三、スムとアマンダ
ここはどこだろう。遠くに近くに商店の立ち並ぶ、見覚えのある街。
ああ、カザリゼか。きっとそうだ。
一面はずうっと雨。さっきから雨が降っていたのだ。
おおい、みんな雨だよお。
なんで、どうして誰もいないのだろう。こんな雨、滅多にないというのに。
おや、遠くに誰かがいる。
ああ、あれは、間違いない。コギトだ。
こんな雨の中、びしょ濡れで何をしてるのだろう。
コギトの向こうで何かが赤く光っている。
何かが、燃えているのか。
こんな雨の中なのに。
雨音に紛れてぱちぱち燃えているんだ。
そうか。
そうだ。
あれは人だ。
「スム、起きてスム。もう夜になってしまうわよ。」
ふぁっと突然景色が変わり、どこかでアマンダさんのやわらかい声がします。優しく愛情に満ちた美しい声です。
うっとりするような、どこまでも落ち着くような、なんとも言えない穏やかな気持ちで、僕はその声に耳を傾けます。
そうしていると右の肩の辺りを小さく揺すられる感覚が、徐々にはっきりとしてきました。
「スム、さあそろそろ起きて下さいな。」
すうっと頭に血が通ったような感覚の後、ああ、どうやらすっかり眠ってしまっていたのだと気付きました。
僕はのったりと目を開けると、そこにはもうすぐにこちらを覗き込むアマンダさんがおりました。そしてその顔があんまりに綺麗で、僕はドキリとして我に帰りました。
「ごめんなさい、僕眠ってしまったのですね。」
ゆっくり身体を起こすと、アマンダさんはニコリとして言います。
「歩き詰めだったものね。起こしてしまってごめんなさい。」
そう言ってアマンダさんは立ち上がり、窓をガチャリと開けました。
「こんな場所でも夜の風は気持ちいいわ。食事の間こうしておくと、寝る時にはシーツが冷えて気持ちがいいの。」
辺りはすっかり真っ暗で、窓から射す薄い銀色の光から、月と星が堂々とその宵闇に浮かんでいる様子が窺えました。
「僕、随分寝てしまったみたいです。そうだ、コギトはどうしましたか。」
そういえば姿が見えません。
「コギトは出掛けたわ。ゲルニカ山脈を越えた先まで行くものですから、もう当分は帰って来られないの。黙って行ってすまないって。」
僕はびっくりして、ぴしゃりとベッドから飛び起きました。
「そんな、ひどいや。いったいどうして行ったのですか。それにコギトは帰るまで僕はどうやっていよう。」
ひどく泣きそうになる僕に、アマンダさんはすっくり落ち着いた様子で言います。
「そんなに慌てなくてもちゃあんとコギトと話してありますよ。行き先は少し複雑な事情だからまた明日ゆっくりお話しするとして、コギトが帰るまでスムには私の助手をしてもらいます。しっかり勉強するのよ。だから暫くはここがあなたの部屋ね。」
アマンダさんはニッコリと笑いました。
アマンダさんの言うそれは僕にはもうたいへん喜ばしい事だったのですけれど、寝ぼけた頭に突然たくさんの感情がどっかり押し寄せたものですから、なんだかもう自分でも訳が分からないというふうでした。
僕がフラフラとしながら、なんとかよろしくお願いしますと捻り出すと、アマンダさんはこちらこそとペコリとしました。
「ねぇスム、あなたコギトの事で色々と気になってるのじゃないかしら。何故本人に聞いてみないの。」
アマンダさんは木の椅子に腰掛けると、少し低い穏やかな声で聞きました。その目は真っ直ぐに僕を見ています。
僕は本当の事を話さなければいけない気がしました。
「僕、気になる事ならたくさんあります。でもコギトは、それを聞いたらきっと悲しい目をする。嫌なんです、コギトがこれ以上悲しそうになるのは。」
僕は本当にそう思いました。
「そう、優しい子ね。コギトはあなたと一緒できっと良かったわ。でもこの先彼と一緒にいるのなら、あなたは知らなければならない。彼もここを出る前にそれを望んでいたわ。」
アマンダさんの目はまだ真っ直ぐでした。
「本当は聞くのが怖いです。でもアマンダさんは全て知っていて、コギトに普通に接しているのですものね。」
僕はアマンダさんの視線を避けるようにうつむいて、ゆっくりとベッドに腰掛けながら言いました。
「そうねえ。昔は恋だってしたわ。」
アマンダさんがそう言うと、僕はそれがあまりに意外というふうに俄かに目を円くして、まるで頓狂な上ずった声になりました。
「それは、コギトにですか。」
アマンダさんはふふふと笑うと、とても懐かしそうに柔らかい表情で話します。
「そうよ。でも彼、ああいう人でしょう。気付きもしなかったわ。まさか自分に恋心を抱く人間がいるだなんて、夢にも思わないのでしょう。まあ昔のお話ですけれど。」
僕はこの時、アマンダさんのようにコギトの事をちゃんと知りたいと思いました。
コギトがいったいどんなふうに生きて来たのか。とても怖いけれど、知りたいと思ったのです。
「コギトの事、教えて下さいますか。」
僕はたいへん勇気を出して言いました。するとアマンダさんは、どこか今にも泣き出しそうというふうに答えます。
「ええ。ええ、勿論よ。ありがとう、スム。」
アマンダさんは僕の頬にそっと手を触れました。
「でもコギトの事を話すのには、本当に時間が必要なの。明日、行き先の事と一緒にゆっくり話すわ。だからその前に、カザリゼで何があったのか聞かせてくれないかしら。話してみたら、少し楽になるかもしれないわ。」
僕はしばらく黙っておりましたが、アマンダさんの目が穏やかなのを確認するように見やってから、弱々しく話し出しました。
「カザリゼはいいところでした。」
そして膝を抱えて窓の方を見ながら、ゆっくり、ゆっくり、カザリゼでの出来事を思い出したのです。




