第150話 危険な香り、揺れる理性
レンセリオンの部屋の扉を、そっとノックした。
わずかな静寂のあと――
扉が開く。
その瞬間。
レンセリオンが、息を呑んだのが分かった。
リリナは晩餐会のドレス姿のまま。
胸元には、“光花”の首飾りがやわらかく光を返している。
「き、着替えずに来てしまいました……。
着替えた方が……よかったですか?」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
レンセリオンは一瞬だけ目を瞬かせ、
「いえ。僕も、まだ着替えていません」
静かに微笑んで、リリナを中へと通した。
⸻
彼はちょうど袖口の留め金を外し、
腕をまくっていたところだった。
(……急がせてしまった?)
ほんの少し、申し訳なくなる。
ふと視線が重なる。
レンセリオンの視線が、
リリナの胸元――首飾りへ落ちた。
それに気づき、リリナはそっと触れる。
「とても……気に入っています。」
照れくさく微笑むと、
レンセリオンもやわらかく笑った。
「私からも……何か、レンセリオン様に贈りたいです。」
そう言いながら、鏡台に映る自分へ視線を向ける。
首飾りが揺れ、胸の奥があたたかく満ちる。
(……幸せになりたい。ちゃんと。)
その想いが、静かに広がった。
⸻
その後ろ姿を――
レンセリオンは、じっと見つめていた。
「……すごく、綺麗です。」
鏡越しに、視線が合う。
次の瞬間。
レンセリオンが歩み寄り、
そっと背後に立った。
リリナの心臓が、大きく跳ねる。
「……リリナ。」
名前を呼ぶ声が、近い。
そのまま――
腕がやさしく肩を抱いた。
背後からの抱擁。
体温が、じわりと伝わってくる。
鏡越しに目が合い、
ふたりの間に、照れたような笑みがこぼれた。
「……このままで。振り向かないでください。」
「ど、どうして……?」
声は小さい。
けれど――
理由は、もう分かっていた。
この距離が、心地いいから。
リリナは、そっとその腕に手を添えた。
⸻
そのとき――
鏡台の上に、小さな瓶が目に入る。
(……これは?)
異国風の小瓶。
気になって、そっと手を伸ばす。
触れた瞬間――
カチ、と蓋が外れた。
レンセリオンの視線が、鏡越しに鋭く動く。
「それは――っ!!」
その声が焦りを帯びた瞬間、
リリナは驚き、
思わず指が滑った。
シュッ!
霧状の液体が、ふわりと舞う。
リリナの胸元へ、降りかかった。
「きゃっ……冷たい……!」
慌てて胸元を押さえる。
レンセリオンは素早く小瓶を奪い取り、
そのまま腕で顔を覆った。
「え……?」
目だけが覗く、白銀の髪の王子。
だが――様子が明らかにおかしい。
「レンセリオン様……?」
困惑しながら見つめて――
思わず、笑いがこぼれた。
「ど、どうしたんですか……?」
レンセリオンは、必死に首を横に振る。
腕を外そうとすると――
頑なに離さない。
「離してくださいっ、もう!」
ふたりで引っ張り合う、その最中。
ふわりと――
甘い香りが、広がった。
(……え?)
リリナは、はっとする。
胸元へ視線を落とし、香りを確かめる。
「……香水……ですか?」
顔を上げると、
レンセリオンはすでにソファの向こうへ避難していた。
荒い呼吸を、必死に整えている。
「レンセリオン様!」
近づこうとした瞬間――
「こ、これは……怪しい商会から貰ったものなんだ!」
小瓶を掲げ、必死に説明する。
「怪しい……商会?」
「第四騎士団の調査対象で……!」
よく分からないまま、リリナは頷く。
「入浴された方がいい。」
「えっ!?」
思わず声が裏返る。
「これ、肌荒れするんですか!?」
レンセリオンは一瞬きょとんとし、
すぐに近くの布を手に取った。
ゆっくりと歩み寄る。
そして――
香水のかかった胸元を、そっと拭った。
「あ……ありがとうございます……」
恥ずかしい。
けれど――
その優しさが、胸を熱くする。
視線が、重なる。
レンセリオンは深く息を吸い――
小さく、しかし確かに告げた。
「……俺の理性が飛ぶ前に。
どうか、入浴してきて……。」
「……っ!?」
全身が、一気に熱を帯びる。
(ど、どういう意味ですか!?この香り……何!?)
混乱のまま一歩下がる。
「き、着替えてきます!!」
叫ぶように言い残し、
リリナはそのまま部屋を飛び出した。




