黎明に捧ぐノクターン
『貴女と僕は、きっと出会ってはいけなかったのかもね……』
悲しそうにつぶやいた貴方の顔が、夕焼けに照らされ、朱く染まっていく。
細めた瞳が潤み、貴方のきれいな目を一層美しく輝かせていた。
今まで手にしたどんな宝石よりも美しく輝く貴方の瞳。
もう私しか映さない。
私だけの瞳――……。
そう思うだけで、私の体の奥が甘く疼く。
この感覚は飢えではない。
灼けるような渇きでもない。
この重たい衝動はなんなのだろう。
飢えや渇き以上に、深くて強い『何か』が私の内からあふれていく。
もうすぐ日が沈む。
まさか、この私が夜を怖がる日が来るなんてね……。
思わず笑みがこぼれると、貴方は不安そうに私を見つめた。
「大丈夫よ、貴方は何も怖がらなくていいわ」
昂る感情による体の震えが貴方に気づかれないよう、私はとびきりの笑顔で微笑んであげた。
夕日に染まっていく貴方の頬をなで、そっと優しく口づける。
その皮膚の下で、貴方の血が流れていく音が聴こえる。
貴方を満たす甘い血の香りの気配を感じながら、私は貴方の首筋にもそっと唇を重ねた。
・‥…━━━━━━━…‥・
貴方が初めてバー『ナハト』に姿を見せた日は、きれいな満月の夜だった。
緊張で顔をこわばらせながら、貴方はナハトの中央にあるアップライトピアノの椅子に腰かける。
新入りピアニストの選曲に、店の客たちは興味津々で耳を澄ませていた。
鍵盤に触れる指の震え。
深呼吸の音。
緊張で高鳴る鼓動の音。
貴方がすぐそばにいるかのように、その音は私の耳に伝わってきた。
貴方が最初に弾いた曲。
それは誰も知らない曲だった。
曲を弾き終えた貴方が『誰も知らない』とタイトルを口にするまで、誰ひとりその曲を知る者はいなかった。
――私以外は。
その曲は、吸血鬼の力を弱らせるための曲だった。
音の中に巧妙に隠された旋律が、吸血鬼の五感を麻痺させ、思考を低下させる。
そのために貴方が作った曲なのだと分かった。
私は気づいてしまった。
貴方は吸血鬼を狩る者。
私は狩られる吸血鬼。
こんな月がきれいな夜に出会ってしまうなんて、お互いに運がなかったのかしら。
それとも運命だった、という方が正しいのかしら。
貴方に狩る者の素質がどれくらいあるのか、見極めてあげるわ。
ここは私の大事な餌場。
そう簡単に離れるわけにはいかないの。
もし貴方が弱ければ、私が食す者で、貴方は私の大事な餌になってしまうわね。
さあ、どちらが生き残るか……結果が楽しみね。
・‥…━━━━━━━…‥・
貴方は吸血鬼を弱らせることはできても、狩ることはできない半端者だった。
私を狩る素振りもなければ、私が吸血鬼だということにすら気づいていない。
でもピアノの腕は良かった。
貴方は瞬く間にピアニストとして売れていった。
貴方をナハトで見る日が増えていった。
貴方のピアノを聴く日が増えていった。
だってそうよね。
貴方がナハトでピアノを弾く夜は、吸血鬼が出ないのだもの。
吸血鬼が恐れるピアニストとして、貴方は有名になっていった。
貴族から『屋敷の専属ピアニストに……』と声を掛けられていたのも見た。
スカウトから『ぜひ都市の方でも……』と仕事の依頼を受けているのも見た。
弟子入りを交渉されているのも見た。
でも貴方はすべて断り、なぜかナハトから離れようとしなかった。
私もナハトを離れなかった。
もうずっと、人の血を飲んでいない。
ナハトではない他の店で、たやすく首筋を差し出す男を捕まえてしまえばいいと頭では分かっていたのに。
なのにそうしなかった。
不思議だった。
どうして私はこの餌場にこれほどこだわっているのだろう。
・‥…━━━━━━━…‥・
「具合、悪いんですか?」
倒れかけた私を支えてくれたのは貴方だった。
もうずっと人の血を吸っていない。
血入りソーセージと酒だけでなんとか生きていた。
細いわりに締まった貴方の体。
若い男特有の、濃い血の匂い。
身の危険よりも、渇きが勝った。
血が吸いたい。
貴方の血を吸いたい。
最も美味しく熟した状態にして吸い尽くしたい。
私の中に湧き上がっていたのはその衝動だけだった。
「ええ、少しお酒を飲みすぎたみたい……。ちょっと休ませてくれない? もし貴方の家が近いならそこで……」
いつも獲物を誘惑する時のように。
甘い声と仕草で、貴方に手をのばす。
ピアノを弾いていない貴方は、まるで子供のように初心だった。
篭絡して、何度も何度も快感を与えて、夢見心地になった直後の血の味は、どんなに高級な酒よりも甘美な味になる。
準備は仕上がった。
あとは眠らせたら、それでもう貴方は終わり。
何度目かの絶頂を迎えた貴方は、私を抱き寄せて髪を梳きながらつぶやいた。
「どうして……いなくならなかったんですか?」
その言葉の意味に気づき、動揺した。
逃げようとしても、腕を振りほどけなかった。
私の目の前には、張りのある若い男の肌がある。
噛み千切ればすぐにでも真っ赤な血を噴き出すであろう、しなやかで弾力のある肌がそこにある。
貴方はとっくに私の正体に気づいていたらしい。
罠にかけたつもりが、罠にかかっていたのは私だったのだ。
「いつから……?」
いつから気づいたのか。
いつから狙っていたのか。
最初から私を狩る気でナハトに来たのか。
今すぐこの首筋に嚙みつけばいい。
そこからあふれ出す血を一滴残らず飲み干して、干からびるまで吸い尽くしたらどこかに埋めてしまおう。
少しばかり売れたピアニストごとき、行方をくらましたとして、こんな田舎ならすぐに忘れ去られてしまうだろう。
「ナハトでピアノを弾かせてもらった初日に……すぐ分かりました」
「気づいたのならすぐに殺せば良かったじゃない。報奨金がもらえるわよ。
ああ、でも貴方、吸血鬼を狩れるほどの力は持ってないんだったわね」
こんな無駄口をたたいてないで、この無防備な肩口に嚙みつけばいいのに。
なぜか私は貴方の返事を待ってしまった。
「貴女が……僕のピアノで歌ってくれるのを待ってました……」
そう言って恥ずかしそうに目をそらす仕草には、獲物を前にした狩り人の気配はまるでなかった。
「ナハトの前を通りかかった時に、貴女の歌声を聴いて、ナハトで弾きたいって思ったんです。
いつか、貴女が隣で歌ってくれるのを夢見てました。
でもどんなに弾いても貴方は隣に来てくれなくて、顔色もどんどん悪くなっていって……それで気づいてしまったんです。
あの曲のせいだって。貴女にとって……僕のピアノは毒でしかないことに」
「だからあの曲、弾かないようにしていたの?」
「あれを弾かなければ、貴女が隣に来てくれるかと思って」
初日以降、『誰も知らない』曲はリクエストがなければ弾いていない。
その曲がナハトで流れる夜だけは、吸血鬼が現れなくなると噂が広まってからは毎晩リクエストがかかる。
そのたびに貴方がもったいぶるような態度をしていたことを思い出す。まさか私を気遣っていたとは思わなかった。予想外の事実がおかしくてつい笑ってしまう。
「いつリクエストされるか分からないもの。あの曲を間近で弾かれてしまったらたまったものじゃないわ」
「それならどうして、ナハトから離れようと思わなかったんですか?」
貴方が私をまっすぐに見つめる。その真剣な表情に、気圧されてしまった。
さっきまで私にいいように弄ばれていたくせに。
私を奥まで見透かそうとする生意気な眼差し――でも不思議とそれが、嫌だとは思わなかった。
「どうして僕がピアノを弾くのを分かってて、それでもナハトに来てくれたんですか?」
同じ問いを、何度も自分自身に問いかけた。
なぜこの餌場に固執しているのか。
なぜ血を吸えなくなってまで、ここに通うのか。
ずっと否定してし続けていた答えがあった。
「きっと……好きになってしまったのかも。貴方のピアノが」
素直に白状すると貴方は嬉しそうに笑い、でもそれから子供のように拗ねてみせた。
「ピアノだけですか?」
「そうね、ピアノと……貴方も好きよ」
「僕も貴女の歌声と、貴女が好きだ」
私たちはその晩、朝日が昇るまで激しく抱き合った。
・‥…━━━━━━━…‥・
ナハトが休みの夜は、外を出歩く人が減る。
なぜなら吸血鬼に襲われるからだ。
私には血が必要だ。
貴方は私に血を少し分けてくれたけれど、それでは全く足りなかった。
人が豚や鶏を殺して食べるように、私も人を殺して血を飲む必要があった。
「おい」
急に後ろから羽交い絞めにされる。
「やめて」
もがいても逃げられない。
後ろの男が無遠慮に体をまさぐっていく。
明らかに人の力ではなかった。
つまり――同族だ。
「いいかげんにして」
本気で抵抗して、ようやく距離を取れた。
「いい加減にするのはてめえだ。ここには妙なピアノを弾くガキがいるそうじゃねえか。噂がこっちまで来てる。まだ殺してねえのか?」
初対面だが、吸血鬼の数は多くはない。
都市に住んでいる仲間なのだろうと推測した。
貴方の噂が仲間の耳にも届いている。
絶望と動揺を必死で隠し、なんとか平静を装った。
「あの音を聞くと気分が悪くなるから近づけないのよ。どんなやつかなんて、顔も見たくないわ」
「は! お前みたいな弱い女じゃ無理か。なら明日の夜にその店に行って俺が始末してやるよ。
そのかわり、ご褒美を用意しておけよ?」
もともと品がいいとは言えないような顔が、嫌らしい笑みでさらに醜く歪む。
まとわりつく視線の不快さに、吐き気がこみ上げてきた。
「そんなことより、人の餌場に割って入るのはマナー違反じゃなくて?」
「荒らされた餌場を元に戻してやるっていう優しさだろ? うんと感謝してくれよ。その自慢の体を使ってな」
・‥…━━━━━━━…‥・
朝日が上がり、仲間の男が姿を消したのを確認してすぐに、私は日除けで体を覆うと貴方の部屋へと急いだ。
「お願い、今すぐ逃げて。ここにいたら殺されてしまうわ……!」
「どうしたの突然……それにこんな明るい時間に外に出て大丈夫なの?」
「貴方のことが街にいる仲間の耳に入ったの。
お願い、早く逃げて。夜になる前になるべく遠くまで逃げて。
そしてもうピアノは弾かないで」
貴方は私の肩を優しく抱きながら答えた。
「貴女が言うならもうピアノは弾かない。でも貴女とは離れたくない。だから……逃げるなら一緒に来てほしい」
迷うことなくうなづいた。
あれだけ離れたくないと思っていた餌場を捨てて、私は貴方についていくことを決めた。
怪しまれないように最低限の荷物だけを持って、私たちは村を離れた。
昼間の太陽の光は、日除け越しでも刺すような痛みを与えてきた。
ジリジリと体を焼くような熱さが、飢えと渇きを助長する。
気を抜けばすぐにでも貴方に食らいついてしまいそうな衝動を必死で抑えつけた。
自分が陽の光に焼かれて死ぬことより、貴方を殺してしまうことの方がずっとずっと怖かった。
やっと夕暮れになった。
体の痛みは幾分ましになったが、感じている痛み以上の恐怖が襲ってきた。
もうすぐナハトが開店する時間だ。
あいつがナハトにやってくる。
ナハトのピアニストが消えたことはすぐにばれてしまうだろう。
このタイミングで逃げたとなれば、きっと私が逃がしたということもばれてしまう。
すぐに追われる。
夜は吸血鬼の世界。夜に見つかれば最悪だ。
夜の野営は危険すぎる。
打ち捨てられた小さな古城に忍びこんで、朝まで過ごすことにした。
城の窓から星が見え始めた。
こんな状況じゃなければ、夜の城で二人っきりで過ごすなんてなかなか素敵なムードだったかもしれない。
でも、嫌な予感は消えなかった。
「ここに隠れていて。大丈夫よ。何があっても朝になるまでここから出ないで。お願いよ」
城の主の寝室らしき部屋にある、古いドレッサーの中へ貴方を隠すと、私は大広間に向かった。
大きな窓に囲まれた大広間。
朝になれば燦々と光が差し込むように設計されたのだろう。
今は月明かりが照らしている。
窓ガラスの一つが破られた。
侵入者はもちろん、同族の吸血鬼――それも、私よりも格上の吸血鬼だ。
「よお、随分探したぜぇ?」
舌なめずりをしながら近づいてくる。
血の匂いがした。
ナハトの客の血だろうか。
同族と殺し合うのは初めてだった。
勝機があるかどうかもさることながら、拭い去れない懸念がある。
血を見ても、理性が保てばいいけれど……。
・‥…━━━━━━━…‥・
ピアノの音が聴こえ、意識が戻った。
私は動かなくなった男の体に馬乗りになっていて、何か長いものを相手の胸に突き立てているところだった。
どうやら折れたテーブルの脚か何かのようだ。
男の首から上はない。
見回すとそれらしい物体が転がっていた。
確認に行こうとして、よろけて転ぶ。
私の足が半分千切れかけていた。
これでは歩けるわけがない。
よく見たら手の指も何本かなくなっている。
ピアノの音が聴こえる。
私の力を奪うはずの旋律が、今はただ心地よく耳に響く。
吸血鬼にとどめはさせた。
どうやって勝てたのかは何も覚えていないけれど、辺りに飛び散った血や肉片をみる限り、ひどい有様だったことは想像できた。
あとは朝が来て窓から光が差し込めば、すぐに灰へと変わるだろう。
――同族殺し、か……。
生き残った安堵よりも、夜に安住の地を失った喪失感がボロボロになった体に重くのしかかった。
――でも、それも杞憂か……。
仲間から追われる未来を思い浮かべたが、それを打ち消すような可能性が思い当たった。
いつの間にかピアノの音は止んでいた。
「終わったわよ、言いつけを守らない悪い子さん。この城にピアノがあって良かったわね。貴方にとっても……私にとっても……」
背後にいる貴方の気配に向かって声をかける。
この男を倒した後で理性が戻らなかったら、私はきっと貴方を殺しに行ってしまったかもしれない。
貴方のピアノの音のお陰で、なんとか自我を取り戻すことができた。
貴方ともう一度会話をすることができた。
それだけで、もう十分だ。
「吸血鬼同士の殺し合った現場なんて見るものじゃないわ。怖くて夜眠れなくなってしまうわよ?」
貴方は無言で私を後ろから抱きしめる。
暖かい。
このぬくもりが愛おしい。
この熱を分けて欲しくなる。
貴方の血が欲しくてたまらない。
振り返ったらきっと、貪り尽くしてしまう。
「朝が来るわ……もう帰りなさい。この辺りにはもう吸血鬼はいない。安心して暮らせるわ」
「……貴女も……一緒に、帰ろう……」
声の震えで、貴方が泣いているのが分かった。
私の体の損傷具合がよほどショックだったのかもしれない。
我ながら、自分でも直視できない有様だった。
「残念だけどそれは無理よ。今の私はもうどんな弱い光にも耐えられない。朝が来たら私も灰になるわ」
「貴女が元気になるまで一緒にいるよ。僕が貴女を光から守るから……」
「気持ちは嬉しいけれど、こんな古いお城じゃ完全に光から身を隠せる場所なんてないわ。太陽の光っていうのはね、どんな隙間からも図々しく入ってきてしまうものなの。
さあ、もう夜明けよ……行きなさい。灰になる姿は見られたくないの。最後のお願いだから、聞いてくれる?」
「いやだ……」
貴方の未練を断ち切るように、私は敢えて冷たく言い放った。
「行きなさい。無様な死に様なんか見られたくないのよ私は」
長い逡巡を経て、貴方がゆっくりと去る気配が伝わる。
最後に貴方の姿を一目だけでも見たかったけれど、振り返ることはしなかった。
空が白んでくる。
夜明けの時間だ。
体が光を感じ、体の中が沸騰していくような熱を感じた。
少しずつ、ゆっくりと、なぶるように焼き殺されていくようだった。
痛い。
苦しい。
喉が灼ける。
熱い。
苦しい。
早く死にたい。
こんなことなら貴方に殺してもらえば良かった。
生きながら陽光に焼かれ死ぬ恐怖に、私の目から涙がこぼれていく。
怖い。
もう殺して。
助けて。
苦しい。
殺して。
死の間際の幻聴かと思った。
ピアノの音が聴こえる。それは知っている曲だった。
私の好きな夜想曲第5番『黎明』――。
「もう……しょうがない子ね……」
私の目から流れていく涙は、恐怖の涙ではなくなっていた。
以前、酔った勢いでナハトで即興の歌詞をつけて歌ったことがあった。
夜が明けないでほしい。
ずっと夜のままがいい。
酔っぱらっていたから歌詞なんてほとんど覚えていないけれど、朝を拒む歌を歌ったのは覚えている。
それを偶然通りかかった貴方が聴いて、私に会うためにナハトへ来てくれた。
私が貴方のピアノの隣で歌うことを願って――。
私と貴方が出会ったこと……。偶然ではなく、運命だったと思うことにするわ。
だって、その方が素敵だもの。
最後に貴方の夢を叶えてあげる。
隣にはいられないけれど。
いつでも心は貴方の隣にいるわ。
かすれる声を響かせた。
渇きで裂けそうな喉を震わせて――。
離れた場所できっと泣きながらピアノを弾いているであろう貴方に届くように。
怖い夜を抜けて、希望に輝く黎明に向かって生きていく貴方へ捧げる歌を歌ってあげる。
いつしか痛みは消えていた。
もうなんの感覚もない。
ただ朝日で輝く青い空がきれいだった。
光を浴びるのがこんなにすがすがしいなんて思わなかった。
ありがとう……。
最後に、この言葉が貴方の耳に……
届いてます……
……よう……
……に……
・‥…━━━━━━━…‥・
近づくだけで呪われると噂のある古い小さな城がある。
ある酔狂な貴族がそこを自分の別荘にするために、その古城の調査へ人を向かわせた。
調査に雇われた男は、朽ち果てた城の大広間に、完全に骨と化した死体を見つけた。
骨にわずかに残る服の布地の傷み加減から、死んでからかなりの年月が経っていることがうかがえた。
調査に来た男は怖いもの知らずで、呪いや悪魔の類は何も信じていなかった。
何かを隠すようにも見える奇妙な姿勢の死体に興味を惹かれ、男はその骸骨を足でひっくり返してみた。
骨は脆く、床に当たった衝撃であっけなく崩れ、黒く錆びた短剣が床に転がった。
床に落ちた短剣の音が広間にけたたましく響く。
まるで無遠慮に踏み込んだ男に抗議するかのように――。
うつ伏せの骸骨が守るように抱え込んでいたもの、それは黒く固まった灰の山だった。
金目のものでなかったことに落胆した男は、無造作にその灰と骨の残骸をかき集めると、窓の外へと捨てた。
強い風が吹き、捨てられた灰と粉々になった骨は混ざり合い、跡形もなく消えていく。
この城を欲しがる貴族は、人から注目を浴び、賞賛されることを何よりも欲してはいたが、本当に呪われている城であれば手を出せない臆病者であることを男は知っていた。
死体があったという事実は、調査に来た男にとって不都合なものだった。
この男にとって、この城が黒魔術や悪魔崇拝の場所かもしれないといったことはどうでもいい。
『この城には何も問題はなかった。呪いはただの噂だった』
そう貴族に伝えて、謝礼を手にすることができれば、男にとってそれ以外のことはどうでもいいことだった。
この城は今も現存し、観光客を迎えているという。
もしかしたらあなたも訪れることがあるかもしれない。
この城でどんな悲劇が起きたのか、それは誰も知らない。
城に残っていた死体のことも、誰も知らない。
あの彼は――……。
恋人と共に死ぬために、自分の胸に短剣を刺したのだろうか。
それとも、恋人を蘇らせ、再び共に生きようと自分の血を灰に注いだのだろうか。
それは――誰も知らない。




