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コギトの雨  作者: 海老
第二章 地底の都フィロソフィアとシュレーディンガーの猫
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二十二、シュレーディンガーの猫

 ここでは誰もが目の前の状況をとんと理解出来ないまま、ただ額に刃物を突き付けられたような、恐怖や緊迫感といった張り詰めた感情で、手足をぐっしりと絡められるばかりでおりました。

「ああ、静かにと言っても、黙り込む必要はないさ。私は本当に感謝しているんだ。門を開いてくれてありがとう。しかし、まさか本当に、またここが開く日が来るとはなあ。」

 指の一本も動かせないでいる僕たちとは裏腹に、猫はゆったりと落ち着いた様子で話します。すると後ろの方でシラードが、まるで絞り出したといったような声で言いました。

「あなたは、いったいどういう。」

 僕達はそのシラードを振り返る事も出来ません。

「ああ、そうか。これはすまないことをした。すっかりと忘れていたよ。ああ、うん、よし。これでどうだろう。」

 すると、辺りを覆っていた鉛のような空気がふいっと消え失せ、僕達は暫く振りに水中から出て来たみたいに一斉に息遣いを深くしました。

「どうにもすまなかったね。どうやら舞い上がっていたのだろう。よく考えれば、君たちからすれば猫が話すのもおかしいかな。どうだろう。外にはわたしのようなのはいないだろうか。」

 僕達は各々どうにか呼吸を整えて、やっと目の前の現実と向き合う準備が出来たというふうです。そうしてカダカさんが汗を拭いながら言いました。

「今まで妙なのはあちこちで見て来たが、喋る猫がいるなんてのは、聞いた事もないさ。おめえさん、いったい何もんだ。まさか、ケイローンってんじゃなかろうな。」

 猫は俄かにくくくくくっと笑って、それは愉快そうに答えました。

「これは面白い。ここは確かに、まさしくケイローンの都だが、私はそのケイローンではないよ。では私が何者であるか。ああ、難しい質問だな、ご老体。私もしばしばその事を考えるさ。うん、ああ、いいや、見栄を張っても仕方がない。本当は専ら、その事ばかりを考えているよ。そうだな。強いて答えるとすれば、”猫”がいい。ただの猫。まあそれが、なんとも潔いと思える。」

 カダカさんは銃口を猫に向けて、ギリギリと狙いをさだめて言いました。

「ただの猫はしゃべりゃしねぇし、そんなに図体もデカかぁない。いったいこの中で何をしてやがる。」

 猫は普通の猫のそれのように、尻尾をくねりとやって答えます。

「おやおや、そちらの質問ばかりだ。まあいい。久しぶりの会話だ。文句は言うまい。何をしているのかと聞かれれば、専ら読書かな。ここの膨大に思える書物も、もう何通り読んだ事か。特にファンタジーと、パラケルススの研究書は愛読しているよ。それ以外の時は散歩をしているか、寝ているかかな。ああ、寝ていると言っても凍りづけでだがね。」

 僕は猫の言いようにすっかり混乱しておりました。理解の出来ない事があれこれ多すぎて、頭がぐるぐるとします。

「どうにも諸君の顔は、先程から分からないというふうだな。ふむ、それにしても、シラードと言ったかな、そこの若いの。先程からの会話を聞かせてもらっていたが、コギトの力を手に入れるとかどうとか。コギトとはマクスウェルのコギトかね。あれは今どうなっている。」

 僕は心臓がドキリとして、アマンダさんと目を見合わせました。猫がコギトを知っていた。それはいったい何を意味するのでしょう。ケイローンとサトゥルヌスの思念戦争、フィロソフィア、オレイカルコス、コギト。この猫の訳のわからない言葉たちは、どれもそれ等の謎に通じているように思えてなりませんでした。

「知り合いというならこちらの方々だ。私はただ、彼の持つ力が欲しいだけですから。」

 シラードがそう答えると、猫の首がこちらにぐいと向きました。その目は不気味に薄ら光って見えます。

「ほう、なるほど。どうやら彼奴も生きているようだ。面白いじゃあないか。これはいよいよ外に出るのが愉しみだなあ。さて、ではその前に、シラードとやら。そろそろその子を放してはもらえんかね。その子は心地の良い思念波を出す。通用口の扉越しに何度か感じた事のある子だ。あまり外界のあれこれに干渉する気はないが、こんなにも気持ちの良い子の悲痛は、やはり望むところではない。わかるだろう。君は賢明だ。言うようにしたまえ。君のその小さなオレイカルコスでは、ラチェットも大した力を持つまい。確かに君の言うように、ここにいる者たちを一瞬で蒸し焼きにすることくらいならば或いは出来るだろうが、そいつで私をどうこうしようというのは、土台無理な話だ。そうだな、そのラチェット、土色といったところか。私のも土色さ。大きさはそんな豆のようではないがね。君はその豆のようなラチェットの力で今まで随分たくさんの人間の命を奪って来たようだが、私は人でもなければ、ラチェットの仕様も違う。ハッタリだなどとつまらないことを言い出さないでくれよ。感じている筈さ。君も私のラチェットをね。」

 猫の言葉に僕たちは我に帰ったようにはっとして、再び全員がシラードに銃口を向けました。シラードは猫をじっとり見つめて、しげしげと様子をうかがっておりました。

「どうにも、信じる他ないようですね。あなたはこのフィロソフィアにいて、その姿で人語を話す。全く私の理解を超えている。確かにあなたはあまりに未知です。わかりました。言う通りにしましょう。だけれども、この子を放す前にいくつかお聞きしたい。まず、あなたは何を目的にどれ程前からここにいるのか。もう一つは、私が今からこのフィロソフィアを焼き払うのを、あなたはどうするのか。」

 慎重そうな声色で尋ねたシラードは、少し身構えた様子を見せました。匣の中の緊張感は、尚張りつめます。すると猫は前足で顔をもずもずとして、小さくにゃあと鳴きました。

「さて、目的というとこれはむつかしい。なかなかどうして即答出来るものじゃあない。ここに来てからはどれくらい経ったのか。冷凍睡眠の周期はランダムに設定してあるのでね。3日で起きる時もあれば、80年寝ている時もあるだろう。まあお前さん達が来たのが、こうして起きている時で良かったよ。ここを焼くという会話は聞いていたが、別にどうもせんよ。今の世界に必要ないのなら、こんなものない方が良いし、どちらにせよ今生きる者達で決めればいい。だがな、シラードとやら。お前さんがここを焼くのは、私怨だろう。お前さんの身体には、人間が死に際に放つ強烈な思念が、いくつもべったりと残留している。その中の一人の女と少女のモノが、殊更強いな。コギトの力を欲するのと、何か関係があるのかな。」

 猫は、硝子玉のような全てを見透かす目でシラードの方をぎょろりと見ました。

「オレイカルコスとは、そんなものまで見えるのですね。」

 シラードはしばらく黙ってからそう言うと、胸元から懐中時計を取り出し、時間を確認したようでした。そうして再び時計をしまうと、低く悲しい荒地の風のような声で、ゆっくりと話し始めました。

「その女性と少女は、私の妻と娘です。」


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