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第99話 奪われた契約

南区第三倉庫街の外れ。

表札の消えた小さな酒店の前で、レンセリオンは静かに足を止めた。


かつて白光酒を扱っていた店だが、独占権を奪われ、すでに廃業に追い込まれたらしい。


(……これが“意志を奪う”罪だ)


ノックすると、不安げな顔の男が戸口から顔を覗かせた。

白髪混じり。だが、背筋はまだ折れていない。


「王国騎士団……第四、でございますか?」


「はい。被害状況を伺いに参りました。店主のエルマン・ドーヴル氏でお間違いないですね」


男は小さくうなずき、レンセリオンを中へ招いた。


店兼住居の一階は棚がすべて空になり、かつて並んでいた瓶の跡だけが残っていた。


エルマンは椅子に沈み、しばらく口を開けなかった。

レンセリオンは急かさない。


やがて、ぽつりと声が落ちた。


「……わたしには、共に働く相棒がおりました。マルク・ブリエル。白光酒の調整も任せられる、腕のいいヴィニュロンで……あの男がいたから、この店も続けられたようなもので……」


マルク。レンセリオンは胸中で静かにその名を刻む。


「そのマルクが、先月……結婚をしまして。“妻を紹介したい”と、夕食に招かれたのです。それはまぁ……嬉しかったですよ。家族のいない身ですから……本当に嬉しかった」


言葉は優しいのに、声だけが震えていた。


「その夜……マルクと妻のヴィオラさんが、祝いだからと白光酒を開けましてね。ふたりは楽しそうで……わたしにも勧めてくれたのですが……」


エルマンは苦い息を吐いた。


「……実は、少し前から体調を崩してまして。周りにも“酒は控えろ”と言われていたんです。だから、白光酒は断りました」


レンセリオンの眉がわずかに動く。


エルマンは続けた。


「それでも、料理は普通にいただきました。……ですが、食事の途中からどうも記憶が曖昧で……」


額に手を当てるエルマン。

その仕草は、思い出すこと自体が苦痛だと言っていた。


「気づいたら……外で衛兵に保護されていました。どこをどう歩いたのかもまったく覚えていません。マルク夫妻と食事していたはずなのに……」


喉が震える。


「保護されたとき、わたしは大きな鞄を背負っていました。中には……大金と、白光酒の“特定物資の独占取引権”を《ナイトクロウ商会》へ譲渡した契約書が……」


エルマンは首を振った。


「……そんな契約、した覚えは一切ありません」


レンセリオンは静かに耳を傾け続ける。


「すぐにマルクの家へ戻り、抗議しました。ですが……」


声がかすれる。


「『契約したのは俺じゃない、あんただ』と言われてしまって……」


沈黙。裏切りの痛みが、部屋の空気を重くする。


「……信じたかったんです。マルクが私を裏切るはずがないと」


エルマンは俯き、震える声で続けた。


「夕食の卓は、そのまま残されていました。ですが……記憶が途切れる前にはなかった小瓶が、テーブルの端にあって。……どうしても気になってしまって、ルクヴェルガラス製ではない、色付きの異国の小瓶。ふたりが目を離した隙に……その小瓶を盗んでしまったんです」


レンセリオンの視線がわずかに鋭くなる。


「それを、提出されたのですね」


エルマンは小さく頷いた。


「はい……。なぜそんなことをしたのか、自分でも分かりません。でも……“あれだけはおかしい”と……身体がそう感じたんです」


エルマンの声は震えていたが、その震えには嘘がなかった。


レンセリオンは静かに息を吸った。


(酒を飲んでいない。なのに記憶が飛び、契約書と大金。――“何か”が混ぜられた)


レンセリオンは、そっと拳を握った。


(これは……偶然ではない)

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