第131話 消えた紋、胸に残る熱
リリナを腕に抱え、レンセリオンは聖鏡の間を後にした。
日々の鍛錬で体力には自信がある。
だが――女性を長時間抱えて歩き続けられるほどではない。
ましてや、階段を下りるとなればなおさらだ。
それでも。
今のリリナは、驚くほど軽かった。
まるで幼子を抱いているかのような、
重さを感じさせない軽さ。
四階……三階……二階……。
階を下るたび、レンセリオンは腕の中の少女をそっと覗き込む。
呼吸は穏やかで、規則的。
苦しそうな様子はない。
だが――どこか“現実感”が薄い。
(……軽すぎる)
その違和感が、胸の奥に引っかかったまま離れない。
やがて塔の扉を押し開く。
外へ一歩踏み出した、その瞬間――
リリナの身体に、“本来の重み”が戻った。
「……っ」
思わず抱え直す。
腕にずしりと伝わる重さ。
その変化が、かえって胸をざわつかせた。
(……今のは、何だ)
扉前で待機していた御者が気づき、慌てて駆け寄る。
「レンセリオン様……!? な、何が――」
「すまない。城まで飛ばしてくれ」
短い言葉。
そこに滲む焦りに、御者はそれ以上を問わなかった。
すぐに馬を整える。
レンセリオンはリリナを抱えたまま馬車に乗り込んだ。
扉が閉まり、室内に静けさが落ちる。
揺れる光が、金具や窓枠に反射し、
まるで小さな鏡のように自分の姿を映した。
その一瞬――
レンセリオンは、視線を止めた。
「……紋が……?」
首筋へ手をやる。
さっきまで確かにあったはずの光の紋が、
どこにも見当たらない。
胸元に触れる。
皮膚は静かで、ただの温もりしか感じられなかった。
金具に映る自分の姿を確かめる。
そこにあるのは――いつもの首筋。
何も刻まれていない。
(……確かに、あったはずだ)
あの時――
光は確かに、走っていた。
だが今は、跡形もない。
御者が手綱を引き、馬車が大きく揺れる。
「急げ」
短く告げる。
馬車は勢いよく走り出した。
揺れの中で、レンセリオンは眉をわずかに寄せる。
あれは錯覚だったのか。
聖鏡の間だけの現象だったのか。
それとも――
腕の中のリリナを見下ろす。
静かに眠るその姿。
紋は消えた。
だが――
胸の奥に残る熱だけは、消えていなかった。
まるでそこにだけ、
まだ光が息づいているかのように。




