コイン
死にかけの明かりの下で浮かび上がる、彼の不思議な笑みが不快だった。車体が鈍い唸りを上げる。坂を上がっていくのがわかる。行き着くのが天国か地獄か、大方地獄だろうという想像ができてしまう。
「なぁ、もっと気楽に行こうぜ」
彼は言う。私は顔を顰める。
「こんな状況でどう気楽にいけっていうんだ」
「そうイラつくなよ、人生の秘訣は楽しむことだ。そう思わないかい?」
薄い笑い声が密閉された空間に響く。つきあっていられずに私は出る方法を探した。だがどこにもない。唯一の出入り口は鎖が巻かれている。一応引いてみるが、ドアが半端に開いては閉まり、金属特有の嫌な音をあげるだけ。私には絶望の鐘の音に聞こえる。ああ、私と彼はこれから緩やかに死ぬのだ。何もないこの暗い場所で。
「暇だろう。煙草でも吸うかい?」
「嫌いなんだ。父はそれのせいで死んだから」
「そうかい。そりゃお気の毒に」
私は彼を睨みつけた。馬鹿げている。脱出の方法も探そうとしない、生きることを諦めたような彼が気に食わなかった。
「それじゃゲームをしないか。チップはお互いの水だ。そっち側にも置いてあるだろ」
彼は自分の水の入ったボトルを床に放り投げた。大馬鹿だと、思った。私は壁を叩いた。硬い音が返ってくる。それだけだ。生きた何かが返ってくることはない。ここはすべてが渇いている。
叩く、叩く、叩く。
「無駄なことはわかっているだろう。どうせ俺達はここから出られない。いいや、出られるとしたらもっと先の話さ」
叩く。叩く。叩く。
ふと坂を上る振動が止まった。
車が止まったのだ。出られるのか。
私はほんの一瞬だけ希望を抱く。
だが。
「そら、下り始めた」
彼が言った。
その通りだった。頂点を越えた車はゆっくりと下向きに動き始めた。もう何も考えたくはなかった。死ぬのだ。私は絶望し、立つのを辞めた。
「乗る気になったのかい?」
私は頷いて、言われるがままの人形のように自分の水の入ったボトルをそっと彼の前に置いた。彼はあの笑みで私を見た。不安や、何かを吸い取るような不思議な笑みだ。
「ルールは簡単だ」
彼は真上にコインを弾いた。両手を交差するように空中で掴み取る。薄い電灯のしたではどちらに握られたのかわからない。
「右手と左手、どちらにコインが入っているのか当てたらチップはあんたの物、外したら俺の物だ」
私は彼の右手を指差す。彼が右手を開く。コインが床に落ちる。
「当たっちまったか。これはあんたのもんだ」
彼が自分が賭けていた水をこちらに投げて寄越す。それはずしりと重く透き通った側面をこちらに向けている。それに口をつけると私は一息に飲みこんだ。渇いていたせいか、それまで味わったことのないようなすばらしい感覚が喉を抜けて胃に落ちる。私は夢中でそれを啜り続けた。だがすぐになくなってしまう。こんな量では足りなかった。もっと多くの水が欲しい。だが次の水を直ぐに開けてはあの感覚は得られなかった。
私は自分が渇くのを待った。うまい水を飲みたい。他に娯楽のない閉鎖的な空間で私はいつしかそれしか考えられないようになる。車が一際大きな音を立てたことにも、もう止まっていることもまるで気に止めずに私達は何度もゲームを続けた。あの感覚が欲しい。それ以外のことを私は考えられなかった。私は運がいいらしくよく勝った。ほとんど彼に自分の水を与えなかった。そしてゲームは終わった。彼の水が尽きたのだ。彼はそれから数日で喋ることもなくなる。私は水を飲む。しばらくして彼が死んだ。そのうちすべての水が尽きた。ああ、もうあれを味わえることはないのかとそれしか思い浮かばなかった。終には明かりも死にたえ、真っ暗になる。私は手の中のボトルを握り、音を鳴らして一人きりの孤独に耐える。
光が入ってきたのはある朝のことだ。たくさんの空の入れ物を踏みつけて人が私の傍に寄る。私は初めて日の光の元で彼を見た。
その足元には二枚のコインが光を跳ね返している。
「うわ、くせえ……」
運転席で潰れた腐乱死体の匂いが漂っている。山中で交通事故を起こしてそのまま放置されていたらしい。経験上、三週間くらいじゃないかと思う。蝿が人に群がっている姿は生理的嫌悪を走らせる。
「あの、先輩。荷台からなんか変な音がするんですけど」
「言ってる暇あったら抉じ開けろ」
「了解す」
後輩がトラックの荷台の鍵をぶっ壊しにかかる。
「山波刑事」
「今度はなんだぁ?」
「死体の財布を調べたらところどうやら暴力団関係者と思われます。それから先日捕まえた臓器売買に一枚噛んでいた医者の名刺が出てきました」
「……お前、あれ触ったのか?」
「はい」
「勇気あるねぇ」
「せんぱーい。中から人でてきましたぁ! 生きてまーす」
と、後輩が叫ぶ。
中に居たそいつは水をくれ、水をくれと震えながら呟き続けていた。
俺はふと臓器を売りさばかれるのと気が狂うのとどちらがましなんだろうと考えてみて、自分の身に振りかかりさえしなければどっちでもいいことに気づいた。