十二、人の六感
正門の発掘から五日が経ち、石碑の文字の研究と発掘現場の整備が進められる中、正門を開く手立てはすっかり何一つ見つかっておりませんでした。
アマンダさんはあれから連日仕事に追われて大忙しでしたので、僕はソヨと一緒に研究室で毎日勉強をするようになりました。
ソヨから言語学を習うのはたいへんに楽しく、ソヨの言う言葉の素晴らしさがなんとなしに分かって来るようなのでした。
ソヨの言い回しはいつも感性的で、その一つ一つには柔らかな気立てがじんわりと滲み出ており、僕はその端々にある優しさを本当に美しいと感じておりました。
「違うわ、スム。そのまま訳してもダメなの。その人の気持ちになって考えなければ、言葉に添えられた気持ちのカケラは掬えはしないわ。単語や文法を知っているというのは、スプーンを持っているというだけなの。本当に大切なのはそのスプーンを使って上手にカケラを掬う事だと思うの。」
今日もおなじに研究室で揃って勉強しておりますと、ソヨはいつものように丁寧に言いました。こんな時僕は大抵成る程なあと、すっくりと感心するばかりです。
そうしておりますと、ソヨは急に元気がなくなって、なんだか悲しそうに言い出しました。
「でもねえ、スム。私、石碑の言葉をどんなふうにとらえたら良いのか分からない。ケイローンさん達は私達に何が言いたいのかしら。あの扉を開けて欲しいのか、そうではないのか。」
ソヨがくうっと視線を落としましたので、僕は本当にどうにか力になりたいと思って励ますように言いました。
「ソヨ、僕は思うんだ。もし開く事が出来たら、それからどうするべきか考えれば良いと思う。もう発掘してしまったのだし、僕達が開かなくてもいつかは誰かが開いてしまう。他の誰かが開くより、きっとケイローンもアマンダさんに開いて欲しいさ。僕達はそれを助けなきゃ。それにラボの皆もアマンダさんも、そう思っているから毎日泊まり込みで研究しているのじゃないかな。」
ソヨはそう話す僕の目を不安そうな顔で見ておりましたが、俄かに何か納得がいった様子で、少しはきはき言いました。
「そうね。そうよね。ありがとう、スム。」
ソヨはまた、いつもの穏やか風のような笑顔で笑いました。僕はそれがたいへん嬉しくて、ソヨのためになら何だって出来そうな気さえしていたのです。
するとそこにコッコッとノックが響き、ロメノフさんが研究室に入って来ました。ロメノフさんはキムさんの解読班のメンバーで、いつもくわえ煙草でアマンダさんにコラコラと叱られているお兄さんです。ここはアマンダさんの研究室でもあるからか、どうやら今は吸ってはいないようでした。
「失礼するよ。ソヨちゃん、ちょっと来て意見を聞かせてくれるかい。スムもアマンダさんが下で呼んでたぜ。俺達も後から行くが先にこの手紙を持ってってアマンダさんに渡して欲しいんだ。すまんが頼めるかい。」
ロメノフさんは片手に持っていた手紙をひらひら見せながら言いました。
僕は手紙を受け取り、渡しておきますと言うと、勉強していた机の上をさっと良い手際で片付けました。
ロメノフさんが後で直ぐに行くからと言ってソヨを連れて研究室を出て行くと、僕はいったいどういう訳だか、なんだか悔しいような憎らしいようなへんてこな気持ちになったのでした。
そうしてもやもやとした気持ちのまま部屋を出て、キムさんの研究室の中で解読班の皆と何か話しているソヨを横目に、僕はアマンダさんの所へ急ぎました。
下では今朝出来たばかりの石碑のレプリカらしきものを、数人の研究者さん達が取り巻いておりました。そこには白衣を羽織ったアマンダさんも交ざっております。
「アマンダさん、ロメノフさんが渡してくれって。後から直ぐに来るそうです。これがレプリカですか。本物そっくりですね。」
アマンダさんは僕にお礼を言って手紙を受け取ると、レプリカをぽんと叩きました。
「これは最近開発班が旧世界の遺物から複製した、複写機と模倣機で作ったものよ。あなたにこれを見せたくて呼んだの。」
近くで見ると本当に細かい所まで再現されていて、たいへんすごいです。
「確かに見た目は本当に何処までもそっくりなのに、何故だか見分けがつかないとう事はありませんね。不思議だなあ。」
僕の言葉にアマンダさんは期待通りという顔をしました。
「そうね。ではスム、あなたに本物とこのレプリカは何が違うのか分かって。」
違いと言われれば、なんというか、迫力、存在感、生々しさといった感覚的な事くらいしか思い当たりません。僕はさんざん悩んだ揚句に、自信なくボソリボソリと言いました。
「素材でしょうか。今では作れない素材で出来ているとか。」
アマンダさんは小さく頷きます。
「良い答えね。間違いではないわ。でも確かに素材は違うけれど、質感は完全に表現されています。では何が違うのか。これは私個人の考えなのだけれど、答えは時間よ。」
僕は俄かには理解する事が出来ませんでした。
「時間、ですか。」
アマンダさんはふふふと笑うと続けました。
「そう、時間よ。正確には、時間の経過に伴って蓄積されるもの、かしらね。では、スム。人の六感を全て言えるかしら。」
僕はまだ訳が分からないというふうでしたが、とりあえずはきはきと答えました。
「はい、僕言えます。視覚、味覚、聴覚、触覚、思覚、それに嗅覚です。」
アマンダさんは満足そうによろしいと言って続けます。
「その六感のうち、思覚に相互作用を持つ物質がオレイカルコスである事は以前説明したわね。でも実は、そういった作用はこの世のどんな物質にもほんの少しだけあるとされているの。それはオレイカルコスのように思念を増幅したり物理世界に作用したりはしないけれど、思念をほんの僅かずつ蓄積するというものよ。ですから長い長い時間を経過した物質には、少しずつ思念が蓄積されて次第に積もっていく。それがある一定の量を超えると、人の思覚でぼんやりとだけれど感じられるようになるの。
例えば、貫禄という言葉があるわね。あれはたくさんの時間や経験を経て、その人自身に多くの思念が積もって、それを周りの人がぼんやり感じ取っているというものなの。だから小さな子供には貫禄は感じないし、ふらふらと何も考えず適当に生きている人からも感じないの。それに遺跡や古い建物などを見ると感じる、あのなんとも言えない存在感なんかも、そういった思念が積もっている作用ね。ですからこの出来立てのレプリカと何百年間も地底に埋まっていた本物の石碑とでは、私達が受ける印象はおのずと大きく変わって来るという訳よ。
ではもし、人の寿命を遥かに超える年月を経て、自身に思念を積もらせ続ける人がいたら、いったいどうなるでしょう。つまりは貫禄の延長線上には何があるのか、という事ね。」
僕はううんと唸って考えました。思覚は他の六感に比べて感度がとても低いので、どんなに大きな思念を積もらせた人と出会ったとしても、普通の人の思覚ではその思念の大きさや重さをぼんやりと感じるくらいが、やっぱり限界のように思えます。だとすれば、はっきりとはわからないけれど何か圧倒的なものを感じる、という感覚になるのが、なんとも妥当な答えに思えました。
そしてその考えに至ったところで、僕は俄かに気が付きました。
「コギトだ。」
アマンダさんは黙って僕の様子を見ていましたが、それを聞くともう一度口を開きました。
「そう、コギトの息苦しくなるくらいのあの異様な雰囲気。あの正体はそこにあるわ。コギトは恐らく気の遠くなるような時間を生きていて、体内にはオレイカルコスまで持っている。彼に積もった思念の重さも大きさも計り知れないわ。普段は意識的にオレイカルコスの力で抑え込んでいるけれど、それを解放した時、私達はコギトを理屈を越えて圧倒的な存在であると認識するわ。今、人々は偶然そこに魔なるものを見ているけれど、もしも救世主的に彼が現れたなら、人は神なるものを見るし、神聖な場にひっそりと現れたなら、霊なるものを見る。そういうものだと私は思うわ。ですから、いいことスム。コギトはね、決して、決して魔物なんていう不可思議な存在ではないのよ。」
アマンダさんはそう言って、なんとも優しい顔で僕の目を見つめました。
僕はアマンダさんの言葉に、なんだか自分の中で知らず知らずぎちぎち張り詰めていたものを、ふっと解放されたようなたいへん安心した気持ちになったのでした。
「ああ、アマンダさん、ありがとうございます。僕、なんだか良かったです。本当に良かったです。」
アマンダさんはニッコリと笑うと、コギトのように僕の頭にぽんと手を置いてくれたのでした。




