五、水屋のカヤック
ギイ、ガタゴト、チャプンチャギイゴト
荷車はカヤックさんの機械広場と呼ぶ入口広場を抜けて、市場に入りました。
カザリゼの路面は随分しっかりと舗装されていますが、荷車の上におりますと小さな石のつぶてまで、ガタゴトと割にしっかりお腹をズンズンとやります。
僕はお腹がぺこぺこで喉もからからでしたので、そのズンズンと来るものがだんだん気分を悪くさせました。
目の前にはチャプンチャチャプンチャと良い音で揺れる水があって、道の両脇に続く商店は見たこともないような立派な野菜やなんとも鼻の奥にひっつく良い香りの肉や魚の焼き売りなどが、それはもうずらりと並んでおりました。
後少し宿までの辛抱ですから、それまでなんとかこらえようと懸命に気を張っておりましたが、高級な鶏まで焼き売りされていましたので、その香ばしい香りに僕はこれはもうだめだと、堪らずカヤックさんに尋ねました。
「ごめんなさい、僕はどうやら喉がからからで、このままでは干からびてしまうというふうです。お水を一杯いただきたいのですが、おいくらでしょう。」
僕はコギトから渡された革の袋を取り出しました。
「ああ、すまんすまん。気が付かなかったよ。お代はいいから一杯飲んでみな。」
カヤックさんは荷車を押したまま振り向かずに言いました。
僕は大喜びでお礼を言うと、急いで水瓶の蓋を開けました。するとそこには、水面をキラリと光らせてチャプンチャチャプンチャと揺れる、なんとも澄み切った清廉な水が瓶の半分程の所で波を打っておりました。
それはあまりの美しさに飲む事を忘れてしまう程です。
「その脇にある杓で掬って、隣のお椀で飲みな。杓の先は水以外のもの触れさせないようにな。」
元気良くはいと返事をすると、僕は言われた通り慎重に杓で水を汲み、お椀に注ぎました。
お椀の中で水はまだキラキラとしています。
「カヤックさん、本当にありがとう。いただきます。」
僕はそのお椀いっぱいの水をそれはもう一度に飲み干しました。
ゴキュリ、ゴキュリ、ゴキュリ。
すっかりからからになっていた喉からずっと下までが、きゅうっと締め付けるように潤って、僕はもうなんとも腰が砕けたようになったのでした。
「おいしい、カヤックさん、本当においしいよ。」
それはもう喉がからからだったからとかそういう問題ではない、今まで飲んで来た水とは明らかに違う水でした。
「があはっは、うまいだろう。ウチの水はちょっと違うのさ。」
本当にその通りでした。
「こんなによく冷えているのに、なんだかあったかくって、柔らかくって、身体中に染みてくるみたいだ。」
僕は興奮してあわあわと身振り手振りで言います。
「そうだ。それは、命の味さ。水はそもそも星の恵みだ。世界を巡り巡って全ての生き物を生かす最も慈悲深く清廉なものなのさ。だから人が精魂込めて清らかに清らかに蒸留すれば、水の中の慈悲が応えるんだ。その命の光を強めるのさ。そら、水面がしきりに光っているだろう。」
僕は黙ってキラキラと光る水瓶の中を、暫くぼおっと覗き込んで、命のあれこれをなんとなしにぐるぐると考えておりました。
「さあ、そろそろ蓋をしめてくれ。今日のは随分出来が良いんでな。こいつを蒸留した時ちょうど下の娘が初めて歩いてね。その喜びが水に溶けてるって訳だ。」
僕は蓋を閉じながら目をパチクリとやりました。
「喜びが水に溶けるの。それで味が変わったりするのですか。」
カヤックさんは豪快に笑います。
「そりゃあするさ。さっきも言ったが水は本来最も清廉なものだ。人の想いのような強いものはすぐに溶け込んでしまう。まあ飲んでどんな感情が溶けているのかまで分かるのは、俺達水屋くらいだがね。」
僕はなんだかカヤックさんが格好良く見えてたまりませんでした。
それから暫くダカゴトと商店の間を進み、お店がまばらになって来た頃です。
「さあ着いたぞ。ここがその宿だ。おおい、客人を連れて来たぞお。」
カヤックさんは荷車を停め、大きな声で言いながら宿に入って行きました。
確かに見た目は少しオンボロの宿です。年期の入った木造で宿としては小さめですが、なんだかどんと存在感がありました。
暫くしてカヤックさんがまたまた豪快に笑いながら出て来ました。その横には小さな丸眼鏡のおじいさんがいます。
「おい、カヤック。客人たってこりゃあほんの子供じゃあねえか。」
おじいさんはカヤックさんに怒鳴りました。
「じいさん、この子は特別だ。礼儀も正しいし水の味もよく分かる。ジャッタルイカから歩いて来たんだ。あんたんとこで休ませてやんな。それにお代をまけろって言ってる訳じゃねえんだ。文句はねえだろう。」
僕はすぐに荷車を降りて挨拶をしようとおじいさんの前に立つと、おじいさんは顔をぐいと近付けて、まじまじと僕の顔を見ました。
「はじめまして。スムと言います。よろしくお願いします。」
おじいさんは暫く僕の顔を見ていましたが、ふいに入口の方へ向き直り言いました。
「ついて来な。部屋へ案内する。一人部屋でいいかい。」
先程より随分穏やかな声です。
「よし、荷物を置いてきな。おい、じいさん。二人部屋だ。もう一人いる。」
カヤックさんはどんと僕の背中を押して言いました。
「よろしくお願いします。でも一人部屋でいいんです。コギトはいつもそうだから。」
不思議そうな顔をしているカヤックさんをよそに、僕はおじいさんを追い掛けて宿の中に入りました。中に入ると宿を利用している人達が俄かに驚いたような顔でこちらを見ています。
「じいさん、子供じゃあねえか。子供を泊めるなんて珍しい。それともあんたの孫かい。」
数人のお客さん達は皆どよめき立っています。
「うるせえ野郎どもだな。わしの店に誰を泊めようがわしの勝手だあろうがい。それにこの子はカヤックが連れて来た。ジャッタルイカから歩いて来たんだと。全くお前らにもそれくらいの根性が欲しいもんだ。」
おじいさんは怒鳴り散らしながらカウンターで何か書類を書いているようでした。
「へえ、ジャッタルイカからねえ。まさか一人でかい。たいへんだったろう。しかし確かに頑丈そうな身体をしている。顔も賢そうだし、目も澄んでいるなあ。こりゃあカヤックのお墨付きも頷けるってもんだ。」
僕は一度にたくさんの大人の人達に囲まれて、頭を撫でられたり肩を握られたりしたものですから、せっかくよく誉めてもらえているのにカチコチと石のようになってしまいました。
「スムと言います。ジャッタルイカからはコギトと二人できました。スムという名前はおじいさんが”澄む”という意味で付けてくれました。」
僕はなんだか真っ白な頭でまるで頓狂に答えてしまいました。
「はっはっはっ、そうかい。そのコギトというお連れさんは見えないなあ。しかしそれしても君のおじいさん、きっとエゾの出か、見聞のある方ではないかい。いや、こう見えても私は民族学者でね。」
お客さんの中の紳士と見受けられる男性が言いました。僕はどういう事かと聞こうと思いましたが、おじいさんが書類を書き終えて割って入りました。
「サジナ。他人の詮索はいいが、さっきの昼飯でお前またケールを残したろう。今度やったら二度と飯は出さんぞ。」
おじいさんは紳士のお客さんに食ってかかりました。
「勘弁してくれよ、じいさん。ケールだけはどうしてもだめなんだ。自炊なら我慢するが同じ金を出して食べるなら、もうじいさんの作る以外の料理はとてもじゃないが食べられないよ。」
紳士さんはホトホト困り果てています。
「なら夕飯のケールは食べるんだな。ほれ小僧、お前の部屋の鍵だ。さあ、カヤックが待ってる。荷物は運んどいてやるから早く行きな。」
僕は、おじいさんや観念しましたという顔の紳士の男性や、皆さんにぺこりとするとカヤックさんのところへ飛び出しました。
宿を出るとカヤックさんは桶を持ったおばさんに水を売っていたようでした。
「重いぞ。家まで持てるかい。」
「ありがとうね。大丈夫、すぐそこだから。本当にカヤックの水があると助かるよ。マリさんによろしく。」
おばさんはチャプチャプとやりながら小路の角を曲がって行きました。
「お待たせしました。水売れたんですね。」
僕はカヤックさんに駆け寄りました。
「ああ、お得意さんだよ。最近は大きな仕事で手がいっぱいで、市場方面まで回れていなかったからな。」
カヤックさんは水瓶の蓋をきちんと閉めながら言いました。
「大きな仕事ってどんなお仕事だったのですか。」
「ああ、アイーダまで水を運んだのさ。先方さんが大型バギーを動かしたはいいが、乗り心地が酷くてね。全くまいったよ。それに水のために大型転がすなんざ、金がかかってしょうがないと思うがね。毎回不思議に思うよ。」
カヤックさんがそう言い終わるか終わらないかという時に、俄かに宿の扉がバタンと開きました。
「小僧、最近は盗賊が多い。いくらカヤックが一緒でも日が沈むまでに戻って来な。でなきゃ晩飯は抜きだ。」
おじいさんはそういうとまたバタンを扉を閉めました。
僕とカヤックさんは顔を見合わせて、わっはっはと笑いました。
「さあ、コギトくんを探しに行くか。日暮れまでに帰らないとあのじいさん本当に飯を出さないぞ。では水瓶は頼んだ。」
そう言ってカヤックさんは荷車の向きをぐいと変えました。
僕はぴょんとそこへ飛び乗り、よろしくお願いしますと頭を下げました。
ギイっと音を立てて動き出した荷車の上では、大きな大きな水瓶が、僕のとなりでチャプンチャチャプンチャと嬉しそうに鳴っておりました。




