第8話
その頃、放置され中のリュシールは…
二人掛け用のテーブルに、一客のティーカップ。
カップに注がれたばかりの琥珀色の液体からは、独特の甘い香りが立ち上っていた。ファストロ特産の茶葉『セルナナ茶』の新茶で、結婚祝いとして贈られ、持参したものだ。
給仕をしたカーラが、その匂いに複雑そうな顔をしていた。
しかし、リュシールはそれに目もくれずに、熱心に本を読みこんでいた。
「何が悪かったのかしら…」
その声は疲れが滲んでいて、すでに燃え尽きている感がある。
本から上げた視線を、窓へと移したがどこか遠くを見ていて、意識がはっきりしているとは言い難い。
ぼんやりとした視線のリュシールが手にしているのは、ミリアから借りた『侍女の恋』という初心者向けの恋愛小説だった。
王宮に侍女として上がっていた下級貴族の娘が、王様に見初められて結婚する、というストーリーで、恋の甘い部分だけを寄せ集めたようなものだった。
リュシールが知りたいと思った、初夜のことなどはかなりぼかして書いてあった。
そもそも―――。
「相思相愛のお話じゃ参考にならないわ」
初夜が失敗に終わって、1週間。
何が悪かったのかと、ミリアに借りた本を読んで勉強しているのだが、参考になりそうな話はなかった。
もっと実用的な本はないの? と聞いたところ涙目で「恋愛小説に現実感なんていりません」と睨まれてしまった。仕方がないので、ルネと一緒にこの屋敷の図書室を見に行ってもらっている。
初夜の作法が載っていそうな本など、置いていないだろうけど。
それに、あれから一度も寝室を共にしていない。そればかりか、顔を合わせたのも数えるくらいだった。
勉強しても無駄かしら?
ふぅ、とため息をつくと、給仕をしていたカーラが深々と頭を下げた。
「リュシール様。エリック様が、本当に失礼なことを…。申し訳ありません」
「カーラ。何度も言うようだけど、いくらエリック様とカーラが幼馴染とはいえ、そんなことをカーラに謝ってもらう必要はないわ」
「ですが、普段ならまだしも初夜をすっぽかすなど、余程のことがなければ許されません」
こんな風に言うのは、カーラくらいなものだった。
あの初夜の次の日から、好意的だった使用人の態度は変わってしまった。まるで腫れものを扱うかのように、極力リュシールに関わらないようにしているように見える。
リュシールがそこにいるだけで、何故か空気がピリピリと緊張しているように感じられた。そんな雰囲気にさせるのが申し訳なくて、この1週間ほとんど部屋にこもりきりだった。
この屋敷に来た時の、居心地がよさそうと感じた印象も、今は過去の物になっていた。
「いくら政略結婚だとはいえ、酷すぎます」
「そう、ね。でも、政略結婚だから、こんなものなのかもしれないわ」
カーラをなだめるために言ったそれは、思ったよりも暗く重く響いた。
周りを見ようともせず、誰にも心許さず許されず。
周囲から孤立し、ただ血を繋ぐための腹となり、やがてそこに居さえすればいいという物になる。
母がそうだったように。
脳裏に、人形のような母の横顔が浮かぶ。
暗い想いに囚われそうになったリュシールは、慌ててそれを振り払う。
少し冷めてしまったセルナナ茶のカップを持ち上げた。馴染みの匂いが、ほっとすると同時に記憶を揺さぶって苦しくなった。
しかし、それも少しの間のことだった。
「リュシール様、ただいま戻りました」
明るいミリアの声とともに、ふわりと別の香りがリュシールに届いた。林檎に似たそれは、古く苦い記憶を吹き飛ばし、新しいものを連れてくる。
ミリアの手には、カミルの花束があった。
「その花は…?」
その問いに、ミリアが嬉しそうに笑う。
「エリック様からの贈り物ですわ。先ほど、今日は一緒に夕食を、という伝言と共に届けられたそうです!」
よかったですね、とルネとミリアが自分のことのように喜んで報告してくれた。
「そう、エリック様から…」
エリックが、どんな思惑があっていきなり贈り物を届けてきたのかわからない。
けれど、その花を見て心が軽くなったリュシールは、微笑みを浮かべながらその花を受け取った。
自分の文章が硬すぎて、甘いお話に感じられない…。
いや、今は甘くないんですけどね。シリアス風味?
次はエリック頑張る!挽回なるか?!