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コギトの雨  作者: 海老
第二章 地底の都フィロソフィアとシュレーディンガーの猫
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二十一、シラードの目的

「ソヨ。」

 キムさんがまるで青ざめたという顔色で、驚きを混じらせて叫びます。僕たちは起きている出来事がさっさと飲み込めず、困惑で喉元をつまらせております。

「どういうおつもり。今すぐソヨをお放しなさい。」

 アマンダさんはその中で火を吹くような剣幕で怒鳴りました。猿ぐつわをされて声を出せないでいるソヨが、それに答えるように体をぐいとやると、僕たちはなんとか感情がついて来て、続いてやっとソヨを呼んだり、シラードを罵ったりしました。ここにいる全員が怒りと疑いと銃口をシラードへ向けております。

 シラードは何の武器も持たずにおりましたが、誰もがシラードから何処か危険な空気を感じ取ったようで、どうにも手出しが出来ずにおりました。

「ええ、お放しします。けれどそのためには、皆さんに武器を放棄していただいて、このフィロソフィアから出ていただく必要があります。どうかそのように。」

 僕はシラードの言葉がよく頭に入らず、とにかくソヨが心配で、心臓の辺りをグッシリ掴まれているというふうなのでした。

「私はその子の父親です。いったい何が目的でこんな事を。」

 キムさんが震える声で尋ねると、シラードはほんのしばし黙ってチラリとソヨを見て淡々と答えました。

「そうでしたか。私はこれから、この場所に火を放ちます。それは皆さんにとって耐え難い事でしょう。それは重々理解しているつもりです。けれども、私はそれを成さねばなりません。この子のためにも、どうかよくお考えいただきたい。」

 シラードがそう言うと、アマンダさんは間髪をおかずに努めて冷静に言いました。

「ええ、ソヨが助かると言うのなら言う通りにしましょう。ソヨの命の方が大事。そんなことは当たり前よ。けれども、人質などという卑劣な交渉行為にこれ以上子供を巻き込んではいけない。私が替わります。今すぐソヨを解放なさい。」

 アマンダさんがそう言い終わるか終わらないかというところで、今度はカダカさんが割って入ります。

「待ちな、嬢ちゃん。冷静に状況を考えろ。丸腰でソヨを人質にしたところで、わしならこいつだけ撃ち抜くのは容易い。なあ、シラードとやら。わしらも撃ちたくはない。お前さんには聞きたいことが山程あるのでな。さあ、とにかくソヨを放せ。」

 カダカさんが銃を構えながら、大きくずいと前に出て言いました。けれどシラードは、表情の一つも変えずに答えます。

「以前に私の力はお見せしたので、ご理解いただけているものと思いましたが。仕方ありません。私はマクスウェルの魔物の持つオッペンハイマーの火を、極小規模で起こす事が出来ます。発火までには至りませんが、この子の脳内の水分を一瞬で気化させることくらいは容易い。本当は皆さんが撃つ前に全員蒸し焼きにすることも出来ますが、信じていただけない可能性もありましたので、こうしてこの子に。さあ、武器を下へ。」

 シラードの言う事が何処まで本当かは分かりませんでしたが、確かに以前発掘現場に現れた時に見せた、あの異様な熱気の正体はわからないままでした。

 ソヨはシラードの話を聞いても気丈に振舞っておりましたが、本当は恐ろしくてたまらないに違いありません。すると再びアマンダさんが、悔しさからか嫌悪感からか、細かに震えた声で言いました。

「つまりなるべく人を手にかけたくないと。命を奪わずに済むのなら、その方がいいと言うのですね。こんな卑劣なことしておいて、なんて都合のいい。私は絶対に、あなたを許さない。」

 シラードは怒れるアマンダさんをじっと見つめてしばらく黙っておりましたが、大きく頷いて冷たい声で言いました。

「アマンダさん、あなたは私が憎いでしょう。心が清廉であればある程、私が憎いはずだ。悪は憎むべきものだ。絶対にそうあるべきだと、私は考える。だけれども、アマンダさん。あなたは善人であるが故、正義であるが故、今こうして私を裁けずにいる。善や正しさでは、悪には抗えない。だから私は、悪意を持って悪を食い殺す悪になる。魔物になるのです。けれども私がマクスウェルの魔物から力を奪っても、対抗する力を現れては意味がない。魔物の力は、絶対的なものでなくては。ですから、ここに遺された知識は消さなければならないのです。どのようにしてエゾテリスムに渡り、アガルタからこちらの正門を開いたのかは分かりませんが、開いたからには消さなければ。」

 シラードは揺れる小さな青い炎のように、その理性的な振る舞いの奥に恐ろしい狂気を灯しているようでした。

「アガルタなんて知らない。ここは昨日勝手に開いたんだ。本当だ。頼む。人質なら私が替わる。娘を放してくれ。」

 キムさんは一層に血の気が引き、銃を持つ手がカタカタと震えて見えました。

 僕はコギトが山を越える前にどうして呼び戻せなかったのかと、自身の皮膚に爪を立ててしまいそうな程悔やみました。

 ああ、コギト。コギト。どうか戻って欲しい。戻ってあのかわいそうなソヨを助けて欲しい。

 僕は何度も、本当に何度も心の中で叫びました。そうして僕の心が、叫びでいよいよ張り裂けるというその時です。知識の匣の中の空気がずぅっと重くなり、息苦しいような圧迫感が匣の奥の方から溶岩のように流れて来るのを感じました。

 トテッ、トテッ、トテッ。

 何かがこちらにやって来ます。姿は見えませんが、確かにやって来るのです。

 トテッ、トテッ、トテッ。

 誰一人、あのシラードですら息を殺しているようです。

 トテッ、トテッ、トテッ。

 音がぴたりと止まりました。

「客人はどれくらいぶりになるだろうか。いやあ、全く久方ぶりでね。騒がしくて目眩がしそうだ。歓迎はするが、もう少し静かにしてはもらえんかね。」

 何処からか男性の声がします。けれどもやはり姿は見当たりません。

「こちらだよ、こちら。棚の上だ。」

 僕達はゆっくりとそちらへ顔を上げました。

 するとそこには、全身異常に長い体毛に覆われた、中型犬程の大きさの猫が、どっしりと座ってこちらを見下ろしておりました。

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