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コギトの雨  作者: 海老
第二章 地底の都フィロソフィアとシュレーディンガーの猫
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一、はじまりの朝

「さあ、スム。起きてちょうだい。学びの道の朝は早くてよ。」

 ドアをコツコツと叩く音と共に、アマンダさんのやわらかな声が聞こえます。僕はまだ眠たい目をこすりながら、はあいと気のない返事をしました。

「下で一緒に朝食をいただきましょう。先に行っていますから。」

 アマンダさんの声が遠退きながら響きます。

 僕は起き上がって一つ大きく伸びをすると、静かに揺れるカーテンをすっくりめくって窓からひょこっと顔を出しました。

「ああ、まだお日様があんなに低いや。いったい何時だろう。こりゃあ随分早いぞ。」

 僕はのろりと部屋を出て、階段をぎいくらぎいくら下りました。

「おはようございます、スム様。朝食の支度が出来てございます。こちらへどうぞ。」

 ジャンバニさんはそれはもうすっかりキッチリとした格好かっこうで、まるで高級宿の人のような立派なお出迎えをしてくれました。

 僕がなんだかキョトンとしておりましたら、ロビーの奥からアマンダさんが白衣の姿で現れました。

「おはよう、スム。ジャンバニったらヘンテコでしょう。ここはそもそも研究員の宿泊施設なのに、カザリゼのエル・ドラードにいるみたいにお上品で。いいえ、あそこにもジャンバニより丁寧ていねいな従業員さんはいなかったわ。本当に昔からそうなの。あまり気になさらないで。」

 ジャンバニさんはなんだか得意そうな顔でちょちょっとおひげを整えました。

「おはようございます、アマンダさん、ジャンバニさん。そういえばお二人は、昔からのお知り合いなのですか。」

 僕が寝ぐせをちょっと気にしながら尋ねると、アマンダさんは困ったような笑ったような調子で、ジャンバニさんの方に目をやって言いました。

「ええ、そうねえ。もう二十年以上になるかしら。父も母もいつも忙しくしている人だったから、ジャンバニは私の教育係で世話役で、良い相談相手ね。昔も今も。本当に小さな頃からさんざんわがままを言ったけれど、いつだってそばにいてくれました。」

 僕はなんだか素敵だなあとたいへん良い気持ちになっておりましたが、ジャンバニさんはその両の目にたっぷりと涙をめて、口をヘの字にやっておりました。

「お嬢様。ああ、お優しくお育ちになられて。奥様もさぞお喜びでしょう。ええ、きっと見ておられますとも。」

 男子たる誇りのために必死にこらえるも終いには泣き出してしまったジャンバニさんを見て、僕はアマンダさんを心から大切に思われているご様子に、少し困りながらもどこか(うらや)ましいような気持ちになっておりました。

「はあ、良い人なのだけど、すぐにこれなの。また思い出話が始まる前に食事にしましょう。ジャンバニ、今日の昼食はスムとラボでとりますからね。さあ、スム。まずは朝食よ。たくさん食べて脳に栄養をあげなくちゃ。」

 泣きながら何かぶつぶつと言っているジャンバニさんを背に、僕達はロビーを抜けて食堂へ向かいました。

 食堂で椅子に揃って腰掛けると、こんなもににぎやかな朝は久しぶりだからか、先程までぼやぼやとしていた僕の目は、もうすっかりと覚めておりました。

「アマンダさん、今日はお医者さんみたいな白衣を着ているのですね。」

 僕は硝子の水差しのようななんとも綺麗な容器に入ったミルクを、こぽこぽコップに注ぎながらなんとなしに聞いてみました。

「あら、スム、ご存知ぞんじなくて。私はこう見えても医者でしてよ。コギトからはなんて聞いていたの。」

 アマンダさんは不思議そうに首をかしげて見せました。

「コギトは研究者さんだって。随分立派になったって聞いたと言っていました。」

 アマンダさんは視線を横にやって、ほんの少しの間考えている様子でした。

「そう。そうね。でも確かに研究者ではあるけれど、全ては医療のためなの。父は元々考古学者なのだけど、その研究がいつか医療に役立つと信じて手伝っているわ。今はまだ父を助ける立場だけれど、いずれはコギトの身体も私がたいと思っているの。ああ、別に何処か悪いっていうのじゃないのよ。でもそうねえ、まあコギトから見たなら、私も父も研究者に過ぎないのでしょう。私が彼を診たいのは、医者としてなのだけれど。」

 アマンダさんはちょっぴり寂しそうです。

「でもコギトは、アマンダさんに会えるのがすごく嬉しそうでした。カザリゼからずっと元気がなかったのに、アマンダさんに会ったらなんだか楽しそうで。僕、嬉しかったです。」

 アマンダさんはありがとうと言ってニッコリと笑います。

「今日はコギトの事を話さなきゃね。食べ終わったらラボへ行きましょう。そこでゆっくり話すわ。では、いただきます。」

「はい、よろしくお願いします。いただきます。」

 僕とアマンダさんは、朝からたくさん食べて気合いを入れます。

 その最中(さなか)に僕は、これから毎朝こんなに早いのかと、なんだかたいへんな日々がはじまる予感を、困ったような嬉しいような不思議な感覚と一緒に、うっすらと感じておりました。

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