「これは幻覚、幻聴」
一応母さんに「体調が悪いから休みたい」と言ってみたけれど無駄だった。どうしても無理なら早退しなさいとのこと。
畜生母さん真面目だぜ。夜更しでもして目の下に隈を作っていたなら少しは信じてもらえただろうか。
まあどっちみち仮病なことに変わりはないけど。
「いってきまーす」
がちゃりとドアを開けて、太陽の光を浴びる。眩しい。朝はいつもこうだ。
眩しさに目を細めていると、門の前に誰かがいるのが見えた。……ま、まさかな。
「おはよう柊くん!」
ばたん。
その声と姿を認識した瞬間、反射的に俺の右手はドアを閉めた。
いやいやいや。ちょっと待ってくれ。何その常識外れの行動。普通に考えてフラレた相手の家に押しかけるか? いや、ない。
何あの人、どんだけ自信満々なの?
もしかしてあれか、俺が彼女の告白を断ったのは俺が釣り合うわけないと思ってるとか考えちゃったのか。引く。
(今のは幻覚で幻聴だ。そうだ、そうに違いない)
そう自分に言い聞かせて、もう一度恐る恐るドアを開ける。うん、やっぱりいる。それを確認して音をたてないようにそっとまた閉じた。
あれ? 俺家から出られないぞ?
ふうむ、どうしたものか。彼女は多分俺と登校するつもりなのだろう。いい迷惑だ。やっぱりはっきり言ってやった方がよかったか。俺はあんたのことが嫌いなんだと。
このまま玄関にいても仕方がない。あの自意識過剰な彼女なら一日中だって家の前にいるだろう。そうすれば帰ってきた親父が彼女を見つけて、俺が怒られる。世の中って理不尽。とても理不尽。
(……本当に、どうしたもんかねえ)
家から出れば彼女に捕まる。このまま外に出なかったら母さんに怒られる。
成程、どうあがいても家からは出なければならない。体調が悪いからと押し切る手がないわけではないが、やはり真面目なうちの母さんは行くだけでも行ってこいと言うだろう。保健室で休めと。
だったらどうするか。さっきちらりと見えた彼女のハートは赤ではなく桃色だった。あの一瞬の赤はなんだったんだよマジで。
……とにかく、まだ俺のことが好きなのは間違いない。
あ、そうだ、無視しよう。
無視というか、見えてないフリというか。彼女のことを一切視界にいれることなく学校までたどり着いてみせようじゃないか。道中で友人と合流できればこっちのものだ。
よし、そうしよう。突発的に思いついた案にしてはなかなかいいんじゃないか? いいわけないけど。
とにかく無視を決め込もう。そう決めた俺は意を決してもう一度ドアを開けた。視界に彼女を入れないようにして。
「柊くん、どうしたの? 忘れ物? いきなり中に入っちゃうからびっくりしたんだよ!」
平常心、平常心。大丈夫、俺の視界に彼女は映っていない。
俺は何も聞いてない。聞いてない。
「ねえ柊くんってば!」
すたすたといつもより早めに歩く俺の後ろを、恐らく小走りでついてきているのだろう彼女は無視攻撃にめげることなく俺に話しかけ続けている。
やめてくれ、周囲の視線が痛い。
「柊くーん? もしかして聞こえてないの?」
今思いついた。イヤホンを耳に突っ込んでれば聞こえてなくても自然じゃないか。畜生、何で今まで思いつかなかったんだ。
だからといって今からそれを実行するのは無理だ。怪しまれる。
仕方がない、俺は難聴だということにしておいてもらおう。
「つー、おはよう」
「はよー」
よかった。うまいこと友人が合流してくれた。
俺のことをつーと呼ぶのはこいつ、関谷晴樹くらいである。幼い頃からの仲で、俺はハルと呼んでいる。他の奴につーとか呼ばれたら気持ち悪くて殴るかもしれない。ハルはずっとこうだから慣れたけど。
「つーって呼ばれてるんだ。いいな、わたしも呼んでいい?」
無視されてるのに質問してくるとはいい度胸してるな。
状況が把握できていないハルとアイコンタクトで意思の疎通を図る。これも長い付き合いだからこそなせる技だ。
「つー、数学の予習してきたか? 今日お前当たるだろ」
「してきたしてきた。ていうかそれしかしてない」
適当に話題を見つけて完全に二人の世界を作ろうとしてくれている。ありがたいことだ。しかし、二人の世界と言えば語弊がありそうだが、俺は勿論ハルにもそんな趣味はない。
「あ、わたし英語の予習してきたんだ! よかったら見る?」
「数学最近難しくなってきたよなー」
「そうかな。僕は数学が好きだから気にならないけど」
「この理系! 数学教えてください!」
傍から見れば異様な光景だろう。男二人が会話しているのを小走りで追いかけて話しかけ続ける女子。ちょっと想像してみたらかなりシュールだった。
(……まさか、明日からずっとこれが続くのか?)
彼女の言う覚悟しとけとはこのことを指していたのだろうか。さすがにそれは考えすぎ、だと思うのだが。女子の行動力恐ろしい。彼女を基準にしてはいけないとわかっているけれどそう思わずにはいられない。
あーもう、なんでこんなことになってるんだ! 平凡で波のない穏やかな生活を返せ!
隣を歩くハルが苦笑しているのがわかる。できれば立場を変わってほしい。彼女が俺のことを好きになる理由が思い当たらないし、もし自分の傍に来ない男子が気になったとかならハルでもいいはずだ。
というわけでハルに押し付けたい。が、そのせいで友情が壊れても困る。俺もハルも彼女には関わらないように学校生活を送ろうと決めていたのだから。
「困った時は頼ってもいいよ。それまでは自分で頑張れ!」
「ハル……お前……」
要するに彼女を対処しきれなくなったら自分を頼ってもいいけど、できるだけこっちに持ってくるなと言っているのだ。うん、お前は厄介事に関わりたくないんだよな。俺もだ。
「わ、わたし数学苦手だけど一緒に考えるよ!」
そういうのいらない。バカが二人いても何も変わらない。彼女はバカじゃないけど。でもバカ。頭がいいバカ。
結局その日一日中俺の行くところに彼女はついて回った。カルガモか。
その光景に首を捻った者の数は少なくないだろう。
桜木親衛隊と名乗る男子に「何故桜木さんを無視するのか」と聞かれたので、「彼女が俺に話しかけるわけがない」と返しておいた。
俺には桜木さんの幻聴が聞こえていることになった。また自意識過剰な彼女が変に勘違いしそうだ。