3 白川旭②
白川旭が転校して一週間が経った。
完全にクラスに馴染んだとは言えまいが、近くの席の人などを中心に交流を広げており、まあ程ほどに順調な学校生活を送っていた。教材を忘れたのも初日以来無く、授業にも心機一転、真面目に取り組んでいた。
ただ、その割に白川旭の表情が明るくない。それは彼の中に二つの懸案事項が重く圧し掛かっているからだ。
一つに旭が仲良くしていき、その交流の場を広げる基点としている周辺の席の面々だが、一人、ただ一人だけ、全くもって仲良くしてくれない人が居るのだ。否、仲良くしてくれない、と言うのは随分とオブラートに包んだ言い方であろう。正しくは憎悪と憤怒すら込められていそうな視線を旭に向け、旭自身に覚えのない隔絶を作っていると言った方が適切だろう。旭に思い至る所が無い故に、どうにもどうしたものかと日々思い悩んでいるのだ。
「初対面から嫌われるって……応えるよなぁ」
二つに旭の机の中に変わらず残っている交換ノートだ。転校してから一週間、つまり交換ノートを見つけてから一週間。その間に持ち主が交換ノートを取りに来る事が無かった。他人の黒歴史を自分の懐に仕舞い込んでいる現状は、旭に只ならぬストレスとなっていた。日々の溜息の数が加速度的に増加してしまうのも無理からぬ事だろうか。
そしてストレスは何も他人の物を長期に渡り預かっている事だけでは無い。中身を見たい気持ちを抑え込むのも立派なストレスである。ただでさえ交換ノートを見つけた時に、既に旭は中身を見たい感情に頭をもたげさせていたのだ。一週間我慢していただけ上等だろう。
我慢している、では無い。我慢していた、だ。
旭はこの日、あの交換ノートを開いてしまうのだから。
――白川旭が一番、この学校において満足している場所は図書室である。最新刊をしっかり揃え、棚に無い作品も用紙に記入すれば一週間以内に県立図書館などから取り寄せられる充実した機能ぶりだからだ。故に専ら、旭が図書室の魅力に気付いてから、毎日欠かさず図書室で本を読んでいるのが日常だった。今も旭の座る席のすぐ横には何冊かのシリーズ物の本が積まれている状態だ。そこへ、
「白川君、もう閉めるよ」
一人の年老いた男が声を掛けた。旭は男の言葉に顔を上げ、それから時計に視線をやって驚く。いつになく熱中して読み込んでいたのか、気付けば時刻は午後五時。図書室が閉まる時間になっていたのだ。
「すみません、すぐに片付けます!」
旭は大慌てで脇に積んでいた本たちを元の場所に戻し、読みかけだった巻だけ掴んでカウンターに走る。一冊までの貸出制限に、旭は断腸の想いにならざるを得ないのだ。
「はい、どうぞ」
手早く行われた貸出の手続きを終え、男に手渡された本を抱えた旭は会釈を残して図書室を出ると、確かに窓の外は夕暮れに包まれていた。遠くからは運動部の掛け声と吹奏楽部の演奏が聞こえる。帰宅部からすれば、それらは社会人の「蛍の光」みたいな物で、退社、もとい下校を促す定番のBGMだ。旭も気持ち、心を逸らせて教室へと足を向ける。
教室には誰も居なかった。教室にも夕日が差し込み、机も椅子も黒板も、全てを茜色に染め上げている。いつもと同じなのにどこか違う、哀愁漂う光景だ。旭はその、一枚の絵の様な光景に感嘆の声を漏らしつつ、自分の机に向かう。机の脇にぶら下げている自分の鞄が目的だ。いつもは図書室に持って行くのに、今日は教室に忘れてしまった鞄だ。旭が今日、どれだけ続きを楽しみに図書室に向かったかが窺える。
「あー、明日は小テストかぁ」
机から教科書を取り出して鞄に移しつつ、旭は黒板脇に小さく書かれた連絡事項に溜息を洩らす。それとほぼ同時に、自分の手の内で消失感を味わった。あ、と思う暇も無く、床に教科書がばら撒かれる。
「はぁ、余所見するもんじゃあ無いねぇ」
連続のネガティブ要素に老けこんだ台詞を吐きつつ、旭は教科書を拾い上げて行く。床に落ちた物は幸い少ない。数学の教科書に英語の問題集、社会のノートに――。
「交換ノート……」
旭の机に転校初日から毎日欠かさず鎮座し続けている彼奴がそこには居た。しかも、旭が見慣れてしまった表紙では無く、無造作に中を曝け出す形に、である。今までは開く事を自制して来た旭だったが、開かれた現物を前にしてはどうにも我慢し難い。
「まあ、汚れてちゃ可哀想だしな」
埃を払うと言った名目でちらりと中を覗き見る。小心者の振舞いだ。
「ん? おかしいぞ、これ……」
思わず交換ノートに伸ばしていた手が止まる。
開かれていたページは最も新しいページだった。左半分が真っ白なのが良い証拠だろう。左とは対照的に、右側のページには字や絵が書き込まれている。そのページの最も右端、通常ページの割り振りなどに使用する欄には、日付が書き込まれていた。交換ノートの性質上、ページ数の代わりに書いた日付、と言う訳だろう。ただ、その日付は昨日の物なのだ。
「いや、待て。なんでだよ。昨日って、書ける訳が無いだろうに」
旭の机に交換ノートはこの一週間、毎日あったのだ。それは毎朝登校する度に確認し、毎日下校する度に嘆息を漏らしていた旭には確信を持って言える事だ。にも関わらず、旭の目の前にあるノートには昨日の日付の文面がある。
「――っ!」
旭は空を漂っていた伸ばしかけの手を伸ばし、埃を払うのではなくノートを掴み、ページを捲ってそれ以前の書き込みを見た。そこには旭が転校して一週間、それだけに留まらず、ずっと前から続く文面があった。内容は取り留めの無い会話だ。仲睦まじそうな、男一人と女二人の会話が続いていて――。
「……彩香?」
旭の、ページを捲る手が止まった。彩香、それは旭の左隣の席の生徒の下の名前で、旭を邪険に扱い続ける生徒の下の名前でもあった。そして、旭の眼前にある交換ノートに、頻りに出てくる名前でもある。――旭の中で襟山彩香に対する懐疑心が湧く。
何故名前があるのか。何故毎日睨んでくるのか。初対面からの対応。辛辣な態度。それらに関係があるような気がして。旭の頭をぐるぐると回る。
――そんな心に応えるように、先程の呟きに応えるように。
「何でそれが……」
襟山が教室の入り口で、旭が初めて見た睨みつける以外の、信じられぬ物を見たような困惑の表情をして呆然と立ちつくしていた。




