第152話 濡れ髪の夜、静かな約束
レンセリオンの部屋。
大きく開け放たれた窓から、夜風がそっと吹き込んでいる。
先ほどの“香”を外へ逃がそうとしているのだと、すぐに分かった。
リリナは入浴を済ませ、淡い色のワンピースに着替えていた。
ソファの端に腰かけ、慎ましく手を重ねている。
隣には、レンセリオン。
ふと視線を向けると――
彼もまた、入浴を終えたばかりのようで、
白銀の髪の先に、まだ水滴が残っていた。
(……濡れ髪……そんなの、ずるい……)
胸が、どくんと鳴る。
その高鳴りが、香の余韻なのか――
それとも、別のものなのか。
もう、分からなかった。
リリナはそっと息を吸い込む。
香りは――もうしない。
代わりに、夜風に揺れる彼の髪から、
かすかな清潔な匂いが届いた。
その瞬間。
レンセリオンと、目が合う。
互いの視線が、引き寄せられるように重なり――
リリナの心臓が、また跳ねた。
レンセリオンの瞳も、わずかに揺れている。
「……先ほどは、すみません。」
レンセリオンが、静かに口を開いた。
リリナは慌てて首を横に振る。
「私の方こそ……レンセリオン様の、私物を勝手に触ってしまって……」
「私物……」
その言葉に、レンセリオンの表情が一瞬だけ固くなる。
何かを言いかけて――
「……あれは、その……いえ。なんでもありません。」
結局、言葉を飲み込んだ。
セリナの言葉が脳裏をよぎる。
リリナも、それ以上は聞かなかった。
⸻
静かな沈黙。
窓からの風がカーテンを揺らし、
蝋燭の灯りが、ふたりの影をやわらかく揺らしている。
その静寂を、レンセリオンが破った。
「……帰国される時ですが」
リリナは顔を上げる。
「僕と……第四騎士団が、セレフィアまでお送りいたします。」
「え……でも、そんな……レンセリオン様が直々に……」
次期王子が他国まで同行するなど、本来ありえない。
断ろうとした、その瞬間――
レンセリオンが、ほんの少し照れたように微笑んだ。
「僕は、まだ一度も……セレフィアの地に触れたことがありません。」
静かに続ける。
「講義で、あなたが話してくださった森も……光も……
すべて、この目で見てみたいと思ったんです。」
リリナの呼吸が、止まる。
「リリナが好きだと言った場所を……
あなたと一緒に歩きたい。」
頬が、一気に熱を帯びる。
視線を逸らせないまま、リリナは小さく頷いた。
「……ルナにも、会ってください。」
「ルナ?」
「はい……子犬です。
セレフィアから戻る時には、一緒に連れて行きたいんです。」
レンセリオンは、わずかに言葉を止めた。
ほんの一瞬だけ、視線が揺れる。
「……犬、ですか。」
小さく息をつき――
それから、やわらかく目を細めた。
「ええ。……必ず、会いましょう。」
⸻
ふたりは、ゆっくりと微笑み合う。
夜風だけが、静かに流れる。
その穏やかな時間が――
まるで、ふたりの間に生まれた“新しい始まり”を、
そっと祝福しているかのようだった。




