がり、日がいずる方向へと歩み始めたのだった。




