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無常の指先

作者: 潮風迷子

不快感に起こされた。

蛇口を捻る。カラカラに渇いた口に水道水を流し込み、喉から痰を絞り出して、田中正嗣は鏡に写る冴えない顔を観た。耳の傷痕が目に留まる。子供の頃、ガードレールにぶつけてできたものだ。田中は実家の朝を思い出した。ひたすらにのどかな熊本の朝を。林に棲む野鳥がさえずり、その林の向こうの幹線道路を駆けるクルマが風のような低い音を鳴らす。窓を開ければ抜けるような青空が雄々しい山の稜線まで広がっていて、隣の家のおじいさんがスイカに水をやっている。向かいの森まで歩いてゆけば川のせせらぎが心を落ち着かせてくれる。

それから、15年も経っている。田中が未来を求めて上京したのは22歳の夏だ。東京に、未来はあった。

ただ、他には何もなかった。

田中にはもう、夢も愛も希望もない。所詮それらは、人が必要とした時のみに存在しうる、ただの概念だった。空想だとは言わない。しかし蓋を開けてみれば、中には何もない。だから田中は考えなくなった。それだけのことだ。

軽く開けた窓から小学生の無邪気な歓声が飛び込んでくる。その声のトーンは底抜けに明るい。子供たちはまっさらな環世界に生きている。量子力学も東洋思想も、彼らはまだ知りもしない。かれらの日常はたくさんの宿題や学校という閉鎖的な環境に漂白されている。髭を剃る煩わしさに負け、眠れぬ夜を過ごした経験などもない。だから田中は、いつまでも子供が嫌いだった。

何日も洗濯していないハンドタオルで汗を拭いてスーツの袖に手を通す。ベタベタして気持ち悪いが、シャワーを浴びる時間はない。田中は冷蔵庫からカロリーメイトを二箱取り出して鞄に入れた。田中は革靴を履いて、薄暗い部屋を見渡した。空になったハイライトの箱がヘナっと口を開けてそこらじゅうに転がっている。そろそろ掃除をしなくてはならない。


地下鉄の階段を降りて、田中は人の群れに飲み込まれた。イヤフォンをしたサラリーマン、遅刻気味の高校生、仕事帰りの夜の蝶、スマホを見つめるリクルートスーツ。たくさんの二足歩行の生物がホームを行き交う。ここにいる誰もが、エントロピーの増大を妨害すること以外にも、それぞれ何かしらの活動をしているのだ。

田中は鉄と石を積み上げて暮している。積み上げて、崩して、積み上げて、崩して。永遠を代弁するかのように繰り返される破壊と創造。この巨大な街でさえ、いつの日か必ず廃墟になる。それでも田中はビルを建てる。金のためでもなければ、名誉のためでもない。仕事を辞めてしまった途端に、何もない1日が暴力的に襲ってくることを田中は知っていた。彼にとって働くことは救いだった。働いてさえいれば、自分のつまらなさと向き合わなくて済む。図面のことで頭を一杯にしておけば、消したくても消せない記憶が燃え上がることもない。田中は仕事が好きではなかった。しかしそれ以上に好きだと思えるものもなかった。


仕事から帰った田中は、玄関で靴を脱いですぐに、あり得ないことに気がついた。今日は猛暑日である。それなのに、妙に空気がぬるいのだ。夏場はいつも蒸し缶のように熱気と湿気が立ち込めているのだが。田中は、訝しがりながら部屋の電気をつけた。

部屋が綺麗になっている。

何故だ。

漫画が順番通りに棚に並んでいる。キャップとラベルを外したペットボトルがまとめてある。雑誌はきちんとひもで縛られている。ゴミ箱に入りきらないゴミがゴミ袋にパンパンに入っている。誰かが掃除をしたのだ。熊本から母親が来るはずはない。来たとしても、鍵を持っているのは田中だけであるから、そもそも誰も入れないはずである。田中はしばらく唖然としていたが、やがて机の上に手紙のようなものを発見した。それは奇妙な書き置きであった。


家主へ

私は泥棒であります。この度貴殿のアパートを僭越ながら掃除させて頂いたのは、他でもないこの私であります。私は私自身の職務を全うすべく貴殿のアパートへと侵入しましたが、何せよベランダの戸は無施錠、棚にも金目のものは何もない。やり甲斐も収穫もないのです。無力感に苛まれた私は、腹いせにベッドに立小便でもしようかとも思いましたが、私もプロですから、そのような間抜けな証拠は残しません。このような家に空巣に入った際は、私は掃除をすると決めております。タダ働きであります。奉仕活動であります。しかし私は家主のために部屋を掃除しているのではありません。私は私のためにやっております。また、この仕事をしていると他人の生活の痕跡をよく目にしますが、私は心を痛めるような感覚はありません(だから泥棒をやっているのです)。あくまで私は私のために掃除をするので有馬富士。敬具


何が言いたいのかよく分からない書き置きを静かにもとの場所に戻して、田中は頭を抱えた。気味が悪かった。包丁を持った誰かがクローゼットに隠れて、私の反応を隙間からニヤニヤと観察しているのではないかと身構えたが、クローゼットにも不審なものはなかった。田中の知らないところで、田中の部屋は綺麗になった。それだけのことだった。

広くなったフローリングの床に寝転んで、溜息をついた。警察を呼ぶ気も起こらなかった。田中は灰色の空にガラスの箱を建て続ける。泥棒は田中の部屋を掃除する。この街が廃墟になるまで、その営みは延々と繰り返されるのだろうと思った。田中はビニール袋からビールとつまみを取り出した。ビールはとうにぬるくなっている。田中は昨日まで壁に張り付いていた羽虫の死骸さえもなくなっているのに気がついて、苦笑した。空虚という真理が田中を冷たく見下ろしていた。

*w*「純文学なんすかこれ?」

@q@「なんだろう、わかんない」

*w*「主人公は病院行くべきだと思う」

@q@「精神科はメリットしかないから早めに行きましょう。精神疾患のリスクは実はめちゃめちゃデカい。でも認識されてないのが歯がゆい」

*w*「じゃあ、その話を小説にしてみたら?」

@q@「それいいね、考えとくよ」

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