第92話 風なき姫
宿舎の奥――
白銀の紋章が掲げられた静かな玄関ホールで、
レンセリオンは手帳に目を落としていた。
テルメナ王子を出迎えた後、
次に到着するのはスィルファリオンの王女。
(……“風を失った姫”と呼ばれる方。だが、噂で人を測るつもりはない)
――コロン、と軽い車輪音が石畳を叩いた。
(馬車が近づいている……)
レンセリオンは顔を上げ、呼吸を整えると白銀の鎧の胸元を指先で正した。
そのまま扉の前へ歩み出る。
取っ手に手をかけた瞬間、差し込む朝光が白銀に反射して淡く揺れた。
そして――扉を開く。
外の石畳には、まだ朝の冷気が残っていた。
やがて澄んだ車輪の音が近づく。
スィルファリオン王家の紋章を掲げた馬車だった。
レンセリオンはわずかに息を整える。
馬車が玄関前で止まり、ゆっくりと扉が開いた。
薄緑の刺繍がかすかに揺れ、
淡銀の髪の姫が姿を現す。
スィルファリオン第一王女、アルメア・アルシェ・スィルファリオン。
風は吹いていない。
それでも彼女の周囲には、ふわりとした“揺らぎ”があった。
――風が戻らぬ、静寂の気配。
レンセリオンは歩み寄り、静かに一礼する。
「ようこそ、スィルファリオン王国第一王女殿下。
ご到着を心より歓迎いたします」
アルメアは深く礼を返し、わずかに目を伏せて言った。
「お心遣い、感謝いたします。
……貴国の風は静かで、凛としていますね」
(風読の才がなくとも――言葉に含まれる“理”は感じ取るのか)
レンセリオンは穏やかに応じる。
「我が国は、スィルファリオンの理を尊んでおります。
どうか、ご滞在が穏やかでありますように」
アルメアの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
それは誰にも気づかれないほど小さな変化だったが――
確かに“風の欠片”がそこにあった。
案内役に導かれ、アルメアは宿舎の中へと消えていく。
その背が見えなくなった後、玄関前にひとすじの風が通り抜けた。
レンセリオンはふと視線を上げる。
――木陰に、二つの気配。
やわらかな光を帯びた少女と、湖の底のように静かな気配。
(……リリナ姫と、エリオン殿か)
どうしてここに――そう思いながらも、不思議と違和感はなかった。
むしろ自然だった。
スィルファリオンの姫の到着を、静かに見守っていたのだろう。
レンセリオンは胸の前で息を整える。
(……ならば、挨拶に向かうのが礼というものだ)
歩き出す。
白銀の鎧に朝光が反射し、やわらかな光の輪が広がった。
石畳に響く足音は規則正しく、それでもわずかに早まっている。
(……昨日、あの噴水で見せた笑顔。あの光が――また、そこにいるのか)
距離が縮まる。
リリナが驚いたように目を瞬かせ、
エリオンが小さく微笑んだ。
レンセリオンは足を止める。
そして――
「こんにちは、リリナ姫」




