二十三、独白
「私は研究者でした。専門は専らエンジンでしたが、化石燃料の使用は未だ根強い文明排斥思考によって倫理に反するとされていました。確かに、思念戦争の名残りか、高度に繁栄し過ぎた文明の反動か、世界中の人々が慎ましく生きる事を美徳としているかのように見えます。環境の改善を諦めている人、質素で不便な今の環境を受け入れている人は、少なくはありません。けれどもその実は、今の環境を受け入れている振りをしているだけの人が、圧倒的に多い。望んでいるのです。自分のため、恋人のため、友人のため、妻のため、子のため、親のため、より快適な生活を、心の底で求めているのです。その証拠に私は、エンジンという反社会的な研究をしながらも、ラボを幾つか持てる程の資産家になった。実に、有意義な日々でした。妻と子と、ラボの仲間達。何もないところから始めて、手に手を取ってラボを大きくしていった。困難と思える事も少なくはなかったけれど、私は一人ではなかった。ずっと続くと思っていたのです。あの日、ラボが暴漢共に襲われるまでは。」
シラードは、まるで凍ったような或いは石の仮面のような表情で、淡々と僅かな揺らぎもない口調で続けます。
「その日私は、朝からメインラボを離れて新しく立ち上げたラボラトリの視察へ出向いていました。そこはメインラボからさほど離れていない場所にありましたので、ガソリンエンジンのバギーは使わず、あらゆる性能で遥かに劣る通常のモータ式バギーで向かいました。私はエンジンの研究をしてはいましたが、世の文明排斥思考を全く意に介さないという訳ではありませんでした。貴重な資源である化石燃料を使わずに済むのなら、そのほうが良いと考えていたのです。そしてその日の夕暮れ、悪夢はやって来ました。私は建設中のラボラトリの外で、担当者と話をしていました。すると、メインラボの方角から黒い煙が上がっていると、研究員達が騒ぎ出したのです。私は、身体中の血液を背中からずぅっと抜き取られるような恐ろしい感覚を覚えて、すぐさまガソリンエンジンのバギーを手配しようとしました。けれども、建設中だった新しいラボにはガソリンエンジンのバギーはまだ一台もなかったのです。私は仕方なく乗って来たバギーに飛び乗ると、全速力でメインラボへ向かいました。この時私は無我夢中でしたので、バギーのバッテリーが残り少ない事に気付けなかったのです。そして、私には突然に、自然の摂理では当然に、バギーは道半ばで停止しました。その時、煙がメインラボから上がっている様子をはっきり肉眼で確認したのです。私の思考はもはや機能しておらず、バギーを乗り捨ててメインラボへ走り出しました。メインラボは、私の職場であると同時に、私の住居でした。妻と子と、そこで暮らしていたのです。私は何度も転びながら、獣のように走りました。妻と子の名前を叫びながら、憐れで無力な獣のように。そうして私がメインラボへとたどり着くと、ラボの中は、まるで地獄というように荒れ果てていました。あちこちでガソリンに火が回り、激しい音を立てて爆発を起こしています。足もとにはエンジンの残骸、焼けた資料、研究員と思われる人間の一部が転がっていました。私は危険かどうかなど粉微塵も省みず、ラボの中を駆け抜け住居へ走りました。幸い住居の方へは火の手は及んでおらず、私はほんの少しだけ安堵しました。そして玄関を蹴破り妻と子の名前を叫ぶと、中から微かに声がします。私は自分の手足がどのように動いているのかも分からないというふうに、声のする部屋へと駆け込みました。するとそこには妻が娘を抱き抱えるようにして横たわっており、辺りは赤い血溜まりになっていたのです。私は直ぐに妻を抱き起こしました。妻も娘も暴漢共に腹部を刺されたらしく、娘の意識は随分と薄くなっていました。私が声もなく、妻と娘の髪を震える手で撫でると、妻はそっと笑って、良かったと言うのです。私は消えそうな声で、何が良かったのかと尋ねました。妻は、もう少し早く来ていたなら、暴漢共に私も刺されてしまっていたかもしれないと、そう言いました。そして、娘を連れて早くここを出て欲しいと言うのです。まだ近くに暴漢がいるかもしれない事と、火の手がおさまらない事、何より娘の命が尽きかけている事を案じたのでしょう。けれども、私に妻を置いて行く事など、出来るはずもありません。父親ならば、娘のために妻さえも犠牲にすべきだったのかも分かりませんが、全てはあまりに突然で、あまりに理不尽過ぎたのです。こんな馬鹿な話があっていいはずがない。絶対に失いたくない。どちらも絶対に。私は妻を背負い娘を抱えて、なんとかラボから出る事だけを考えました。けれど、化石燃料を多く取り扱うメインラボでは、火のまわりはあまりに早く、既に来た道も無慈悲に炎で阻まれていました。それでも私は諦めませんでした。火の手の弱い場所を探して、広いラボの中を駆けて回りました。あちらこちらで倒れている、長年苦楽を共にした研究員を見て見ぬ振りをするのは、心を錆びた鉤爪で抉られるようでした。それでも妻と娘だけはと必死に駆け回りましたが、火事場の酸素は非常に薄く、私はとうとう倒れ込み、そこから動けなくなってしまいました。私は失意と絶望の沼に沈むように、そのまま意識を失いました。次に気が付いたのは、見た事もない機器の並んだ見知らぬ研究室でした。ぼおっと思考の定まらない頭で、寝かされていたベッドから起き上がろうとすると、白髪の男がまだ寝ていた方が良いと私を制止しました。その男はカルテシウスと名乗り、私に妻と娘を助けられなかった事を詫びました。すると、おぼろげな頭に例えようのない喪失感が津波の如く押し寄せ、私はその男に掴みかかり殴り倒そうとしました。しかし背後から私を呼ぶ聞き慣れた男達の声に、振り上げた拳を止めました。振り返るとそこに立っていたのは、全身に火傷や怪我を幾つもこしらえたブリユアンとガボールという、私のラボの研究員でした。二人は、メインラボで助かったのは自分達三人だけだと言うと、カルテシウスという男が如何にして我々を救ったかを話して聞かせました。殊更、彼が来た時には妻子の息は既になかったことを注意深く話しましたが、私にはそんなことはどっちでも良かった。例えその時点で妻子に息があり、それでも救えなかったのだとしても、私が彼を責める道理がないことなど、はじめから分かり切っていたのですから。」
シラードはここまで話すと、再び口を噤みました。僕たちは図らずも、ソヨを捕える男の持つ仄暗さに由縁の一端を覗き、その背に漂う悲しさをどうにも直視出来ずにおりました。すると黙って聞いていた猫が、またも俄に小さく笑い出します。
「そうか、ああ、カルテシウスか。お前さんのブラウンラチェットにしても、コギトのことにしても、それでなるほど合点がいった。しかしまあ大寝坊だな、あやつも。どうせ良からぬ目的で叩き起こされたに違いないが。まあそれはいい。お前が世界を呪うに足る事情を持っているのは確かなようだ。それでお前はカルテシウスに力をもらい、コギトの存在とその能力を聞いた。代わりに資金提供をしたといったところか。そこまではいい。しかし分からんのは、何故わざわざコギトを狙う。到底あれをどうこう出来る力や策を備えてるようには見えんがね。」
シラードは少しだけ驚いたような表情を見せると、ふっと元の淡々とした調子に戻り答えます。
「今の世界は乱れている。金品目当ての暴漢などはいくらでもいるのです。私だけが特別な訳ではありません。日常的に、まさに今も、どこかで誰かが何かを奪われている。私が世界を呪うのではない。世界は既に呪われているのですよ。しかし、まさかあなたが、コギトだけでなくカルテシウスまでご存知とは。あなたも彼も、全くもっていよいよ未知だ。お察しの通り、私と彼はそのような関係です。そもそも彼が私のラボを訪れたのも、私達を助けたのも、私に資金提供を求めるためだったのですから。私があの魔物を狙うのは、あれのオレイカルコスが必要だからです。詳しい事は分かりませんが、今、外の世界では、既にオレイカルコスは精製不可能になってしまい、既存のオレイカルコスの特性を変える事も出来ないらしいのです。創る事も出来ず代用も出来ないのなら、あれから奪うしかない。確かにあれの力は凄まじい。けれども、魔物を狩る方法がない訳ではない。」
そう言ったシラードの表情は、重く暗い鉛の意志で、不気味に哀しく、微かに笑っているように縁取られておりました。




